第8隻

 

「はぁ……疲れた……」


 ミゲルたちが帰った頃には、既に太陽は真上から少し傾いていた。

 出来るなら今日このまま皇宮に行きたいと思っていたのだが、この時間ではもう間に合わないだろう。

 とはいえ、大きな収穫はあった。子爵が婚約破棄に同意したのだ。



 ナタリーに婚約破棄を突き付けられたミゲルは、まるで糸の切れた人形のように動かなくなってしまった。

 それを見た子爵は二人が上手くいかなかったのだと察したのか、時に親しげに、時に高圧的にナタリーに迫った。金蔓を手放すまいと必死な様が、むしろ滑稽ですらあった。

 その実、婚約破棄は相手方の同意がなくとも出来る。しかしそれには裁判で破棄の理由に妥当性があることを証明しなければならず、容易なことではない。正直に言って不倫だけでは裁判で勝つには弱いと言える。

 もちろんそうなった時のことも想定しいくつか策は練っていたが、子爵の同意を得るに越したことはない。その方が確実かつ早急に婚約を破棄できる。

 一筋縄でいかないことなど重々承知していたナタリーは、子爵に対して一つの提案を行った。



 バース子爵は炭鉱を保有している。

 昔からその炭鉱の利益で子爵家は繁栄していたが、先代子爵の犯した領地経営の失敗により、一気に資産を失った。

 ちょうどその頃、炭鉱では既存の坑道での採掘量が減り、新たな坑道を掘進くっしんする必要性が出てきていた。

 けれど、その費用がない。バース子爵家は破産寸前だった。

 そこで子爵が目をつけたのが、ファンネル商会である。

 ファンネル商会の主要事業は蒸気機関だ。新しい船の動力源として開発し、その頃既にナタリーの父は若手実業家として成功を収めていた。

 蒸気機関の燃料は石炭。バース子爵はナタリーの父に対し、石炭採掘のための投資を受ける代わり、優先的かつ安価に石炭を販売する取引を持ちかけたのだ。

 結果、ナタリーの父がそれを受け入れたため、バース子爵は安定して石炭の採掘を行うことができるようになった。

 一度傾いた家を建て直すには時間がかかり、ここ数年でようやく余裕が感じられるようになった所だ。

 しかし炭鉱だけでは、これ以上の繁栄は見込めない。新たな炭鉱でも見つかれば話は別だが、現在の炭鉱は採掘量も終わりが見えている。

 そこで、バース子爵は最近話題になっている鉄道事業への参画を目論んだのだ。

 蒸気機関車自体は、試行錯誤の末最近ついに完成した。あとは線路や駅など施設の整備が課題となっている。

 皇都と南部の港町を結ぶ路線を一部着工しているが、完成にはまだ数年かかるだろう。

 だが、ナタリーもこの事業には未来を感じている。時間はかかろうとも、良い結果を生むだろうと思えた。

 現バース子爵の事業の腕は決して悪くない。


 ナタリーはこの鉄道事業への援助を申し出た。

 子爵の出資を一部補填する形で、子爵家に対し金銭を渡すことにしたのだ。

 バース子爵にとって鉄道事業は一世一代の冒険といっていい。だがここでナタリーとの結婚がなくなれば、ナタリーがもたらすはずだった財は見込めない。子爵にとって、そんなリスクのある事を許容できるはずもなかった。

 しかしここで少なくない額が補填されるのであれば、今後への不安が格段に変わる。

 これは『これまで後継者の婚約者としてお世話になった御礼』として支払うもので、見返りは一切不要、その代わり、婚約破棄に同意しなければ、今後一切取引は行わないと突きつけた。


 子爵はナタリーの意志の固さに動揺した。ナタリーが商会長の顔をしていたからだ。

 これまでナタリーは、ミゲルや子爵の前では、ただの若い娘としての顔しか見せなかった。だから油断していたのだ。

『小娘』と嘲りながら、ナタリーに商会長として決断力があることも、こうと決めたら自分の意志を突き通すことも、バース子爵は知っていた。

 ナタリーはきっと、自身の言葉が正当性を欠いていると思わない限り、撤回することはない。

 裁判に持ちこみバース子爵家側が勝ったとして、ナタリーの結婚前の資産と商会はナタリーのものだ。貴族の結婚において女性側が個人資産を持ち事業をすることが想定されていない故か、それがこの国の法律だ。

 つまりナタリーが自らその意思を見せない限り、今後彼女の経済的支援は得られないということだ。

 ともすれば、子爵たちはずっとナタリーの機嫌を取り続けなければいけない可能性もある。


 子爵は長らく険しい顔で熟考していたが、子爵夫人がナタリーの話に乗ったことで、ついに首を縦に振った。

 元々平民であるナタリーを家に入れることに不満があった夫人だ。金が貰えてナタリーを嫁にしないで済むのであれば、その方がいいと乗り気になったのだ。

 ナタリーが感情的にミゲルを拒否し絶縁する様子を見せなかったことも大きい。今後ファンネル商会とは事業上でも付き合いがある。最悪なのは、ナタリーが完全にバース子爵家と縁を切ることだった。


(婚約を継続せずとも、このまま縁が続くならその方がいいかもしれんな。ミゲルに今後も小娘のご機嫌取りをさせれば、復縁もあり得る。ここは引くのが得策か)


 バース子爵は頭の中の計算機を叩きながら、そう決断したのだった。


 ナタリーと子爵はその場で婚約破棄への同意書を書き、事業支援の契約書を整えた。義父と嫁になる予定だった者同士ではなく、各々事業家の顔で条件を整え、サインをする。

 婚約破棄は婚約解消とは違う。破棄する側の申出に対し、申出を受けた側の同意のサインによって成立する。

 これで、全て整った。


 無事整った書類を眺めて、ナタリーはほっと小さく息をついた。

 ふと、視界の端でミゲルがぶるぶると震えているのに気付く。

 それまで書類を眺めながらぼおっとしていたはずのミゲルが、急に立ち上がる。

 そして出来上がったばかりの婚約破棄の書類を力任せにひったくった。


「嫌だ!! 俺は認めない! 婚約破棄なんてしないぞ!!」

「おい! ミゲル!!」


 静止しようとするバース子爵を振り切って、同意書を持ったままミゲルは部屋から飛び出していった。

 あまりの衝撃に、ナタリーは呆然と固まった。

 ミゲルは最低なことをしたが、これまでナタリーに声を荒げるようなことは一度もなかったのだ。

 一人称も普段と違っていた。ナタリーの知るミゲルとはまるで別人のようだ。

 これまで見ていたミゲルの姿は、ほんの表層のものだったのだと思い知った気分だった。


「……同意書なら、予備がございます。もう一度作成していただけますね?」


 ナタリーは一つ息を吐き出して気持ちを整えると、メイドに予備の同意書を持って来させる。

 重要な書類であればあるほど予備を用意していることくらい、ミゲルにだって分かるだろうに。

 彼はあそこまで浅慮な人間だっただろうか。恋は盲目というが、自身の瞳も酷く曇っていたのかもしれないと、ナタリーは自嘲した。



 予備の同意書にも子爵のサインをもらい、子爵夫婦が帰っていた頃には昼を過ぎていた。

 ナタリーは空腹を覚える。朝も十分に食事の時間を取れなかったからかもしれない。

 自分へのご褒美として、好物のムサカを作るよう料理長に命じた。

 じゃがいもなどの野菜を、ミートソースやホワイトソースと交互に重ね、たっぷりとチーズをかけて焼いた料理だ。

 普段は体型を気にしてあまり食べないようにしているが、今日は自分を甘やかしてもいいだろう。

 食事が出来るまで、ナタリーは自室にこもって書類整理と今後の計画を練ることにした。


 婚約破棄に関する書類はナタリーが預かり、皇宮に持っていく手筈だ。婚約破棄を申し出る者が提出する必要があるからだ。

 貴族の婚約やその解消は全て皇宮に届けられる。建前上、全て皇帝が許可をして初めてなされるためだ。といっても、高位貴族でもない限り、皇帝がいちいち口を挟むことはない。要は書類を提出さえしてしまえば、もう婚約破棄が済んだと考えて申し分ない。


 ナタリーはペンを止めて、先ほどのミゲルの様子を思い出した。

 一瞬彼のことが心配になったが、すぐにそんな義理はないと頭を振る。

 もう、自分には何も関係のない人だ、と。


(次はアンカー辺境伯との婚約ね。ああ、やることが一杯だわ……)


 ミゲルを頭から追い出して、未来のことを考える。

 アンカー辺境伯に輿入れをするにあたって、辺境伯領のことをよく知らなければ。

 既にキールから届けられた細かい報告書には目を通したし、本もいくつか頭に入れている。

 けれど、ナタリーは魔獣を見たことがない。というより、この帝国のほとんどの人間は見たことがないだろう。

 それも全て、アンカー辺境伯とその私兵であるスラスター騎士団がこの国を守っているからだ。

 バース子爵領とは全く違った課題を抱えているアンカー辺境伯領のことを少しでも早く理解できるようにと、ナタリーは意気込んだ。


 もう一度、魔獣に関する本がないか書庫に探しに行こうと立ち上がった時、壁に飾られた天使の絵画が目に入った。


 そこでふと、癖の強い金髪を思い出す。

 幼い頃のミゲルは、まるでこの絵画の天使のような髪型をしていた。

 あれは婚約をして初めてのナタリーの誕生日だったか。

 可愛らしい綿毛のような金髪をふわふわとさせながら、頬を染めて一輪の赤い薔薇を差し出した、かつての少年。

 あの頃は良かった。

 楽しいことも、嬉しいこともたくさんあった。それは確かだ。


(けれど……これでおしまい。さよなら。初恋の人)


 ミゲルのことを、本当に愛していた。初恋だった。

 初恋は実らないと言うが、それは本当なのかもしれない。

 絵画に背を向けて、ナタリーは一人、涙を流した。

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