サラ3
ふと、視線を上げて窓の外を眺める。
幼い頃によく眺めていた景色。私の世界の全てだった景色。
その景色の中に、彼を見つけた。
思わず口角が上がってしまう。
嬉しい。彼が会いにきてくれた。
けれど分かっている。
彼がここに来たということは、これで全てが終わるということだ。
ビット伯爵家の領地の屋敷。2階にある私の部屋。
数年ぶりに訪れたこの部屋は、卑屈に閉じこもっていた頃の私を強引に呼び覚ました。
かつて誰とも会いたくないと引きこもっていた私は、この部屋で多くの時間を過ごしていた。
ミゲルに出会い変貌を遂げてからは、一歩もこの部屋に入ることはなかった。
だというのに、またこの部屋に身を置くことになったのは、義父であるボラード伯爵からの言い付けがあったからだ。
『お前に大事な仕事を任せる。分かっているな。失敗すれば、あの子爵家の坊主と一緒になれるどころか、お前の貴族としての人生は終わりだ』
私を見下すように、高圧的な口調でそう言った義父の顔は、まるで野生の獣のそれだった。
義父は何よりも自慢だった地位を失い、義父に侍っていた人々は潮が引くように居なくなってしまった。
私から見れば、ボラード伯爵家には豊かな領地もあるのだし、何もそこまで悲観することはないと思えたけれど、義父はまるで全てを失ったように荒れた生活を送っていた。
元々持っているものが多い人間はそうなのかもしれない。
どこか冷めた気分でそう思った。
それでも義父の言葉には従わざるを得なかった。
父であるビット伯爵は一連の私にまつわる噂に憤慨し、今後一切ビット伯爵家の門を潜らせないと言い放った。
何よりも見栄を気にする父である。本当にそうする可能性が高い。
散々私をアクセサリーのように見せびらかしていた兄も、今回の件ですっかりだんまりを決め込んだ。
生家が頼れない状況で更にボラード伯爵家から放逐されては、いよいよ娼婦にでもならない限り、生きる術がない。
……それに、義父の目論見が成功すれば、もしかしたら、ミゲルも私に目を向けてくれるかもしれない。
そんな期待もあったのは確かだった。
義父から言い付けられた命令。
それは、魔獣の育成だ。
最初に聞いた時は、ついに義父の頭がおかしくなったのかと思った。
確かにビット伯爵家の領地では魔獣の毛皮を扱うけれど、当然ながら魔獣は死体となってやってくる。
死体の状態なら、この部屋に引き篭もるより前に、父に付いて見たことがあった。
普通の獣とは圧倒的に異なる異様な体躯。
大きさも、毛並みも、何もかもが違う。
初めて見た時は、その恐ろしさに涙を流したものだ。
死体でさえそれほど恐ろしいというのに、生きた魔獣を育成するだなんて、想像も付かなかった。
けれど驚くべきことに、本当に義父は魔獣を連れてきた。
まだ小さな、と言っても中型犬ほどの大きさの、狼に似た魔獣だ。
ウルフォック、というらしい。
魔獣蠢く大地とこの帝国を隔てる城壁の工事で、かの地は今、前代未聞の賑わいを見せているという。
これまではスラスター騎士団しか足を踏み入れたことのなかった土地に、多くの人間が出入りしているのだ。
その機会を、義父は見逃さなかった。
冬が近づき、工事の作業員たちが一旦引き上げる直前。
一体のウルフォックが騎士団により討伐された。
群から外れた雌のウルフォックだ。
その死体を、義父は人を介して手に入れた。
何故か。
そのウルフォックは、妊娠していたのだ。
お腹の中の子供は弱っていたものの、無事だった。
死体の腹から子供を取り出し、連れてきたのだ。
ウルフォックが妊娠していたなら、腹を裂いて子どもの始末まで行うのが通例だという。
けれど、
通常では考えられないことだというが、今年は状況が違う。
例年とは異なる体制で魔獣との戦闘をせざるを得なかった騎士たちに、余裕がなかった。
それ故のミスだ。
更に、これも異例のこととして、騎士たちが戦闘に集中する為に、死体の処理を国から派遣された作業員たちが行うこともあったという。
義父は元の役職の関係で、そうした所に顔が効くらしい。
よって、義父の息のかかった作業員が、お腹の子供ごとウルフォックの死体を手に入れたのだ。
私は義父に言われるがまま、ビット伯爵領に隠れて魔獣を育てた。
私にこの役をやらせたのは、単純にビット伯爵領が魔獣を運んでもおかしくはない皮革産業が盛んだという、ただそれだけだろう。
弱みを握っているから、危険なことにも従わざるを得ないだろうと思ったのもあるかもしれない。
タウンハウスには父がいるから近付けない。
しかし領地のこの屋敷は別だ。
父は滅多に領地に足を運ぶことはない。
それなりに領地経営はしているのだろうが、何せ自分の体面にしか興味がないのだ。
それ故に、領地の屋敷は放置されていると言っていい。
必要最小限の使用人が残っており、彼らと私は旧知の中だった。
この部屋に閉じこもっていた時に、私の世話をしてくれたのは彼らだったから。
彼らは私の味方だ。
本当に大丈夫なのか、裏切られることはないのかと心配して反対したけれど、最終的に私に従ってくれた。
屋敷からほど近い森の中に大きな檻を設え、そこに魔獣を入れて育てた。
一般的な犬に行うのと同じように、訓練も施した。
革製品の元となる獣を狩る為に、この領地では猟犬を使う。
犬の調教であれば、領地にいくらでも腕のいい調教師がいるのだ。
金を積み、弱みを握る義父の方法を真似れば、そうした人材を得るのに難くなかった。
魔獣を育成するなど、本当に出来るのか。
失敗して死なせてしまうか、反対にこちらが食われてしまうか。
そのどちらかではないかと戦々恐々としていたものの、生まれてすぐの頃から調教した為か、思いの外上手く育成できたと思う。
犬のように完璧に言うことを聞かせることは出来なくとも、こちらが襲われる心配はなくなったと言える。
徹底的に教え込んだのだ。
誰を襲わず、誰を襲ってもいいのか。
もしこの計画が成功すれば。
ファンネル嬢とアンカー辺境伯家の信用を失墜させ、事業の失敗を印象付ければ。
……もし彼女が亡き者になれば。
もしかすると、ミゲルも少しは私を見てくれるかもしれない。
そう思った。
そう考えると居ても立ってもいられず、ミゲルを呼び出してしまった。
愚かなことだ。
そんなことでミゲルが手に入るだなんてこと、あるはずがないのに。
今にして思えば、突拍子もない計画に頭が浮かれていたのだろう。
あの時は、ミゲルを振り向かせられるだろうという変な自信があったのだ。
けれどそれも、すっかり冷めた。
今は現実を見つめるしかない。
魔獣をアンカー辺境伯家に運んだ男たちからの連絡がない。
何か問題が起きているのだろう。
その所為なのかどうか、ミゲルは何かを感じ取ったのだろう。
だから、ここに来た。
そうでもなければ、ミゲルがここに来ることはないだろうから。
コンコンッと扉をノックする音がした。
開いた扉から、この屋敷を取り仕切るメイド長が顔を覗かせた。
「ボラード伯爵子息夫人、バース子爵子息様がいらっしゃいました。……お会いになりますか?」
「ええ。行くわ」
言いながら立ち上がり、ふと自分のドレスを見下ろす。
皇都で華やかに振る舞っていた時とは異なる、随分と地味なドレスだ。
華やかな服はこの部屋に似合わないような気がして、ついかつてのような服を選んでしまった。
「お着替えされますか?」
「……いいえ。このまま行くわ」
逡巡し、そう答えた。
ミゲルに会うのならもっと美しい服が良かったと思う反面、初めてミゲルに会った頃の私で決着をつけた方がいいような、そんな気がしたからだ。
部屋を出て応接間へと向かいながら、私は予感していた。
いやもっと前にそうするべきだったのを、現実から目を背けていただけなのだ。
今日ついに、私の初恋が終わる。
「お待たせしました」
応接間に入り軽くカーテシーを行って視線を上げれば、愛しい彼の顔が目に入る。
きょとんとして、虚を突かれたような顔をしている。
「その服……」
ああ、なるほど。
いつもと違う服装で来たから驚いたらしい。
普段はどうにかミゲルを振り向かせようと、出来る限り着飾ってセクシーなドレスを選んでいたから、さもありなんと思う。
しばしぼうっとしたかと思うと、ハッと我に帰り、私に厳しい視線を投げかける。
「今日は君に、聞きたいことがあって来た」
「アンカー辺境伯領で起きた魔獣の暴走の件かしら」
先手を打って言葉にすれば、ミゲルは目を見開いて驚いているようだった。
思わず苦笑する。
初めて見る表情に、また一つミゲルを知れたと喜びを感じてしまったから。
「やはり……あれは君の仕業なのか」
「ええ。発端はお義父様だけれど」
私はもう一切隠す気がなかった。
魔獣を送り出した瞬間から、私は正気に戻っていたのだ。
仮に魔獣がファンネル嬢の命を奪ったとて、ミゲルが私のものになる訳じゃない。
全てが虚しかった。
「ミゲルはどうして分かったの?」
「魔獣の騒動の時、以前君を馬車で迎えに来ていた男が居た」
「その場にミゲルが居たの!? 怪我はなかった!?」
まさかミゲルも魔獣の騒動の場に居ただなんて!
もしかしたらミゲルを喪っていたかもしれないという事実に、恐怖が全身を支配する。
私のものにならなくてもいい。
だけど、ミゲルの存在がなくなることには耐えられなかった。
ミゲルはまた意外そうに目をぱちぱちと瞬かせた。
「ああ、特に何も」
ほっと胸を撫で下ろす。
確かに見たところはどこも怪我がなさそうだけれど、もしかしたらと焦ってしまった。
良かった。
ミゲルに傷の一つも付いていたら、後悔だけでは済まなかっただろうから。
「一体何故、あんなことを?」
ミゲルの問いかけに、私は躊躇なく語った。
包み隠さず、全て。
私の話を静かに聞いていたミゲルは、話が終わると、はぁと深く息を吐き出した。
「すまない、サラ。君をここまで追い詰めたのは、僕のせいだ。諦めが悪すぎた。僕も、君も」
てっきり以前のように怒鳴り散らすかと思ったけれど、努めて冷静に、そして真摯な瞳でミゲルは言った。
不倫がファンネル嬢にバレて錯乱していた頃の片鱗はどこにもない。
私の知っている、私の愛したミゲルだ。
なんとなく分かった。
きっと、ミゲルは恋を諦めたのだ。
「罪を償おう。これ以上、罪を重ねちゃいけない。ボラード伯爵のことも告発しよう。フィリップには悪いが、このまま放置しておけない」
真剣な表情で、ミゲルはそう告げる。
彼は私のことを詰りに来たのではなく、私を説得に来たのだ。
「一緒にアンカー辺境伯領に行こう。そして全て話そう」
ああ。
そんな風に優しく言わないでほしい。
ここで、思い切り詰られて切り捨てられて、それでこの想いと決別するつもりでいたのに。
そんな悲痛な顔で、まるで私の罪に責任を感じるように言わないでほしい。
あなたのことが諦められなくなるから。
全てを話したら、私は牢に入るだろうし、貴族としての人生は終わるかもしれない。
けれど今はそれよりも、ミゲルの真摯な姿が嬉しくて悲しかった。
「ええ……ええ。全て話すわ」
涙がぽろぽろと頬を伝う。
一体何を間違ったのだろう。
何故こんなことになったのだろう。
そもそも最初から間違っていたのだろうか。
それでも、ミゲルを愛したことが間違いだったとは、思いたくなかった。
「どうしてそんな恐ろしい方法を思いついたんだか。魔獣の存在は、まるで空想の生き物のように普通は語られるじゃないか」
嗚咽混じりに頷く私を静かに見つめていたミゲルは、ふいと視線を外して独り言ちるように呟いた。
「そうよね……。でも、今回の件は協力者が発案したそうよ」
私は涙を指で拭いながら、その呟きに答えた。
妊娠した魔獣の腹から、子を取り上げて育てる。
そんな方法は、魔獣の討伐方法やその後の動きを知っていなければ、実行できるものではない。
軍事大臣だった義父といえど、そこまで詳細には知らないだろう。
「協力者?」
「ええ、アンカー辺境伯家の元侍女だそうよ」
そう、私たちには、アンカー辺境伯家の内情を詳らかに教えてくれる協力者がいたのだ。
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