ナミル+ユージーン2
キールはいくつかの書類を二人に渡すと、一瞬にしてどこかに消えてしまった。
ナタリーが、キールを神出鬼没、正体不明と言っていた理由がよく分かった。
しかし、彼が優秀なのは間違いない。
彼から渡された書類が、その事実を物語っていた。
書類の一つは、とあるアパートの購入契約書の写しだった。日付は約1年前。
契約者名は知らない男であったが、もう一つの書類で正体が分かった。
そのもう一つの書類とは、ボラード伯爵家の使用人名簿だ。
アンカー辺境伯家など比にならない数の使用人である。
しかしその中に、契約書にあった名前を見つけた。
ボラード伯爵家の執事である。
それだけ見れば、特に怪しいところはない。
屋敷に住み込みで働いている使用人でも、投資目的であったり、家族や愛人を住まわせるために不動産を購入することは珍しくない。
しかし、時期が気になる。
およそ1年前というと、ベティがアンカー辺境伯領を追い出された時期と一致する。
単なる偶然とも考えられるが、「何かある」と踏んだからこそ、キールはこれを渡したのだろう。
それにしても、以前からボラード伯爵家を探っていたとはいえ、これだけの書類をたった一日で手渡せるキールは何者なのか。
何にせよ、ナミルとユージーンがやることは決まった。
「とにかく行ってみましょうか」
「だな」
二人は急ぎアパートへと向かった。
件のアパートは、中心街から少し外れたスプライスの中でも治安の悪い一画にあった。
細長いアパートがひしめき合うことで光を遮り、薄暗い通りに面している。
本来は黄色であっただろう外壁は煤けて黒くなり、所々壁が欠けている。
見るからに投資先としての価値はなく、家族を住ませるにも不向きだ。
執事名で購入されたのは、3階の西側である。
外から見る限り、窓から逃走を図ることは難しい作りだ。
ナミルとユージーンは無言で頷き合うと、アパートのエントラスを潜る。
上を見上げれば、ぐるぐると狭い回り階段が最上階である5階まで繋がっている。
各階の踊り場の左右に扉があり、ワンフロアに2つの部屋があるようだ。
ナミルとユージーンはゆっくりと軋む階段を踏みしめて3階まで上がっていく。
3階の踊り場の左手。やけに明るい緑色の扉があった。と言っても、塗装はあちこち剥げて古めかしい。
そこが、執事の購入した部屋だ。
ナミルは気配を殺し、緑色の扉に耳を当てる。
頬にささくれだった木の感触を感じたと同時に、中から小さく声がした。
「誰が来てんのか。話し声が聞こえる。女の声だな」
「ベティでしょうか。相手はボラード伯爵?」
「分からん……。が、だとしたら一石二鳥だな」
努めて小声で言葉を交わすと、ナミルは「いくぞ」と言って扉をノックした。
「すみませーん! 新しく引っ越してきた者ですけどー! ご挨拶に伺いましたぁー!」
ナミルは明るい声で中に呼びかけた。
中にいるのがベティとは限らないからだ。
しばし応答を待つも、なんの反応もない。
再度扉に耳を当てるが、中は静まり返っていた。
怪しい。
一体何者がきたのかと、警戒しているのかもしれない。
二人は無言でまた頷き合い、懐から銃を取り出した。
ナミルは扉の横に銃を構えたまま身を隠し、ユージーンは思い切り足を持ち上げ、ドアを蹴破った。
「動くな!」
二人が中に駆け込むと、そこには異様な光景が広がっていた。
何もない。
部屋の中に何もなかった。
いや、家具はある。
玄関を入って右手にミニキッチン、その前に小さなテーブルと椅子。
至って一般的な配置だ。
けれど、それらを使用した形跡がない。
ただ綺麗にしているのとは違う。
全くと言っていいほど生活感がない。
誰も住んでいないと言われた方が納得する。
けれど、ベティがここに住んでいるとはっきり断言できるのは、ベッドの上に、膝を抱えた本人がいるからだった。
「ベティ……一人なのか?」
ナミルが怪訝な顔で部屋を見回す。
左手奥にベティの座るベッドがあり、それ以外はテーブルと椅子しかない。
狭いワンルーム。
ベランダだってありはしない。
唯一隠れられそうな玄関横のバスルームは、ユージーンが真っ先にドアを開け中を確かめた。
しかし、誰もいなかった。
確かに声が聞こえたはずだが、どう見てもベティしか居ない。
「ナミル様! ご無沙汰しています。お元気でしたか? 嫌だ、こんなだらしのない格好で恥ずかしいです」
かつて侍女であった時と変わらない、ハキハキとした声でベティは言った。
声だけ聞けば、何ら変わりのない昔のベティだ。
しかし、ナミルは背筋がぞわりと粟立つのを感じた。
ボサボサで一切手入れをしていない髪、おそらく半年は切っていないであろう長い爪。
風呂にも入っていないのか、かなり臭う。
膝を抱えた状態から首だけ動かした状態で、かつてと同じような言葉と声色を発する姿は、むしろ余計に異様さを際立たせていた。
「ユージーン様もいらっしゃったんですね。今お茶をお出しします。どうぞおかけになってください。ちょうどいい茶葉が手に入ったのですよ」
そう明るい声で言いながら、ベティはぴくりとも動かない。
ナミルとユージーンは、思わず眉間に皺を寄せた。
「とにかく、団長に連絡だな」
「はい。今送ります」
ユージーンが肩から下げていた皮の鞄から、移送魔道具を取り出した。
ナタリーから預かったものだ。
皇都にいるナタリーとケヴィンは、ファンネル商会の事務所に置かれた移送魔道具で連絡を受け取る手筈になっている。
ベティの居場所を書いたメモを魔道具に通す。
後はケヴィンたちがこちらに来るまで、見張るだけだ。
ナミルはちらりとベティに目をやる。
見張る必要などないのではと思えるほど、全く動かない。
ベティが精神的な問題を抱えているのは、間違いないだろう。
先ほど外で聞こえた話し声も、彼女の独り言なのだとしか考えられない。
(人はここまで変わるもんかね……)
内心、落胆にも近いやるせなさを感じながら、ナミルは小さく息を吐き出したのだった。
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