第9隻
翌日。
ナタリーは朝早くから支度を始め、皇宮へと馬車を走らせた。
自身が持っている服の中で最も上品で清楚なドレスを選んだからか、自然と背筋が伸びる。
皇宮までの距離はさしてないが、なにぶん入るだけでも大変な手続きが必要だ。
顔を見せるだけで簡単に足を踏み入れられる高位貴族たちが羨ましいと、皇宮に来るたびにナタリーは思った。
「休憩中にごめんなさい、ロレイン」
「ナタリー! この前は急に帰ってしまって心配したのよ。体調はどう?」
皇宮の行政棟。その中庭。
ナタリーは親しい友人であるロレイン・ブリッジを呼び出した。
ミゲルがパーティーでナタリーの行方を尋ねた、あの男爵令嬢である。
彼女は貴族令嬢でありながら、官僚として皇宮に出仕している。父親であるブリッジ男爵は領地を持たない官僚であり、その父に倣って同じ道に進んだのだ。
ロレインの方がナタリーよりも一つ上であるが、パーティーで出会って以来、親密な関係を続けている。女性が働くということにまだ抵抗の多いこの時代に、互いに息が合ったのだ。
女性官僚はいまだ数が少ない。それでもロレインは自身の能力一つで、法務大臣の補佐を務めるまでになっていた。
「ええ、大丈夫よ。心配してくれてありがとう。それでね、今日は婚約破棄の書類を提出しに来たの」
「婚約破棄!?」
驚き目を白黒させるロレインを落ち着かせ、ナタリーは事の顛末を語った。
このまま黙って婚約破棄をしては、周囲から何を言われるか分かったものではない。せめて近しい人たちには、自分の状況を知ってもらいたかった。
不倫など隠す必要もないと思っているのか、特にこのことを口外しないという約束は交わしていない。
ならばナタリーがミゲルやサラのために口を閉ざす必要はないだろう。
「まあ……! 本当に!? あのバース小子爵様がそんなことを!? あんなにあなたと仲が良かったのに……。信じられない。人間不信になってしまいそう!」
「そうよね……。どうやら、私の見る目がなかったみたい」
「彼でさえそうなんて、私に結婚は難しすぎるわ!!」
ロレインは仕事が恋人のようなもので、いまだ婚約を結んでいない。
貴族令嬢としては異例中の異例だが、父であるブリッジ男爵は無理に結婚をさせるつもりはないようだ。ロレインには兄がいるから、後継者の面で心配がないというのもあるだろうが。
ロレイン自身、口では結婚を気にしているように言うが、あまりその気がない。
ナタリーもそのことはよく分かっていた。
「それで……これからどうするつもり? ナタリーの場合、私のように独身というのも難しいでしょう? 飢えた狼の群れに極上の肉を差し出すようなものだもの」
「そうね。うちの商会は今年も順調だし……。手に入れたいと思う人は多いでしょう」
ロレインの心配を、ナタリーはファンネル商会や彼女の資産を狙う者たちのことだと解釈した。
それも大いにあるのだが、実際はそれだけではなかった。
ロレインから見ても、ナタリーは魅力的な女性だと思う。
栗色の髪は艶やかで、アンバーの瞳は彼女の知性を表すように穏やか。すらりと背が高く、理知的な美しい女性だ。
一見冷たそうに見えるものの、少しでもナタリーと話せば一切そんなことはないと分かるだろう。よく笑顔を見せ、人懐っこさもある。
しかしはっきりと自分の意見を言い、芯がしっかりとしている。
ファンネル家の資産を抜きにしても、ナタリーを妻にしたいという男は多いだろう。
(その辺りのことには疎いのよね。商談での自分の魅せ方は知っているのに、ホント不思議)
内心ロレインは首を傾げるも、結局、それもナタリーの魅力のうちの一つなのだと思い直した。
「だからね、アンカー辺境伯に結婚を申し込んだの」
「ア、アンカー辺境伯!!? あの『北の怪物』に!?」
あまりの衝撃に、ロレインは素っ頓狂な声をあげてしまった。中庭に居る人々が一斉に二人を見る。
「ちょっと! 声が大きすぎるわ!」
「ご、ごめん……」
二人は慌てて声を顰め、肩を寄せ合うようにひそひそと話し始めた。
「それで、アンカー辺境伯だなんて本気!? 彼の前妻がどうなったのか知っているでしょう!?」
「知っているけれど……実際に会ったらそこまで恐ろしい人ではなかったわ。確かに険しい土地だけれど、領民も平和に暮らしているようだし」
「もう会いに行ったの!? まったく! 少しくらい相談してくれても良かったのに!」
「ごめんなさい。善は急げと思って……。それにね、ロレイン。心配してくれるのは嬉しいけれど、私ももう子供じゃないわ。ちゃんと自分のことには責任が持てるから」
いつも自分を気遣ってくれる、優しい姉のような存在。
これまでのミゲルを除けば、ナタリーが最も気を許しているのがロレインだ。
有難いと心から感謝をすると同時に、彼女にこれ以上の心配をかけたくないとも思う。
「大丈夫よ。もし上手くいかなかったとしても、商会の仕事に専念するだけだもの。アンカー辺境伯とね、最低4年は関係を継続してくれるよう約束したの。婚約期間が1年で、結婚してから3年。きっとその頃には、結婚適齢期を過ぎているもの」
この国の女の旬は短い。
ナタリーは現在21歳。あと4年もすれば、もう完全に行き遅れと言えるだろう。そうなれば、心配事も減る。
せめてその時まで、関係が継続出来ればそれでいいとナタリーは思っていた。
ケヴィンには、婚約期間中にもし不満があれば言って欲しいと伝えてある。
ナタリーもその間に見極めるつもりだ。婚約期間はいわば試用期間である。
「そうは言っても、あのアンカー辺境伯よ……。はぁ……。あなたは一度言ったら聞かないものね。お願い。辛いことがあったら、必ず連絡すると誓って。いつでも迎えに行くわ。もちろん、あなたから来てくれても構わないから」
「ありがとう……」
本当に良き友達を持ったものだと、ナタリーは胸が震えた。
大丈夫。天涯孤独の身とは言えど、自分にはきちんと味方がいる。そう思えた。
「じゃあ、さっさとクズ男との婚約を破棄してしまいましょうか! 執務室に案内するわ!」
「もう! 口が悪いわよロレイン!」
これではどちらが貴族令嬢だか分からないとナタリーは苦笑する。そんな気さくさに、救われる思いだった。
二人はロレインの執務室へと向かい、申請者と官僚の立場になって書類のやり取りを行った。
ロレインの上司である法務大臣は、貴族の婚姻の管理を行なっているのだ。
この国には宰相の下に四人の大臣がいる。法務大臣、外務大臣、財務大臣、軍事大臣だ。
しかし実質、それぞれの分野に当てはまらない諸々は、全て法務大臣へと持ち込まれる。故に、最も多忙であるが、最も権威があるのが法務大臣だ。
普段から「もっと他の大臣も仕事をしろ」とぼやいている上司に、内心そうだそうだと肯首しているロレインも、この時ばかりは自分の職務に感謝した。
「確かに受け取ったわ。大臣閣下の決裁を受けたら、確実に陛下にお見せするから安心してね」
「ええ。その……万一にも却下されることはないわよね」
「大丈夫よ。私が出仕してから一度も許可されなかったことはないし、過去の前例を探ってもそんなことほとんどないと思うわ。安心して」
その堂々たる言い振りに、ナタリーは安堵の息を吐き出した。
「そう。ありがとう。どうかよろしくね」
「ええ。任せて」
ロレインの笑顔に見送られ、ナタリーは皇宮を後にした。
予想通り手続きと待ち時間に長くかかり、既に午後のお茶の時間も終わりかけといった時間だ。
(待ち時間に皇宮の図書館で本を借りられたのは良かったわ。家の書庫ではやっぱり限りがあったもの。アンカー辺境伯領と魔獣のこと、少しは理解できればいいのだけれど)
ナタリーはいくつかの本を手に持ち、晴れやかな気持ちで馬車へと急いだ。
これで全て終わったのだと、自然と笑顔が漏れる。早く帰って本に目を通したい。
もう過去には縛られない。見るのは、未来のことだ。
ちらりと、ロレインの心配そうな顔を思い出す。
(大丈夫。大丈夫よ。どうにかなるわ)
当然不安がない訳ではない。
果たしてアンカー辺境伯を選んだのは正解だったのか。今後の自分はどうなるのか。
今は誰にも分からない。
ならば、考えても仕方がない。ただ前を向いて進むだけだ。
ナタリーはそう自分を叱咤して、家路へとついたのだった。
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