第32隻

 秋の祭りから帰り、ケヴィンは最北の要塞へと戻っていった。

 楽しい時間を過ごした二人は互いに離れがたく後ろ髪を引かれたが、互いが非常に理性的な性格だ。

 離れたくはない。けれど、やるべきことは山ほどある。

 自分の思いを振り切るように、二人は自分の仕事へと戻った。


 それから3か月。

 ナタリーとケヴィンは碌に顔を合わせることがなかった。

 それぞれの仕事が忙しすぎたのだ。

 毎晩通信魔道具で会話をしていたけれど、それでは足りない。ナタリーはケヴィンに会いたいという思いが溢れそうになっていた。

 けれど、なんとしても運河事業を成功させなければならない。

 このアンカー辺境伯領の人々のため。

 そして、二人の結婚のために。



 ミゲルと婚約破棄がしたいが為に始まった関係だった。

 ケヴィンでなくとも、他に適当な相手がいれば誰でも良かった。

 けれど今は違う。

 他の誰でもない、ケヴィンと結婚したいのだと、今はそう思っていた。

 ここまでくれば、ナタリーも自覚する。

 ナタリーは、ケヴィンに恋をしていた。


 そう自覚すると同時に、ナタリーは初めて片想いの痛みを感じた。

 ミゲルとは子供の頃から婚約者で、片想いという感覚は味わったことがない。

 ケヴィンの「愛だの恋だのは期待しないでくれ」という言葉が何度も思い出される。

 元々が利害の一致から始まった契約の関係だ。

 ケヴィンはただ契約の相手としてナタリーを大切にしているだけ。そこに恋愛感情がある訳ではない。

 少なからず、ナタリーはそう思っていた。


(きっと、ケヴィン様のことが好きだなどと今更言っても、迷惑をかけるだけだわ)


 ナタリーは、そっと思いをしまい込むことにした。



 苦しい思いとは裏腹に、仕事の方は順調に進んでいった。

 運河事業は地質調査を終え、基本設計に取り掛かった。

 調査の結果は良好で、余程想定外のことでもない限り、十分運河の建設は可能だ。


 運河建設がより現実的になったことで、ナタリーは更にもう一歩事業を進めることにした。

 事業説明のため、ギシャール村の人々を始め、レセップス地峡の村々に何度も訪問したのだ。

 最初の感触は良いものとは言い難かった。

 如何に貧しい暮らしとはいえ、長年続けてきた生活を変えるのは、そう簡単なことではない。

 もう何代も前から続いてきた暮らしだ。

 ナタリーの提案は、ちょっとやそっとの変化ではない。正直、付いていけないと感じる方が自然なことだろう。


 だが、村の若者たちがナタリーに味方をした。

 人口の少ない村同士、地峡内の村には元々交流があり、数少ない若者たちだけで集まることがこれまでもあったようなのだ。

 このままでは村として存続していくのは難しい。少なからず、複数の村が一つになる必要があるのでは。

 そうした話題は、常に若者たちの間であったらしい。

 村を出ていく者も後を絶たない中、村に残り、村の将来を憂う若者たちにとって、ナタリーの運河建設計画は、まさに天啓だった。

 若者たちの間でも、すぐに話がまとまった訳ではない。

 けれど、皇都まで行かずとも、この土地で豊かに暮らせるかもしれない。

 生活様式は変わるだろうが、それでも村の人々が皆一緒に、今よりも豊かに暮らせるのなら。

 そういった思いで、若者たちはナタリーに賛同し、年配者たちの説得を買って出た。

 それでもやはり、一筋縄にはいかなかった。

 村の一番の年寄りたちは皆、なかなか首を縦に振ることがなかった。

 けれど、粘り強く交渉を行った。

 若者たちの熱意は、ナタリーすら心が熱くなるほどだった。

 それほど、彼らは村のことを真剣に考えていたのだ。


 ついには、村の年配者たちも彼らの熱意に負ける形で、同意するに至った。

 元々レセップス地峡に住んでいた住民たちはそのまま地峡で暮らすこと。

 ちょうど運河の建設区域と重なるギシャール村には、補償として当面の生活費と新しい住まいをアンカー辺境伯家側で用意すること。

 希望する者は、運河の運営に携わることが可能であること。

 そうした取り決めがなされ、若者たちとナタリーは熱い握手を交わした。

 こうして、運河の建設はまた一歩現実のものへと近付いたのだった。



 レセップス地峡の村人たちとの交渉を終え、ナタリーは満たされた気持ちで再び屋敷に戻った。

 しかし業務は一向に減らない。

 成し遂げるものが大きければ大きいほど、当然業務量は増えていく。運河建設事業のために新たに事務員を雇いもしたが、それでも業務の量は果てしない。

 文字通り、ナタリーは忙殺されていた。


 そんなある日のことだ。

 ナタリーの元に、ミゲルが訪れたのは。

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