ミゲル3
ミゲルはギリギリと音が出そうなほど歯を食いしばり、ナタリーとケヴィンを眺めていた。
最後にナタリーと別れて以来、ミゲルはナタリーのことを考えない日はなかった。
一体ナタリーはどんな所で今暮らしているのか。
苦労はしていないか。辛い思いはしていないか。
自分が既にそんな心配が出来る立場ではないにも関わらず、居ても立っても居られないとばかりにアンカー辺境伯領にやって来たのだ。
そこまでは良かったものの、流石に屋敷に行くのはまずいと思うだけの理性は残っていた。一体どうしたものかと、ただふらふらと街を彷徨っていた時だ。
偶然、ナタリーとケヴィンを見つけた。
町娘のような格好をしていても、ナタリーのことはすぐに分かった。
背が高くすらりとしていて、遠目からでも目を引く。
そんなナタリーの容姿を、ミゲルは好ましく思っていた。
サラのような凹凸のある体が好みだった訳ではない。ただ、たまには油っぽい料理も食べたいというのと同じ感情だった。
ミゲルは空腹に耐えかねて、如何にも腹に溜まりそうな料理に飛び付いてしまったのだ。
本当は、ナタリーを「ペラペラの体」などと思ったことはない。
あれはただ、フィリップへのリップサービスに過ぎなかった。
ミゲルは遠くから二人を追いかけた。
話しかけようと思った訳でもない。
あえて理由を挙げるなら、久しぶりに見たナタリーから目を離すことが出来なかったのだ。
あのナタリーの笑顔はなんだ。
あんな笑顔、いつ振りに見ただろう。
ナタリーの父が亡くなってから、常に何かに追われるようにナタリーは余裕がなくなった。
二人でああやって出掛けたのだって、もう何年も前のことだ。
自分には見せなかったくせに。あの男の前ではああやって笑うのか。
ミゲルはふつふつと湧き上がるような怒りを感じ、二人への恨みを募られせていく。
(どうして俺の前ではあんな風に笑ってくれなかったんだ……どうして……)
そう考えて、不意に思い出した。
最後に二人で出掛けた日のことを。
あれは4年前。
ナタリーの父はまだ健在で、ナタリーもまだ少女だった頃。
「たまには自然の中でゆっくりしたい」とのナタリーの言葉で、皇都の外れにある湖に行ったのだ。
最初は流行りの舞台でも見に行った方がと思っていたミゲルも、着いてみれば湖に来て良かったと満足した。
賑やかな街並みから外れ木々に囲まれたその湖は、まるでそこだけ時間が止まっているかのように穏やかだった。
他にも船遊びをしていた人たちはいたけれど、皆ゆったりと穏やかで、風景に綺麗に溶け込んでいるように見えた。
二人は小さなボートに乗って、ミゲルがオールを漕ぎ、ナタリーはそんなミゲルを眺めていた。
チャプチャプとした水音が心地よく、どんどんと湖の真ん中に進んでいくボート。
たくさんの言葉を交わした訳ではなかった。
けれどその時間は心地よく、幸福な時間だった。
きっとナタリーもそうだったのだろう。
水面から反射する光に眩しそうに目をすがめてから、ナタリーは楽しそうに笑った。
今、ケヴィンに向けているような満面の笑みを。
あの頃は、こんなことになるとは思っていなかった。
永遠にこの時間が続くのだと思っていた。
そこで、ミゲルはその後の4年間を思い返した。
ナタリーの父が事故で亡くなって、ナタリーは途方もなく忙しくなった。
ミゲルとの結婚ももう間近という所だったが、泣く泣く結婚を延期せざるを得なかった。
ミゲルはそれを残念に思ったが、それ以上にナタリーが残念がっていた。
だからミゲルは不満の一つも溢さずに、結婚の延期を受け入れたのだ。
だが、結婚を延期しただけでなく、ナタリーと満足に話すことも出来なくなっていった。
あれほどの規模の商会だ。急にナタリーが継ぐことになり、忙しいのは理解できた。
だからその時も何も言わなかった。
多忙なナタリーのことを支えられればと、そう思っていた。
ナタリーとてミゲルを蔑ろにした訳ではない。
ごく僅かでも会える時間がある時は、その時間を大切にしてミゲルに愛を伝えていた。
ただ。
ただ足りなかった。
圧倒的に時間が。
ミゲルが満足できるほどの、時間が。
『サラと寝てみないか。あいつ、お前のことを気に入ってるんだよ』
そうフィリップに持ちかけられた時は、そんな時だった。
ナタリーには満足に会えず、ただでさえもうすぐ結婚だと思っていた矢先で、完全に「おあずけ」を食らっている状況だった。
フィリップの頼みは断れないという思いも強く、思わず頷いてしまった。
考えてみれば、それから二人の関係は少しずつ変わっていった。
二人の会話が盛り上がった記憶がない。
ナタリーが、ああやって笑っていた記憶もない。
時が進むにつれ、徐々にナタリーの仕事は落ちついていったはずだ。
二人で過ごす時間も増えていった。
なのに、何故。
商会長になったことで、ナタリーが変わったのだろうか。
いや、ナタリーは変わらなかった。
立場が変わっても、ナタリーはナタリーのままだった。
変わったのは、ミゲルだ。
自分でも意識することなく、ミゲルはナタリーとの距離を取っていた。
決して避けていた訳ではない。
ただ、ナタリーの目をまっすぐ見られなくなった。
ナタリーに簡単に触れられなくなった。
そんな些細な変化ではあるけれど、確かにそれまでのミゲルとは変わっていった。
ナタリーとの会話も、これまでのようにすらすらと言葉が出てこなかったのではないか。
これまでのように、真っ直ぐナタリーに愛を伝えられていなかったのではないか。
そう
全てはの原因は、後ろめたさだ。
悪いことだとは思いつつ、サラとの関係を止めることができないでいた。
そんな状況で、これまでと変わらずナタリーに接せられるほど、ミゲルは器用ではなかった。
目の前の欲望に支配されて、大切なものを見失っていた。
ナタリーを蔑ろにしていたのは、ミゲル自身だ。
ふと、気付いてしまった。
ナタリーが笑顔を見せなくなったのも、今ナタリーが隣に居ないのも。
全て、自分自身が招いたことだと。
気付きというのは、ふとした瞬間に訪れることがある。
直観という言葉があるが、まさにそうした類のもの。
分かってしまったのだ。
気付いてしまったのだ。
ミゲルは目の前の霧が晴れていくような感覚を得た。
きっともう、自分にはナタリーを笑顔にさせることは出来ないのだと。
そう考えてしまえば、これまでの全ての状況が見えてくる。
ミゲルに対するナタリーの言葉、表情、声。
どれ一つ取っても、もう全てが手遅れなのだろうと思い知らされる。
いくらミゲルが縋り付いても、ナタリーに愛情が残っていなければ無意味だ。
むしろ悪手だとしか思えない。
一気に、後悔が押し寄せる。
これまでも後悔はしていた。なんて馬鹿なことをしたのだろうと思っていた。
けれど、今感じている後悔とは種類が違う。
今感じているのは、深い悔恨だ。
心のどこかで、ナタリーは許してくれると信じていた。
ナタリーはケヴィンに騙されただけで、きっとまだミゲルへの想いが残っているのではないかと。
何度ナタリーに冷たい言葉を投げかけられても、そう信じていたのだ。
だがどうだ。
今、ケヴィンの横にいるナタリーの顔は。
本当に、心から幸せそうな笑顔ではないか。
ミゲルはサッと血の気が引くのを感じた。
「駄目だ……このままじゃ……」
ミゲルはぎゅっと拳を握りしめた。
現実に気付き、自分の過ちを認めたとして。
全て自分のせいで、もう望みはないのだと理解したとして。
諦められるかどうかは、また別の話だ。
「何か、方法を考えないと」
そう呟いて、ミゲルは踵を返し歩き出した。
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