第10隻

 ガタガタと車輪の音がする。

 馬車に揺られながら、ナタリーは窓の外を眺めた。

 相変わらず気温が低い。

 けれど前回よりもきちんと厚着をしてきたために、さほど寒さを感じなかった。

 これからの新生活への期待が寒さを忘れさせるのかもしれない。

 ナタリーは、希望を胸に窓の外を眺めた。



 皇宮を訪れた日から、ナタリーはアンカー辺境伯領に移り住む準備で慌ただしく過ごしていた。

 ケヴィンとの最初の話し合いで、ナタリーはアンカー辺境伯家の屋敷で暮らすことを決めていたのだ。女性が婚家のしきたりを学ぶために、婚約期間中家に入ることは珍しいことではない。

 皇都で暮らすのであればわざわざ相手の家に住むことはないが、今回は距離が距離だ。ナタリーとケヴィンは、お互いを知るためにも、婚約期間から一緒に住むことを決めた。


 気温が違いすぎるため、今ある衣類をそのまま使うことはできない。そうなると荷物はぐっと少なくなる。

 元々この秋にはバース子爵家に嫁ぐつもりであったから、商会の運営方法はある程度の整理は出来ていた。

 ただ、アンカー辺境伯家の場合、皇都のタウンハウスには社交シーズンに数日滞在するだけのようであるし、生活の基盤は領地だ。

 基本的に皇都で暮らすバース子爵家とは違い、距離がある。ナタリーの気掛かりは、商会の役員たちとの連絡手段だった。

 検討の結果、ナタリーは通信魔道具と移送魔道具を使うことにした。


 ナタリーはキールに依頼し、丁度いいアンティークの魔道具を探した。

 そして大金を叩いて二種類の魔道具を手に入れたのだ。

 水晶のような球体の通信魔道具を使えば、相手の声や映像を映しだしやり取りすることができる。

 またごく小さい額縁のような移送魔導具は、本一冊分程度の大きさのものを転移させられる魔道具である。要は超小型版ゲートと言えるだろう。これで書類のやり取りにも困らない。

 良いものを手に入れたとナタリーは笑顔をこぼした。


 今回はゲートを使わず、馬車で向かう。ゲートは人一人分しか通すことが出来ないからだ。

 最低限とはいえ荷物が馬車1台分はあるし、道中の環境を知っておくことも大事である。

 ナタリーは鉄道事業が形になっていればと考え、だとしても北部には鉄道を通す計画がないなと思い直した。


 皇都を発って、早半月。

 ようやくアンカー辺境伯領まで辿り着いた。

 アンカー辺境伯領に入った途端に気温が下がることが分かる。それは辺境伯領と隣の領地との間に山脈があるからだろう。

 なるほど、雪が深くなればこの山脈を越えることは確かに不可能だと思われた。

 アンカー辺境伯領の地形は少し特殊だ。

 急峻きゅうしゅんな山脈を背に広がるのはシャンクの街。そしてその先にはまるで砂時計のようにくびれた地峡ちきょうが続いている。

 寒々とした漁村が点在する地峡を進めば、人と魔獣とを隔てる城壁にぶつかる。

 冬になれば、スラスター騎士団はこの城壁の中央にある要塞に詰め、日夜魔獣との戦闘に明け暮れるという訳だ。

 東西に海、南に山脈、北は魔獣うごめく北の大地に囲まれた孤独なこの土地は、さながら帝国の鶏冠けいかんである。

 それでいて魔素の影響か魚も大して獲れず、農作物も育たないというのだから、いかに険しい環境であるかよく分かるだろう。


(けれど、やっぱり人々の顔は穏やかだわ)


 道中の村々の様子を眺めては、シャンクの街で感じた第一印象とさして変わらないと思う。

 険しい環境でありながら、人々は静かに穏やかに暮らしている。

 ケヴィンにどういった領地経営をしているのか聞いてみたいと思った。



「よく来てくれた。長旅ご苦労。疲れただろう」


 屋敷でナタリーを出迎えてくれたケヴィンは、いつものマスクをつけながらもぴしりと正装していた。

 彼の背後にはユリウスが笑顔で控えており、ナタリーを歓迎してくれていることが分かる。

 挨拶を交わしながら、ナタリーは思った。

 以前会った時よりも、ケヴィンが凛々しく見える。

 髪と同じ黒いマントを羽織り、髪を後ろに撫でつけた姿は、『北の怪物』と言うよりも、一匹の美しくしなやかな豹に見えた。

 ケヴィンには、この北の大地がよく似合っている。


「ごきげんよう、アンカー伯爵様。多少疲れていますが、これくらい問題ありませんわ。これからお世話になります」


 しばし見惚れ、ナタリーはハッと我に返り、挨拶を返す。ナタリーの言葉に目を細めて頷いたケヴィンは、右手を差し出し屋敷の中にエスコートしていった。

 屋敷の中に入ると、使用人たちが頭を下げて出迎えた。しっかりとナタリーを将来の伯爵夫人として迎えるという意思表示だ。

 ただ、使用人の数はさして多くない。

 アンカー辺境伯家ほどの家であればもっと使用人を雇っても良さそうなものだが、やはり経済的に余裕がないのだろう。


「今日はとにかくゆっくり休んでほしい。後ほど夕食を一緒にとろう。もし、あなたさえ良ければ」

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきますわ」


 にこりと笑顔で応えるナタリーに、ケヴィンは内心ほっとしていた。

 一緒に夕食をとるということは、自身の顔をナタリーが見る可能性があるということ。

 もし拒否されたらと緊張していたが、ナタリーが受け入れてくれたことで安堵する。と、すぐに緊張がまたケヴィンを支配した。

 できる限り、顔を見せないよう気をつけなければいけない。


「ああ、では後で」

「はい。どうぞよろしくお願いいたします」


 ナタリーは深々と頭を下げ、ケヴィンとの会話が楽しみだと思った。




 ユリウスに案内されたナタリーの部屋は、華美な装飾は一切ないが、心地のいい客間だった。


「申し訳ございません。ナタリー様との婚約はまだ正式に整っておりませんから、それまではこちらの客間で過ごしていただきます」

「ええ。もちろん構いませんわ」


 ミゲルとの婚約破棄の書類を提出した数日後、今度はケヴィンと婚約するための書類を提出した。

 同じくロレインが受け取り、「任せて」と微笑んだが、まだ正式にどちらの許可も下りていない。

 ロレインはすぐにでも許可が下りる様子で話していたが、他の事案で忙しいのか時間がかかっているようだった。


「素敵な部屋ですね」

「大変恐縮です。ご主人様より心地よくお過ごしいただけるよう準備を仰せつかりましたので、お気に召していただけたなら幸いです」

「ええ、とても気に入ったわ」


 ナタリーはむしろ華美なものは好まない。お世辞ではなく心からそう思った。


「また、こちらはナタリー様の専属の侍女のベティでございます」

「べティです。よろしくお願いいたします」


 ユリウスが紹介した侍女は、まるで小リスのような雰囲気の可愛らしい女性だった。

 ナタリーとは正反対の小柄で、髪も瞳も焦茶をしているからだろう。くりくりとした瞳も、小動物のような愛らしさだ。

 年齢はナタリーと同じくらいに見える。

 美しい姿勢でお辞儀をする様は、きちんとした教育を受けている証だと言えよう。


「ナタリー・ファンネルよ。これからよろしくね」

「何かございましたら、このベティにお申し付けください。では、私はこちらで失礼します。ゆっくり休まれてくださいませ」


 眼鏡の奥のアッシュグレイの瞳を細めて、ユリウスは静かに微笑み部屋を出ていった。


(思いの外、本当に歓迎されているわ。彼の立場からすれば、私を怪しんでもおかしくないはずなのに……)


 予想外の対応にナタリーは少々面を食らう。針の筵に座らされるよりは数段良いが、かと言って裏があるのではないかと疑ってしまう。

 ユリウスが去っていた扉をじっと見つめていたナタリーの耳に、盛大な溜息が聞こえた。

 一体誰がと首を振るも、この場にいるのは、ナタリー以外に一人しかいなかった。


「どんな手を使ったのか知りませんが、夢を見ない方がいいですよ。ケヴィン様はあなたを愛することはないですし、あなたのお金が必要なだけですから。たかが商人の分際で……身の程を知った方がよろしいかと」


 あまりの言葉に、ナタリーは耳を疑った。

 この言葉は本当に、先ほどまで完璧な侍女然と振る舞っていたべティのものなのだろうか。


「あなた……何を言っているの?」

「あなたが勘違いしていそうだから、正直にお話ししているだけです。ユリウス様だって、お金のために仕方なくあなたに優しくしているだけですから。聞きましたよ。4年経ったら出ていかれるのですよね? それなら、せいぜい静かにお過ごしください。失礼します」


 べティは一方的にまくし立て、心ばかりの雑なお辞儀をして部屋から出ていった。

 ナタリーとて歓迎されないのではないかと思っていたが、いくらなんでもここまで明け透けに言い放たれるとは思わなかったのだ。

 あまりに面食らってしまい、しばし呆然としていたが徐々に苛立ちを覚え、同時にべティの言葉に納得していた。

 言ってみれば、ナタリーは自身にとって都合がいいからと一方的にこの関係を持ちかけたのだ。

 ケヴィンにしてみれば、その条件が魅力的に思えたから了承したに過ぎない。

 せめて4年はと条件に加えたのはナタリーであるし、本物の伯爵夫人として丁重に扱われることの方があり得ないだろう。


(それにしても、あのべティという子。しっかりとした教育を受けていそうだったのに、何故あんな態度を取ったのかしら……)


 少なからず、ケヴィンとユリウスは形だけでもナタリーを正式な婚約者として迎えるために丁重に扱ってくれた。

 本来使用人ならば、内心はどうあれ同じように接するのがあるべき姿だ。

 それを敢えてああやって内心をさらけ出すには、何か訳があるのだろうか。


(もしかして……ケヴィン様かユリウスが暗に私を追い出そうとしている? いいえ、わざわざ話を飲んでおいてそんなことをする必要がないわ。べティは、何かケヴィン様と関係があるのかしら。恋人、だとか……)


 べティが出て行った扉を見つめ、ナタリーは考えた。

 しかし頭とは反対に体は悲鳴を上げている。長期の馬車移動は、想像以上に体に堪えたようだ。

 少し休むつもりでベットに横になる。

 が、途端急激な眠気に襲われ、あっという間に意識は闇に落ちていったのだった。

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