第34隻
ナタリーは目の前の光景に興奮していた。
元々圧巻の光景ではあったが、新しくなった城壁は、見違えるほど立派になった。
アンカー辺境伯領で迎える、2度目の夏。
ついに城壁の補修工事が完了した。
ミゲルがアンカー辺境伯領を訪れた後。
ナタリーはミゲルからの提案を受け入れるのはどうか、とケヴィンに相談した。
何か裏があるのではないかとキールに探らせたが、特に怪しい動きは見られなかったという。
であれば、本当に純粋な事業協力の申し出の可能性が高い。
条件としては、アンカー辺境伯領にとって最高だ。
懸念するとすれば、これまで外部の者が殆ど出入りすることがなかった土地に、多くの者が出入りするようになるということだろうか。
けれどそれは、運河の建設と城壁の補修工事で既に起こっていた変化である。
その範囲が広がるだけだと考えれば、対処の仕方は同じだ。
一人の事業家として、ナタリーはこの提案を受けるべきだと強く思っていた。
「鉄道の敷設? ……確かに、願ってもない話だ。私は賛成だが……その、あなたが良いのであれば」
ケヴィンは複雑そうな顔で賛同した。
やはり気になるのは、事業内容ではなくミゲルの存在だ。
そもそもミゲルと離れたいがためにケヴィンに婚約を持ちかけたというのに、わざわざその元婚約者と関わりを持つなんて、ナタリー自身もどうかしていると思う。
けれどそれを置いてもなお、ミゲルの提案は魅力的だったのだ。
ケヴィンに呆れられるのではと不安だったナタリーだが、どちらかと言うとナタリーがアンカー辺境伯家の為に無理をしているのではないか、と心配している様子に見える。
そんなケヴィンの優しさに、ナタリーはまた胸が締め付けられるような愛しさを感じたのだった。
ミゲルと正式に協定を結び、鉄道の敷設計画について何度か打ち合わせの機会を設けたが、依然、ミゲルはバース子爵家の次期当主としての面目を保っている。
もうすっかり正気を取り戻しているように思えた。
事業経営の手腕もなかなかのものだ。
ここに来て、ミゲルは目覚ましい成長を遂げていた。
打って変わって、ボラード伯爵家ではかなりの騒動があったらしい。
そもそもボラード伯爵の更迭を受け、伯爵家は窮地に立たされていた。
歴代優秀な官僚を輩出してきた家門であるボラード伯爵家にとって、大臣更迭は大いなる恥だ。
当然、元はと言えばボラード伯爵の不正が原因である。
恨むなら欲を掻いた自分を恨めば良いものを、全ての元凶はサラとミゲルの不倫だと、ボラード伯爵は大層サラを責め立てたらしい。
ついには、フィリップとサラの離婚話が浮上する。
フィリップも承知の上でのことだったにもかかわらず、彼は傍観することに決めたらしい。全くの無関心を貫いていた。
都合が良いと結んだ婚姻だった為に、サラに対し情の一つもなかったのかもしれない。
状況はサラに圧倒的に不利な方向へと展開し、このまま離婚するのかと誰もが思った。
だが何故か離婚はせず、サラはまだボラード伯爵家に留まっているらしい。
サラの父親であるビット伯爵が離婚を許さなかったからだとか、実はフィリップはサラを愛していてボラード伯爵を説得したからだとか、とにかくあらゆる噂が飛び交い、真実は分からなかった。
キールに探ってもらおうかと一瞬考えたものの、もう自分には関係がないことだとナタリーは放置することにした。
害がなければそれで良い。
念の為、何か不穏な動きがあれば伝えて欲しいとだけ、キールに依頼した。
それから、とにかく目まぐるしく時は進んだ。
冬が終わり、春にさしかかった頃には、また城壁の改修工事が再開された。
補修工事は国の直轄工事である。
工事休止の直前、初めて魔獣を目の当たりにした現場監督は、工事をしながらもう一度冬を迎えることは、もう不可能だと直感した。
それほどまでに魔獣は恐ろしく、その戦いは
実際、城壁に頼らない魔獣との戦闘は相当に危険なものだった。
武器が十分に補充された状況でなければ、騎士たちに大きな被害があったことだろう。
新たに大砲が何基も設置され、武器が充足していたからこそ、誰一人命を落とすことなく冬を越えられたのだ。
だが、命を落とすことはなくとも重傷を負い、騎士生命が絶たれた者は、何人か出てしまった。
現場監督は新たな軍事大臣に直接かけ合い、更なる人員の増員と物資の優先的配給、また抵抗を感じつつもアンカー辺境伯家で調教した魔獣を工事に加えることを嘆願した。
現場監督は相当な必死さで訴えたという。それだけ切実な状況だったのだ。
結果、現場監督の要請は承認され、想定の数倍の速さで工事が進められることになった。
工事の期間中、最北の要塞は昼夜を問わず人がひしめき合うような異様な状況であった。
そしてついに、城壁の補修工事が完了したのである。
暗黒の大地に
新しく造り替えられた事で、むしろ神聖さすら感じる佇まいだ。
騎士たちの宿舎も生まれ変わり、彼らからの評判はかなり良い。
環境が整うということは、それだけで士気が上がるものだ。
これだけ急いで工事を行ったというのに、かなりの綺麗な仕上がりにナタリーは驚いた。
まるでじっくり時間をかけて丁寧に造られたかのような美しさだ。
それは、騎士たちの戦闘を目にしたことで、工事作業員たちの意識が変革されたことが大きい。
本当にこの現実離れした最果ての地で、帝国の為に命を懸けて戦っている者がいるのだと。
誰もがその事実に驚愕していた。
話には聞いたことがあっても、実際に目にするのとは訳が違う。
作業員たちは、自ずと騎士たちに感謝と畏敬の念を抱いた。
そして自分たちの仕事に誇りを持った。
自分たちは文字通り帝国を守る盾を造っているのだと。
感情が仕事の出来に作用するというのは、往々にしてあることだろう。
まさにこの城壁は、作業員たちの思いが詰まった仕上がりになっていた。
「これで一安心ですね」
「ああ。武器も豊富になったことだし、戦闘は断然楽になることだろう。これもあなたのおかげだ。ありがとう」
ナタリーと並んで城壁を見上げていたケヴィンは、ナタリーに向き合い、感謝の言葉を述べた。
もしナタリーがいなければ、こうして工事が終わるのは10年後か、20年後、30年後だったかもしれない。
それどころか、工事を始めることすら出来ていたか分からない。
まさかこの短期間で、しかもアンカー辺境伯家の身銭を切らずに完成されるとは、もはや魔法だとケヴィンは思っていた。
「本当に良かったです。この城壁がなければ、そもそもアンカー辺境伯領も、帝国も、安全とは言えませんもの。あとは、運河を完成させるだけです」
つい先日詳細設計を終えて、ようやく運河の建設に着手することが出来た。
運河はまず内陸から徐々に外側に向かうように開削し、最後に海と繋げることになる。
そのため、今は大きな穴がぽっかり空いているような現況だ。
船が複数入れ違えるほどの幅を持たせるには、それだけでかなりの広さになる。
人の手だけで掘り進めるには、かなりの時間が必要だろう。
けれど、どんな硬い地盤も掘り進めることが出来る魔獣、モルドラが良い働きをしてくれている。
元々調教していたモルドラたちだけではない。
冬の間、戦闘の合間に新たな魔獣を何体か捕獲し、調教することに成功していた。
そんな魔獣も、既に工事に入っている。
まだ工事は始まったばかりだというのに、その速度は想定以上だ。
ナタリーはこの順調な流れに、いっそ恐怖を感じていた。
あまりにも上手くいきすぎている。
まるで、これから何か恐ろしいことが起きる前触れなのではないかと。
「考えすぎだ。あなたらしくない」
ケヴィンはそう言う。
ナタリーもその通りだと思う。
本来ナタリーはそうした無駄な心配はしないたちだ。
けれど、今回はどうにも嫌な予感がして仕方がなかった。
翌日、ナタリーはケヴィンよりひと足先に屋敷に戻ることにした。
ケヴィンはまだ要塞内での確認事項があり、ナタリーにもやらなければならないことがあるからだ。
ナミルの馬に乗せてもらいながら、運河の開削状況を確認し、続いて移転したギシャール村を訪ねる。
それがナタリーが先に要塞を出た理由だ。
ギシャール村の様子を確認したかったのだ。
既にギシャール村の人々は、小高い丘の上の頂上に移転している。
運河の設計を踏まえると、そこまで大きく場所を移ることがなく済んだのは幸いだった。
むしろ、日に日に進んでいく開削作業を眺められる特等席だ。
ナタリーの計画に賛同した若者たちは、その様子を毎日のように眺めた。
自分たちの未来が切り拓かれていくかのような気分だったのだ。
そんな彼らの顔を、ナタリーは胸が熱くなるような気持ちで眺めた。
ギシャール村からいくらか南下した辺りで一泊し、更に馬を進める。
屋敷に到着したのは、翌日の昼過ぎだった。
「お帰りなさいませ、ナタリー様」
ユリウスが出迎え、ナタリーはナミルに支えられながらひらりと地面に降りる。
最初の頃は恐る恐る降りていたが、今では堂々としたものだ。
「おお、馬から降りるのも様になってきたな、未来の奥様」
「でしょ? 流石に慣れてきたわ」
「ナミル。いい加減その口の聞き方をどうにかしろ」
ピシャリとユリウスに叱られ、ナミルは両の肩を上げてとぼけた表情をする。
そんなナミルの様子に、ユリウスははあと息を吐き出した。
もう仕方ないというように首を振った後、気を取り直してユリウスはナタリーに視線を向ける。
「それからナタリー様。お客様がお見えになっております」
「お客様?」
ユリウスの言葉にナタリーは首を傾げる。
誰かが訪ねてくる約束はない。
ミゲルもきちんと常識的に先触れを出してから訪問することしかなく、ユリウスの様子から、厄介な人物という訳でもなさそうだ。
ナタリーにはとんと思い当たる人物が居ない。
……いや、一人居る。
「キール様とおっしゃられる方です。それが、急いでナタリー様にお会いしたいと」
「なんですって?」
嫌な予感がする。
これまでキールは、ナタリーが呼んでいないにもかかわらず訪ねてきたことなど一度もない。
キールのことだ。今日ナタリーが屋敷に帰ることは分かっていたのだろうから、直接会いに来た方が早いと踏んだのだろう。
「分かったわ。今すぐ行く」
嫌な予感がナタリーの全身を支配する。
余程のことが起きたのかもしれない。
ナタリーは応接間に急いだ。
「一体何事? キール」
開口一番、ナタリーはそう告げた。
応接間のソファーには、黄色に近い金髪を逆立たせ、金の瞳をした姿のキールが居た。
「やっと帰ってきたか。それがな、かなりまずい状況だぜ」
言いながら、キールがちらりとナミルを見る。
そう言えば、キールと会う時に誰かと同席したのは初めてのことだ。
情報を伝える相手として、ナミルが信用に足るか気にしているのだろう。
「大丈夫。きっと彼にも聞いておいてもらった方がいいことのような気がするわ」
ナタリーの言葉に、キールはがりがりと頭を掻くと、一瞬逡巡した後、再び口を開いた。
「分かった。なら話そう。それがボ」
「失礼します! 一大事ですナタリー様! 副団長!!」
キールの言葉を遮って、若手の騎士が部屋に飛び込んで来た。
血相を変え、ノックすらもせずに扉を開ける様子は、尋常ではない。
嫌な予感が最高潮に達していた。
「シャンクの街に魔獣が現れました!」
騎士の言葉は、一瞬でその場にいた全員を、愕然とさせたのだった。
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