【平成九年(1997年)晩春】その2


【平成九年(1997年)晩春】その2



 地方競馬の馬主向け主体ということで、現状はダート血統を中心に生産しているそうだ。サンデーサイレントも本国ではダートで活躍したはずじゃ、と水を向けると、そんな高馬の買い手がいないし、そもそも種付け権が手に入らないと苦笑された。まあ、そりゃあそうか。


 この頃のダート血統は、パックリージェントやロシアンルーブルが主体となる。少し勝負をかけると、メルジョージあたりが狙い目だそうだ。


 かつては中央向けの馬も生産していたそうだが……、ノーザントーストの登場あたりからいろいろと難しくなったらしい。変革に押し流されたといったところか。そして、サンデーサイレント産駒の革命的な活躍で、さらに加速していきそうでもある。


「まあ、サンデーサイレントは化け物だな。あの血が遍く広がれば、日本の競走馬のレベルも上がるだろうが……、しばらくは下々には回っては来るまい。そうであれば、中小の牧場は干上がるしかない」


「スピード競馬になっていくのは、確かでしょう。けれど、そこで長距離に賭けてみるのもありな気がします」


「友達なら、敬語なんて使うな。……長距離に、旨味はあるまい」


 お言葉に甘えて、くだけた言葉を使わせてもらおう。


「そうかなあ。これから、みんながマイルからクラシックまでに向いた馬を作り始めると思う。その中で、生粋の……は無理だろうけど、比較的ステイヤー適性のある馬を生み出せれば、稼げるんじゃないかなあ」


「芝向きに出るとは限らんじゃろうに」


「ダートの長距離もあるじゃない。交流を回るには、オープンに上がらないときついけど。……上田競馬で、3700、3800mと、4400m、4500mを設定しようって話があるんだけど、成立するかな?」


「ダート版の日本最長距離ステークスみたいなものか。……まあ、向きそうな馬はいるかもしれん」


「上田競馬を根拠地に、交流重賞の比較的長めのところを巡って、芝が行けそうならダイヤモンドステークス、ステイヤーズステークスなんかを狙い、さらには阪神大賞典からの天皇賞・春を目指す、なんてどうかな」


「……そこまで行けば、中央入りした方がよかろうて」


「それはそうなんだけど。……でもって、中央の芝で通用するなら、オーストラリアやフランス、イギリスの長距離重賞を取りに行くとか」


「雲をつかむような話だな。そういうことは、いずれメグロ牧場あたりが目指すんじゃないか」


「そうかなあ。中央競馬でやっていこうと思うんなら、さすがに長距離狙いはつらいと思うんだけど」


「地方向け、地方馬主向けだと割り切ればこそ、ということか」


「そうそう。言っちゃ悪いけど、ダメ元で乗ってくれる馬主さんが何人かいれば、成立……しないかな?」


「ふむ……。うちの牧場では、かつては芝の長距離を目指す馬作りをしていた。それを断念して、ダートに、地方競馬に舵を切ったというのが実情だ。そして、今後は若い番頭格がスピード競馬に対応していきたいと言っている」


「ほほう……、その人に継がせるの?」


「それも迷いどころだ。借金まみれの牧場を引き継がせるわけにはいかんのでなあ」


「なるほどねえ」


「それに、長距離血統と一口に言うがな。パワーのいらない日本の競馬場では、そこそこ長距離に対応できるスピード能力の高い馬には勝てないんじゃよ」


 爛柯牧場の主は、経験に裏打ちされたと思われる言葉を吐き出した。


「勝たなくてもいいんじゃ?」


「なんじゃと?」


「中央に限っても、手薄な長距離の未勝利、条件戦で勝ち上がり、能力が高ければ少頭数になりがちな長距離重賞やオープンで掲示板に載って稼いで、ダート適性があったら地方の長距離重賞に顔を出す。そういう馬を生産して、凌ぎつつ好機を窺う、というのは非現実的かな?」


「ふむ……」


「爛柯が時を忘れるって意味なら、そうやって血統を残していくのもありなのかも、と思うんだけど」


 牧場名の爛柯とは、なにやら時を超える概念らしいのである。


「自らの身は朽ちても……、か。爛柯の逸話は逆なんだがな」


「逆?」


「ああ、浦島太郎みたいなもんだ、夢中になっているうちに、周囲は遥か未来になっているんだ」


 より詳細に説明してくれたところによると、爛柯とは異界に紛れ込んで囲碁を見物した木こりが、ふと気づくと斧の柄<柯>がぼろぼろ<爛>になってしまっていて、里に戻ると知り合いは誰も居なかったという、浦島太郎的な伝説らしい。


「ある意味で異世界転移みたいなものなのかもな」


 そうつぶやいた俺は、二度目の平成を過ごしている我が身と引き比べていた。


「どんな馬を作ってきたのか、教えてくれる?」


「そうじゃなあ。若い頃は、いつかダービーを獲るんだと夢見ていた。そこから、長距離に移行していったのは、いつ頃からだったか。……いつしか馴染みの馬主さんたち向けに、地方でそこそこに走る丈夫な馬を作るようになっていた」


「それもまた、立派な方針だと思う」


「うちの顧客は、勝つことが最優先ではない、自分の馬が元気に走っているのがうれしい人たちだ。何頭か所有していたら、年長の馬が引退する頃に、好みの馬を用意することになる」


 この時代からはもう少し後に人気になるハルウララカの例を引くまでもなく、預託料の低い地方競馬で馬を走らせる人たちの考え方は、中央競馬でGIを獲ろうというのとは大きく違う。当然、求められる馬も異なるのだろう。


「長距離馬をその中に混ぜてもらうように提案することはできるが、先立つものがなあ」


「出せる種付け料に制限があるということだよね。……今の時期なら例えばメグロマックイーンとか、もう少ししたらサンデーサイレントの息子たちの価格が安いのとかを組み合わせて、その人たちの希望を満たしつつ、さらに上を目指すことはできそうな気がするけれど」


「ウルトラクリークも、既にほとんど種付けされてないようだ。長距離馬受難の時代だな」


「マックイーンも、やがて人気は落ちると思う。クリーク系とマックイーン系の掛け合わせとか、夢がありそうな。あとは、人気だろうけど、ソッカーボーイか」


 ソッカーボーイは、一口所有中で種牡馬としても活躍するはずのステディゴールドの近親で、この時点での長距離対応種牡馬の一線級である。


「牧場所有で、ランカの名で走らせるのならありかもしれん。……わしが引退するとなれば、牧場は畳むことになり、馬を買ってくれる人との付き合いも切れると思っとった。借金もあるし、相続にも手がかかる。そう考えれば廃業するのが綺麗な終わり方なんだ」


 それはまあ、そうなのかもしれない。上田競馬と近い状況とも言える。


「けれど、それでも跡を継ぎたいという者がいるなら、好きにやらせるつもりじゃった。実際、既に馬産の一部は番頭役の息子に任せてみている。……それだのに、たいして時間の残されていないわしに、そんな夢を見せるというのは残酷だとは思わないか」


 口調自体は柔らかだが、目は笑っていない。どうやら、本気で向き合うべき局面であるようだ。


「悪かったよ。……でもさあ、そういうセリフを吐く人って、実際は長生きするんじゃないの?」


「ふ」


 笑ってくれたのは、一安心である。


「他に惜しい馬はおらんのか。コグリキャップは、残念じゃが望みは薄いだろうて」


「だねえ。……ノーザントーストの後継種牡馬が出ていないのが気になる。ノーザンダンサー系は外国で盛んだけど、日本を席巻した種牡馬の直系が絶えそうというのは、さすがにちょっと」


「ふむ……。気持ちはわかるが、血統的には今ではありふれているとも言えるのでな」


「ノーザンダンサーの、サンデーサイレントにも似た狂気に近い血は確かにそうなんだろうけど、ノーザントーストのほっこりした部分もまた魅力だと思うんだ」


「……今からだと、直子ならマチカゼタンホイザくらいか」


「だねえ。これは、長距離血統の保全に比べれば、感傷程度の話ではあるんだけど」


「ウルトラクリーク、ソッカーボーイ、メグロマックイーン。このあたりを主力に馬産をしようなんて言ったら、気が狂ったと思われるだろうな」


「ごく一部でも、意味はあると思う。……あと、相続についてなら、後継者が固まっているのなら、法人化してそいつに株をもたせればいいんじゃないのかな? よく知らないけれど」


「法人化か……。急に牧場を拡大させて、うまく行った話はあまり聞かないが」


 ビオハヤヒデ、ハネダブライアンの兄弟を含めたスターホースを何頭も出して、絶対王者の譜代を追撃する存在になるやに思われた数年後に破綻した、名門の早沢牧場みたいな例もある。拡大路線が難しいのはその通りだろう。


「拡大のための法人化ではなく、事業継承をうまくやるためだと考えればありかも」


 話は尽きぬままに、来訪者はうとうととし始めた。


「あら、毛布を出しましょうね。……それにしても、智樹がここまで楽しそうに話しているのを初めて見たわ。よほど気が合うのね」


「そうなのかなあ?」


「ええ。普段の笑いが落ち着きすぎているから、ちょっと気にしてたのよ。心から笑える相手は貴重だから、仲良くしてもらいなさい」


 そのとき、呼び鈴が響いた。


「あら、誰かしら」


 やがて連れてこられたのは、美冬だった。


「おじいちゃんっ。……寝ちゃってるの?」


「うん、さっきまでおしゃべりしてたんだけど」


「ずるい……。わたしも話したかったのに」


「おっつけ起きると思う。……でも、なんか暮空家との関わりを隠したがってたみたいだけど」


「お母さんに追い払われたみたい。なんか、反りが合わないらしくって」


 やがて目を覚ました老牧場主は、自らが美冬の祖父であることを認めて、時雨里家の正式な客人となったのだった。


 借金取りの件でだいぶ心配していたようだが、時雨里家の面々の前であることに気づいて自重していた。ただ、孫娘を想う気持ちは溢れぎみで、美冬はだいぶくすぐったそうにしていた。


 帰ってきた父も交えて上田競馬の話で盛り上がると、美冬も話に入って楽しげだった。色々な意味で、まずは一安心だった。


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