第20隻
ナタリーは広いベッドで一人、眠れぬ夜を過ごしていた。
ケヴィンの帰りはいつになるのか分からない。待たずに早めに休むようナミルに言われ、ベッドにもぐったものの、一向に眠気が訪れなかった。
果たして無事に帰ってくるのか、怪我はしていないか。城壁が崩れたとあの声は言っていたが、本当なのか。
あらゆる心配事が次々と溢れ出て、考えれば考えるほど、眠気は遠ざかっていく。
かなり長い時間、ごろごろと寝返りを打っていた。
やがて外が騒がしくなり、急いで窓際に駆け寄る。どうやらケヴィンが帰ってきたようだ。
遠目ではあるが、怪我はしていないようでホッとする。
ナタリーは居ても立っても居られず、部屋を勢いよく飛び出した。
「どうした!?」
扉の前に控えていたナミルが、目を丸くしてナタリーを見る。
気配でなかなか寝付けないのだろうとは分かっていたが、あまりの勢いに面食らう。
「ケヴィン様が帰って来たみたいなの! お迎えに行くわ!」
「本当か! じゃあ行くぞ!」
ナミルについて階段を降りていく。
ナミルも状況が気になっているのだろう。自然と早足になっている。
ナタリーはほぼ駆け足でナミルについて行った。
「ケヴィン様! ご無事でしたか!?」
「まだ起きていたのか」
1階の回廊に出たところで、ちょうどケヴィンと鉢合わせた。
思わず駆け寄れば、ケヴィンの服が血で汚れていることが分かる。
「まあ……! お怪我をなさったのですか!?」
「いや、これは魔獣の血だ。私の血ではないから安心しろ」
「では、どこもお怪我はないのですね……?」
「ああ。問題ない」
よほど衝撃を受けたのだろう。
瞳を潤めて見上げるナタリーの顔を見て、ケヴィンはどうにもたまらないような気分になった。
ナタリーをどうにか安心させようと、小さな頭に、大きな掌をぽんと乗せた。
「これから、かなり慌ただしくなると思う。不便をかけて悪いが、承知して欲しい」
「当然、構いません。……あの、私に出来ることがあれば何でもやります。何かありませんか?」
「いや今の所は……。ああ、少しナミルを借りても構わないだろうか。話がある。護衛は他の騎士をつけよう」
ナミルはこれでも副騎士団長だ。
緊急事態なら余計に、その役割は重要だろう。
「もちろんです。ナミル、ありがとう」
「悪いな、未来の奥様」
ナミルはケヴィンと二言三言小さな声で言葉を交わし、一人の騎士に声をかける。
彼がナタリーの護衛をするようだ。
「もう遅い時間だ。今日は休んでくれ」
「はい……分かりました……」
あまりごねてケヴィンの時間を奪ってもいけない。
ナタリーは素直に頷いて、一歩下がった。
「ケヴィン様も、どうかご無理なさらないでください」
そうも言ってはいられないだろうことは理解しつつ、ナタリーはそう言った。
ケヴィンの責任の重さと、果たさなければならない責務が、少しでも軽くなるようにと、ナタリーは願った。
まさかそれから10日間、ケヴィンとまともに会話すら出来ないことになろうとは、思ってもいなかった。
◇◇◇
「ナタリー、力を貸してくれないか」
ケヴィンからそう告げられたのは、10日後の朝。
本来なら数日で屋敷に帰るはずが、異例の事態にケヴィンもナタリーも要塞に残ったままだった。
ナタリーだけ屋敷に帰るという話も出たが、警護上の問題とナタリーの希望により、そのまま留まることになったのだ。
久々にナタリーと顔を合わせたケヴィンは、どこか申し訳なさそうに眉尻を下げている。出来ることなら、そうしたくなかったという様子だ。
「私に出来ることなら何でも!」
「城壁が崩壊したことで、急遽大々的な調査を行なった。それで分かったのだが……この城壁は、相当な劣化が進んでいるらしい。今回のように大きな衝撃が加わると、同じように崩壊する危険がある場所が複数あるようだ」
「それは……一大事、ですよね」
「ああ。これまでにないほどの、な」
そう語るケヴィンは、憔悴して見えた。
この10日間、あらゆる方策を血眼になって探っていた。
運河の建設はナタリーの発案であるし、今後も全面的にナタリーに頼ることになるだろう。
だからこそせめて、本来自分が担うべき仕事については、出来る限りナタリーの力を借りないようにとケヴィンは考えていた。
けれど、事が事だ。時間的な余裕はない。
ケヴィンは恥を忍び、ナタリーの協力を得ることにした。
「もう100年以上前に出来た城壁だ。まともな改修もせず、むしろよくここまで保ったと考えるべきなのだろう。とりあえず、崩壊した部分はハムモットに補修させた。けれどそれだけでは駄目だ。全面的に改修を行わなければ……。もちろんそれには、資金がかかる。本当に……大変申し訳ないのだが、資金面の援助をお願いできないだろか」
「そうですか……」
ナタリーは顎に手をやり、思案げに俯く。
すぐにナタリーの資金力に頼るなど、軽蔑されただろうかとケヴィンは不安になった。
「せっかくあなたに提案してもらった運河も、この城壁の改修が終わるまでは着手出来ないだろう。あなたには立つ顔がないが……」
「それです」
「え?」
「それですよ……! 城壁の改修と運河の建設、これを同時に行いましょう!」
ケヴィンの話を聞いていたナタリーは、ずっと眉間に皺を寄せて考えていた。
この距離の城壁を全面的に改修するとなれば、仮に魔獣の能力を使ったとしても、相当な時間と資金がかかるのは間違いない。
正直に言えば、城壁の改修に取り掛かるなら、運河の建設は一体いつになるのか、見通すことも難しいだろう。
ナタリーの財産も、決して無限な訳ではない。
商会の本来業務もある。バース子爵家への援助も行わなければならない。
出来る事なら、ナタリーの資産にだけ頼るというのは避けたい所だ。
そして、思いついた。
「流石に同時は……難しいのではないか?」
「いえ。正確には、運河建設のために、城壁の改修を行うということにするのです」
「……二つの工事に因果関係を持たせるということか?」
「そうです。そうした上で、皇帝陛下にお金を出してもらいましょう」
良いことを思いついたというナタリーの顔に、ケヴィンは困惑する。
一体どういうことか分からず首を捻る。
「国の援助をもらうということか? それは難しい。先代の皇帝陛下の頃ならいざ知らず、陛下は魔獣討伐の報奨で賄えと言うだろう」
ケヴィンの声は、確信に満ちていた。余程思い当たることがあるのだろう。
それだけケヴィンたちは、ぞんざいに扱われてきたということだ。
ナタリーは今代の皇帝を思い出し、然もありなんと思う。
けれど。
「いいえ、援助を受けるのではありません。公共事業として、国主導で改修を行うのです」
ナタリーは堂々と、満面の笑みで言った。
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