【平成十二年(2000年)春】



【平成十二年(2000年)四月】


 中学を卒業すると、同じ小学校出身の三人は、全員が上田を離れることになった。薙野孝志郎は東京の高校へ。美冬と俺は日高……、静内へと向かう。


 暮空母は、快く末娘を送り出す形となった。やや拍子抜けしたもの、揉めるよりはよほどいい。


 静内に到着すると、すっかり元気になった天元のじっちゃんと、牧場経営を進めていく。人の再配置に、事前に相談していた種付け方針の適用、それに伴う出産後の牝馬の入れ替えなども行われた。


「マチカゼタンホイザをつける牝馬も用意しておいたぞ」


「タンホイザは後回しでいいって言ったじゃん」


「後回しは、若者の特権ぞ。できることは総てやっておくんじゃ」


「少なくとも十年は生きそうだけどなあ」


 その言葉が真実ではないのは、親しい者達にはわかっていた。思考こそ明晰だが、かつての肌艶は見られない。医師からも、覚悟はしておくようにと言われていた。


 去年誕生した馬達は、みな元気に育っている。中でも、長距離方向に向かいそうなウルトラクリーク産駒とソッカーボーイ産駒の牝馬二頭には、美冬が淡い光を感じるようになっていた。どちらも父名からヴェニス、ナデシコと名付けが行われている。このまま牧場所有となれば、ランカヴェニス、ランカナデシコと呼ばれることになりそうだ。


 リアルフダイ産駒の牡馬は、淡い光こそあるものの、体格がいかにも華奢で脚元が弱いそうだ。競争生活は厳しそうか、との話になったが、余裕ができれば自家種牡馬とすることも考えよう。


 当歳はウルトラクリークの子が牡馬で、ソッカーボーイ産駒は牝馬だった。ウルトラクリークの子は、この牧場で産まれた子馬にはめずらしく、誕生直後から美冬が光を感じている。ウルトラクリークもまた、後継種牡馬が早々に途絶える血脈なので、大事にしていきたい。順調なら、ウルティマクリークとでも名付けようか。


 ダート特化配合としては、ライブラマウントなども種付けしている。若番頭は、少なくとも表面上は不満を漏らすこともなく動いていた。


 繁殖牝馬としては、長距離向けの仔を出す父系母系ともに零細血統の馬に加えて、メグロマックイーンを父に持つ小柄な牝馬も探してもらっている。マックイーンは大柄なので、その血を引き継ぐからには大きい方がいいと思われているらしい。また、この頃は全般的に大きい馬が好まれる傾向にもあって、狙い目となりそうだ。


 ステイヤーとしては、道中の消費が少なそうな小柄が向きそうな気がするが、こればかりは正解がなさそうでもある。


 そして、牧場生活の裏で、美冬と俺の高校生活が始まっていた。暮空母の機嫌を取る必要はなくなったわけだし、既に生涯の仕事を見つけた状態なのだから、行かなくてもよいのでは……、との俺の意見は、美冬の一睨みで立ち消えとなった。むう。


 近くにある高校には、食品科と生産科しかなかった。それならと、生産科に入ったのだが、さらに二年から園芸コースと馬事コースに分かれるらしい。……牧場の経営者とそのアドバイザーが、高校で馬産を学ぶというのはどうなんだろう? 基礎を固める効果はあるのだろうか。まあ、いざとなれば園芸コースもいいかもしれない。


 


 天元のじっちゃんが、再びの入院生活となった。番頭さんは、出産と種付けをほぼ終えたところで孫娘の腕の中に倒れるのが場長らしいと笑っていた。


 病室に牧場の各部門の要員が日参して、判断を仰ぐ形となった。実際には、よいようにしろと言われる場合がほとんどだったようだが、それでも最後の日々に繋がりを持ちたいということなのだろう。


 美冬と俺は、学校帰りに顔を出し、おやつに付き合うのが日課となっていた。胃腸の方は強靭なようで、制限はあるにしても普通に食べられる状態だった。


 高校では、部活動か局活動に参加しなくてはいけないそうだ。興味本位で馬術部を覗いてみたら、やたらと馬への当たりの柔からな騎乗者がいた。


 思わず声をかけると、一個上らしいその女生徒は、師匠はこんなもんじゃないと憤慨していた。いや、憤慨されても……。


 どうやら、卒業生がコーチ的に来ているらしい。いずれ顔を合わせる場面もあるだろうか。


 ただ、馬術部は拘束時間的に差し障りがあるため、俺は図書局へと加入することにした。こちらは、図書室の運営が主な業務で、のんびり過ごせそうだ。馬産向け資料を入手するのもよいかもしれない。




天皇賞はエムテイオペラオウが制覇した。世紀末には、この馬が絶対王者……、覇王として君臨することになる。一方でステディゴールドは四着と引き続き善戦マンぶりを発揮している。


 そんな中で、天元のじっちゃんから競馬場に……、最後に東京競馬場に行きたいとのリクエストがあった。


 正直なところ、今の病状での長旅は、命を危険に晒しかねない。そう反対する男性陣に対して、声を上げたのは美冬だった。


「おばあちゃんとの思い出の場所に行きたいというのを、止めるわけにはいかない」


「……そこで落命したとしてもか」


「死んでほしくはないけれど、それも覚悟している」


 孫娘にそう断言されては、その方向性で動かざるを得ない。ただ……、爛柯牧場の馬が中央競馬に出走することはほとんどない。出たとしても、未来を示す馬でなくては意味がない。


 そう考えた俺は、あるレースを念頭に、新田氏に相談を持ちかけたのだった。



【平成十二年(2000年)五月下旬】


 2000年5月20日の土曜日。天元のじっちゃんと爛柯牧場一行は、東京競馬場を訪れていた。


 メインスタンドは、この七月からほぼ建て直しとなる大改修工事が行われる。その直前に訪れたのも、何かの因縁なのだろうか。


 貴賓室に通してもらったのは、新田氏の特別な計らいとなる。眼前では、目黒記念の本馬場入場が行われていた。ステディゴールドは、変わらぬ気の強さを表に出している。


「今日、多岐勇輝騎手があの馬を勝利に導くよ。その後も、GⅠ戦線に立ち続けるけど、多岐騎手は確保できず、敗戦を繰り返すことになる。けれど、いずれ再び多岐騎手を鞍上に迎えて、ドバイで海外重賞を制し、最後には香港で海外GⅠを獲得することになる」


「そうか……」


「このサンデーサイレントの血を引く晩成の中長距離馬と、日本で繋いできた長距離血統のメグロマックイーンを主軸に、ソッカーボーイ、ウルトラクリーク、リアルフダイも組み合わせていこう。さらには、ノーザントーストの血を引くマチカゼタンホイザも……」


「夢が広がるな」


 向こう正面へとステディゴールドが駆けていく。


「……ごめん。地方競馬でと言っていたけれど、中央に打って出るかも」


「それもありだ」


 やがてゲート入りが始まり、歓声がメインスタンド上方のバルコニー的な席にまで届いた。


「ああ、競馬はいいな。最初にあいつと一緒にここに来たのは、いつのことだったか……」


 半ば譫言のように、想い出話が紡がれていく。天元青年と若妻との馴れ初めは、駆け落ち同然だったらしい。右手を美冬が、左手を俺が取り、番頭と若番頭の父子が肩に手を添え、古参スタッフもそれに続く。


 語りは時代を下っていく。家族の思い出から、苦難の時期へと続き、新たな希望について語る際には笑みもこぼれていた。


 レースが始まり、ステディゴールドが最後の直線を駆け上がったところで、天元護久の命の灯は消えようとしていた。爛柯牧場の関係者は、ゴールの瞬間をしっかりと見届けた。長い、長いレースが幕を下ろした。


「爛柯牧場は、天元護久の想いと共に長距離を勝てる馬作りを進めていく。今日のこの日に場長と一緒にゴールの瞬間を迎えたステディゴールドを基軸に、既存の長距離血統を組み合わせる形で、高みを目指すことになるだろう」


 俺の言葉は、美冬のすすり泣きの前には、ごく軽い印象しかもたらさなかったに違いない。それでいいのだとも思う。俺は、俺の道を進もう。




 情報は東京競馬場の関係各所を駆け巡り、多くの人が天元護久の死を悼みに来てくれた。その流れもまた、新田氏の計らいとなった。


 諸々の手続きを終え、故郷に戻って行われた葬儀では、孫娘の美冬が後継者としてお披露目される形となった。成り行き上、隣に立つことになった俺は、誰だお前、という状態だったろう。


 長距離特化を目指すとの美冬の宣言は、驚きの声をもって受け取られた。物を知らぬ小娘の戯言と思われただろうか。まあ、その方がよいのかもしれない。それでも、譜代ファーム、メグロ牧場などが香典がわりに便宜を図ると言明してくれた。


 譜代の総帥には、ステディゴールドをいつか種付けしたいと伝えておいた。亡き天元場長が最後に観戦したレースの勝者だから、というのは理由としては弱いだろうか。


 メグロ牧場を束ねる人物には、メグロマックイーンの種付けをねだらせてもらった。検討するとしながらも、なかなか雄大な馬格の産駒が生まれづらくて、との苦労話も聞かせてくれた。


 付き合いがある馬主さんたちも多くが参列してくれ、そのお礼に巡るのが牧場新体制のあいさつ回りとなった。美冬と番頭さん、俺の三人セットが基本となる。


 番頭さんは、このタイミングで息子に引き継ぎたいとの意向もあったようだが、さすがに若番頭と三人では軽すぎる、との判断に至ったようだ。なかなか楽はさせてもらえませんなと苦笑していたが、実際は天元のじっちゃんより一回りほど若いそうだ。少なくともしばらくは見守ってもらうとしよう。


 長距離路線は、ある程度までは理解されたようだが、実際の馬作りを見てから、との反応が多かった。モデルケースとなるべきウルトラクリーク産駒牝馬のランカヴェニス、同じくソッカーボーイ牝馬のランカナデシコは数えの三歳となる。デビュー時期が近づき、中央での預託先を当たってもらっている状況だった。年齢表記を国際標準の満年齢に合わせる見直しは、翌2001年からとなる。


 想定通りに長距離適性があるようなら、晩春の2500メートル未勝利から長距離路線を狙い、頃合いを見て上田競馬に向かうというのが現状の想定である。未勝利に加えて五百万下くらいまで突破してくれると、地方で大活躍したくらいの賞金が得られるので、がんばってほしいものである。


 他の産駒は、美冬が光を感じる馬を馬主さんへの直接取引として、見えない馬は競りで早々に売却する形とした。血統は大切だが、その馬の競争能力や気質から引き継がれるものが皆無だとは、やはり思えない。配合理論も、ほとんどが活躍した馬同士での掛け合わせなのだから。


 ただ……、光が見えていても、売れない馬はやはり出てくる。牝馬は牧場所有から繁殖牝馬としての道もあるのだが、牡馬の、特に若番頭配合の馬が悩ましかった。


 多少勝てても、血統的な稀少さがなければ、種牡馬にするわけにもいかない。頭を悩ませていると、トレーニングセールに出せないかな、との意向が若番頭から出てきた。そうか、導入されるような時期なのか。


 トレーニングセールとは、ある程度調教した馬を会場で実際に走らせてみた上で、競りにかける方式だった。従来方式の競りは、競り場に引き出して馬体を見せる形なので、だいぶ意味合いが変わってくる。それに伴って、時期もだいぶ違っているのだった。


 調教なら、高校の馬術部に相談してみようかと話は転がり、なぜか俺を見ると威嚇してくる先輩女子に話を持ちかけたところ、コーチに来ているOBが乗り運動の助っ人的な仕事をしているというので、紹介してもらう流れとなった。


 爛柯牧場の運動場は、お世辞にも広くはない。隣の牧場が調教コースを備えているので、使わせてもらうことになった。


 ヤマアラシのようにツンツンとした言動の先輩に紹介してもらったその人物は、春待綾人と名乗った。馬への当たりだけでなく、人への対応も柔らかく、優しげで紳士的な物腰である。ヤマアラシ先輩は、その面も見習った方がよいと思う。


 同性ながら惹きつけられる魅力を感じさせる春待先輩は、大学を休学して馴致から入厩前の調教を手伝い仕事としてこなしている状態だそうだ。父親が病気で、実家の牧場が火の車なのだとか。まあ、競走馬の生産牧場は、どこもわりとそんな感じである。


 既存の仕事は早朝から午前に集中していて、午後なら身体が空くそうだ。実際に三歳馬のランカナデシコに乗ってみてもらったところ、手慣れた様子で馬との対話を始めた。


「ぜひお願いしたい。俺がやってもいいんだけど、学校もあるので……」


 俺の言葉に、ヤマアラシ先輩がキレた。


「内地生まれが偉そうに。できるもんならやってみろっ」


 どういう差別なんだ。あるいは、内地民が道民を差別しているからそれに対抗する、いわゆる逆差別との認識なのか。


「うーん、普通に食べてきたから、体格よくなっちゃってるしなあ」


 鞍が置かれていたランカヴェニスの肩を撫で、背にまたがる。俺の胸腔を懐かしい感覚が満たした。


 前世では、この鞍の上を生涯の仕事場にするつもりだった。


「おうおう、人を乗せたのは初めてか。そうかそうか。だいじょうぶ、ゆったり構えてていいんだぞ」


 春待先輩は感嘆の息を、ヤマアラシ先輩は毒を漏らした。


「乗れるんなら、そう言え。バカ」


「いや、馬に乗るのは初めてだが」


 今生ではな。嘘は言っていない。


「ちょっと歩いてきていいか」


「お前のところの馬だろうに」


「いや、預ける話を持ちかけたからには、責任も感じるだろうし」


「その所作なら問題ないでしょう」


 前世では、調教済みの馬にしか乗ったことはない。俺は対話をしながら、天元のじっちゃんの忘れ形見をゆったりと歩ませた。


 


 隣の牧場の調教コースを空き時間に借り受けて、春待先輩らに馴致からの乗り運動を依頼していくことになった。ただ、俺もできるだけ参加することが条件にされてしまった。なぜなんだ。


 放牧時の乗り運動も頼みたいとの依頼もしたところ、乗馬部人脈に声をかけてみてくれることになった。


「人選は任せるが、人とコミュニケーションの取れる馬に育てて、その関係性を強化していけそうな乗り手に限定してほしい」


「運動強度ではなく?」


「トレーニングセールで見栄えのいい走りをすることにも意味はあるが、その先の活躍がないと、将来にはつながらない。売り逃げを目指しては、いつかしっぺ返しを喰らうだろうからな」


 俺の反応に春待先輩は穏やかな笑みを浮かべ、ヤマアラシ先輩は対照的に苛立ちをあらわにしていた。


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