第11隻
「うそ!? 寝過ごした!?」
翌朝。ナタリーは優しい陽の光で目が覚めた。
窓の外を見れば空が白み始めてきた時間帯。
ケヴィンと約束した夕食の時間は遠に過ぎ、もはや朝食の時間が迫っている。
(まさか初日から寝過ごすなんて……。はぁ。悪意をもって起こさなかったのか、優しさからなのか、判断が付かないわね……)
昨日のベティの様子では、ケヴィンと食事をさせないためにあえて起こさなかったとも考えられる。
だがもし、ナタリーが寝ていることをケヴィンが聞いたなら、きっと気を遣ってそのまま寝かすように言うだろう。
つまりは、ナタリー自身の失態だ。
いくら疲れているとはいっても、何事も最初が肝心だというのに。
ナタリーはしばし迷い、結局ベッドから降りて自分で身支度をすることにした。
クローゼットを開ければ、中にはいくつかのドレスが収められている。ナタリーのために用意してくれたものだろう。
正直に言えば皇都の流行からは少々遅れたデザインだが、それでも上質な生地とレースが使われており、何より暖かそうだ。ケヴィンが心を尽くして用意してくれたことが分かる。
一通りクローゼット眺めたものの、一人で着られるドレスがない。
仕方なく厚手のショールを羽織ると、ナタリーはテラスへと出ることにした。
窓を押し開けると、朝の冷えた空気が流れ込んでくる。
白い息が出るほどではないが、きっちりとショールの前を握りしめた。
改めて見ると、この城は山に抱かれるように建っているようだった。
左右には剣のように天を貫く山並みが広がり、朝日に染まっていく。少し目を遠くにやれば、シャンクの街が見える。
太陽が家々の屋根を照らし出し、キラキラと反射して輝いている。
ナタリーはこんなに美しい夜明けを見たことがなかった。
シャンクの街全体が太陽に照らされるまで、ただその光景に見惚れていた。
ふと、寒さを思い出し慌てて部屋に入る。
温まろうともう一度布団に潜った所で、ドアをノックする音がした。
「ナタリー様。お目覚めですか」
ユリウスの声だった。
「ええ」とナタリーが答えると、扉を開けてべティが入ってくる。ユリウスは扉の所で立ち止まったままだ。まだ寝起きだと思っているからだろう。
昨日の様子からは信じられないほど完璧な侍女の動きで、べティが洗面器を差し出す。
ほかほかと湯気が上がり、とても気持ちよさそうだ。
ユリウスの目があるからだろうが、こうも完璧に侍女の仕事がこなせるが故に何故、という思いがナタリーの中で湧き上がる。
ちょうどいい温度の湯に両手を浸けて顔を清めれば、随分とすっきりした気分になる。
思わずほうと息が漏れた。
「昨日はお疲れのようでしたね。ゆっくりお休みになれましたでしょうか」
「ええ。いつの間にか眠ってしまって……。アンカー伯爵様には申し訳ないことをしてしまったわ」
「余程お疲れだったのではと心配していらっしゃいました。もしナタリー様の体調がよろしければ、一緒に朝食をとご主人様がおっしゃっております。いかがなさいますか」
「ええ。ご一緒するわ」
ナタリーは笑顔をで頷いた。事実、ケヴィンとの食事は楽しみだ。
出来る限り一緒の時間を作り、彼の
ユリウスはどこか満足そうに微笑んで、眼鏡のブリッジを押し上げる。
「ではそのように伝えてまいります。べティ、ナタリー様の支度を頼む」
「畏まりました」
べティが完璧なお辞儀をすると、ユリウスは部屋を出て行った。
「べティ。昨日のことは聞かなかったことにするわ。支度を頼める?」
毅然とした態度でそう言うと、べティはギリギリと音が出そうなほど強くお仕着せのスカートを握りしめた。
余程の悔しさに耐えかねるという様子だ。
しかしべティは何も言わず、ドレスを選びナタリーの服に手をかけた。
「痛っ!」
荒々しい手付きに痛みを感じ、つい声を上げると、べティはふんっといったように顔を背けそのまま着替えを続ける。
納得はしていないが、ユリウス直々の命令にやらざるを得ない状況なのだろう。
着替えのあと髪を整えるも、ブラシの力が強過ぎて、ナタリーは涙目になった。だが髪の結い方はきちんとしている。
「ねえ。もうちょっと優しくできないの?」
「あら、申し訳ありません。ナタリー様の髪が痛んでいらっしゃってブラシに引っかかるんです」
全く悪びれる様子もなく、太々しく吐き捨てる。やはり先ほどと同一人物とは思えないような態度だ。
今後のことを考えれば、当然、べティをこのままにしてはおけない。
(かといって、まだこの屋敷でのべティの立ち位置も、他の使用人たちの反応も分からない状況だわ。対応の仕方が判断できないわね)
ナタリーは内心もう少し様子を見ようと決める。
気になるのは、使用人たちが皆べティと同じような態度なのかどうか、だ。
それを判断するには、とにかく部屋を出なければどうにもならない。
支度が整うと、憮然としたまま早足で案内——と呼べるのかどうかは分からないが——するべティの後ろを、半ば駆け足で着いていき、どうにか食堂に辿り着いた。
ナタリーが食堂に入ると、すでにケヴィンは座って待っていた。
けれど、いつものケヴィンとは違う。いつもの肌にぴたりと沿うマスクではなく、鼻から鎖骨までを覆う筒状のものを着用している。マスクというよりもマフラーのようだ。
実はナタリーが来るまでの間、万に一でも素顔を見られることのないよう、ケヴィンは新しいマスクを用意した。
いつものマスクでは飲食をする際、顎の下まで引き下ろす必要があるため、顔を露出してしまう。
パーティーの際はシャンパンを持つだけで飲食はしないようにしているため問題ないのだが、家ではそういう訳にはいかない。
この細いスヌード状のマスクであれば、下の部分を少しまくり、マスクの中にフォークを運ぶことが可能になる。
ナタリーを迎え入れるにあたり、頭を捻らせたところだ。
前妻の二の前にならぬよう、ナタリーには出来る限り不快な思いはさせたくないと心から案じていた。
そんなケヴィンの思いを露知らず、ナタリーは「マスクにも色々な種類があるのね」とだけ思い、席につく。
「おはようございます。アンカー伯爵様。昨日は申し訳ありませんでした」
「いやいい。随分疲れていたようだな。気分はどうだ」
「ゆっくり休んで快調です。ありがとうございます」
ケヴィンの様子はとてもにこやかだ。ナタリーを歓迎しているのが伝わってくる。
ナタリーにはどうも、ケヴィンはべティをけしかけるような姑息な手は使わないだろうと思えた。
つまりべティのあれは、ケヴィンの意思ではない。
「それなら、今日はユリウスに屋敷を案内させよう。皇都の華やかな屋敷と違う無骨な造りだが、広さはそれなりにある。数日に分けて回るといい」
「お気遣いありがとうござます。よろしくね、ユリウス」
「畏まりました」
話しているうちに、温かいパンとスープが給仕される。
昨晩の夕食を食べ損ねたために、ナタリーの腹は完全に空だ。
だからという訳ではないが、どれもとても美味しいと思った。テーブルに並べられていたサラダやフルーツも新鮮そのもの。
決して豪華な食事ではないが、料理長が心を尽くしたのだろうことが窺い知れる。
「とても美味しいです。この魚は近海で獲れたものですか?」
白身魚のカルパチョを口に運びながら、ナタリーは尋ねた。
「ああ。シャンクの隣の漁村から上がってきたものだ。これだけ海があるというのに、ここまで魚を卸せるほど獲れるのはそこしかないんだ」
「まぁ……」
ナタリーは辺境伯領には碌な産業がないというのは本当なのだと驚くと同時に、その貴重な魚を振る舞ってくれることに感謝する。
この地は本当に、これ以上何もないのだろうか。何か、この地を豊かにする方法はないのか……。
そんな思いがナタリーの頭を掠めた。
美味しそうに料理を頬張るナタリーを、ケヴィンは微笑ましく見つめた。
前妻は「皇都の料理が恋しい」とよく嘆いていたものだが、ナタリーは気に入ったようだとほっとする。
それに新しいマスクのおかげで醜い顔を見せることもない。
ナタリーがどう思うか気になって、いかに緊張していたのか思い知る。
いい加減、もう何年も前のことは忘れなければならないのにと頭を振った。
ナタリーを前にしても、自分が前妻の影ばかり見ていることに、ケヴィンは気付いていなかった。
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