【平成十一年(1999年)冬~平成十二年(2000年)新春】
【平成十一年(1999年)十二月】
天元護久の昏睡状態は続いている。そして、有馬記念が終わったタイミングで、美冬と智樹は北海道を訪れていた。
GI勝負は、智樹が土曜に予想を書いた葉書を投函する形式で行われた。結果は、智樹が全レース単勝と馬連一点予想で的中。若番頭は三つのそこそこの的中という形となった。
智樹は、予想勝負は参考程度の話で、天元護久の意志が総てだとの立場だった。その態度は、若番頭をひどく落ち着かなくさせていた。
馬房を見回っていた西秋隆のところにやってきたのは、美冬だった。
「何の用だ。自分から持ちかけた勝負で惨敗した俺を笑いに来たのか」
「いいえ。提案をしようと思って。爛柯牧場は、三つの牧場の集合体なのよね。その一つをあなたが管理して、競い合う形で運営するのはどうかな。共通化できることは共通化して、きょうだい牧場として」
「組織を割ってどうするよ。それも、あいつの提案なのか?」
「ううん、智樹には話していない」
「なら、どうして」
「自分はおじいちゃんの……、天元護久の孫だから、この牧場のために役割を果たせるだけでうれしく感じる。でも、みんながそうである必要はない。元々、あなたに譲ることも考えていたみたいだから、別立てでやるのもいいのかも、と思って」
「でも、GⅠ勝負では完敗だ。譲歩される理由がない」
「智樹は、GⅠの勝ち馬を当てたところで、馬産の役に立つものか、って言ってたわ。牧場で実際に役割を果たしてきたあなたの方が、この牧場での未来への関わり度合いでは、格段に上なんだとも」
絶句した若きホースマンは、やがて気を取り直して恩人の孫娘を見つめた。
「あいつは、どうして勝ち馬がわかるんだ。ブゼンロウソクとトケイジカケだぞ? あれは……、もう予想の域じゃないだろ」
「なにかが、耳元でささやくらしいわ」
「なんだそりゃ」
「わたしたち母子三人が、借金取りに追われてどうにもならなくなって、お姉ちゃんが風俗に売り飛ばされそうになっていた時、あいつは万馬券を……、七万馬券を四万円、一点勝負で的中させて助けてくれた」
「はぁ?」
「その残りで、お姉ちゃんの会社を作って、タイジュシャトルとキヌノジャスティスとステディゴールドに出資するように指示したの」
「化け物か。……あるいは、競馬の神の使いか」
「智樹は、そのことが明らかになって、恐怖されるのを怯えている。おじいちゃんにも言わないようにと頼まれた」
「ちょっと待て、場長はそれを知らないのか?」
「キヌノジャスティスのダービーと有馬記念、あとはタイジュシャトルのGIでの馬券くらいかな? 応援馬券と捉えられそうよね」
「そうなのか……。自慢気にあいつの当たり馬券を見せびらかしていたから、勘違いしていた。場長は、あいつの当て物の能力を見込んだわけじゃないんだな。未来を見据えた夢を、自分がかつて手放したものを、本気で目指している点に惹かれたんだ」
「ええ。そうだと思う」
「場長の、おそらく最後になる時期にやる気をもたらしてくれたことには、心から感謝している。同時に、自分にはそれができなかったのが歯がゆくて、癪に障るんだ」
「おじいちゃんは、愛されていたのね」
「ああ、すごい人だったんだ。この町のために尽くし、困窮した人がいれば援助し、職の世話もして、貧しい家庭の子が学びたがっていれば学費を融通して、どうにかして盛り上げようと試みて……。そういった活動に人手や資金が取られていなければ、この爛柯牧場は、今みたいな弱小牧場では留まらなかった」
言葉を切ると、若番頭と通称される人物は唇を噛んだ。
「俺にもあいつのような……、いや、あいつにささやく存在の力があれば」
「でも、智樹は、それはズルなんだと、自分の実力ではないんだとも言っていた。爛柯牧場についても、おじいちゃんの意志が明確に示されない以上は、あなたたちが決めることだと割りきっている。私が絡むのなら、姉さんにきつく言われてるから、関わるだろうけど」
「持てる者の言葉は残酷だな。……なら、対抗しても仕方がないか。あいつにではなく、あいつの耳元でささやく存在となんて」
若駒の首を撫でた隆は、気を取り直した様子で場長の孫娘に向き直った。
「あんたは、この牧場で何をしたいんだ」
「孫娘であるわたしが、おじいちゃんの為そうとしたことを繋げていくのに役立てるなら、よろこんで歯車になるわ」
「駆動力のある存在が、歯車なものか」
その言葉は、半ば口中に留まっていた。
「え? なんて言ったの?」
「いや、なんでもない。……わかった。君とあいつの方針に従おう。だけど、言いたいことは言わせてもらう」
「大歓迎よ。頼りにさせてもらうわ」
握手が交わされたところで、馬房の扉が開いた。
「ここにいたのか」
息を切らせた智樹に強い視線を向けられて、美冬は焦った。
「違うの、これは……」
「じっちゃんが目を覚ました。すぐ来てくれ」
二人は総てを忘れて、母屋へと駆け出していった。ふーっと息を吐いた智樹もまた、それに続いていった。
【平成十二年(2000年)一月】
有馬記念直後に爛柯牧場の長が意識を回復したのを受けて、年末年始で急速に法人化準備が進んだ。基本は現物出資で、借金も引き継ぐことになる。
暮空姉妹の母親は、牧場経営に関わることを強く拒絶した。今回は相続ではないために、遺留分がどうのという話ではない。それがわかっているのかどうかは、正直なところ不明である。
俺にとっては当たりの柔らかい隣家のご婦人なのだが、美冬からは別の印象があるようだ。そう考えると、距離を置くのもありなのかもしれない。
ここまでの間、遥歌さんとはやや疎遠気味になっていた。美冬と俺は、天元のじっちゃんや爛柯牧場関連の対応に気を取られ気味で、ひふみ企画側では経営対応で忙しかったのだろう。
牧場の法人化にあたっては、ひふみ企画の関与も想定される。正月休み明け早々に、美冬と俺はひふみ企画を訪れた。今回は、渋谷オフィスでの打ち合わせとなる。
久闊を叙すのもほどほどに、大型モニターに資料が映し出された。
「今回の事態を解消するためのスキームを提示します」
司会役は、いつぞや顔を合わせたきりっとした美人さん、三浦琴音嬢だった。要旨としては、ひふみ企画のネット部門の分社化となる。新会社の株式は自社保有の他は遥歌がほとんどを持ち、ひふみ企画については美冬が持つ形として、互いの持ち合いは最低限にし、牧場は従来のひふみ企画が保有する、というものとなる。
「ネット事業と競馬事業の相乗効果はごく低いレベルにあります。競馬事業側の外注仕事や広告枠仲介は、取引先としての対応で問題ないでしょう。一方で、一体となっていると……、審査に有害なのです」
審査とは、上場についてだろうか。この頃は、マザーズやら日本版ナスダックやら、東証以外の新興市場が立ち上がった時期でもある。
「上場するのなら、分割もきっちりやらないと、痛くもない腹を探られるよね。その辺はどうなの?」
「交換比率の計算はこれからだけど、美冬にはひふみ企画のあたしが持っている株式を全部、それに新会社……、ひふみの株を美冬本人とひふみ企画で合わせて5%程度と思ってる。上場すれば、いい金額になるわ。だから、悪い話じゃないと思う」
「美冬はそれでいいのか?」
「智樹がいいと思うのなら」
穏やかな表情でそう言われてしまうと、まじめに考えるしかなくなる。
牧場経営が破綻に向かうと考えれば、美冬にとって悪い話になるだろう。けれど、俺の前世知識と美冬の相馬眼があれば、大火傷はせずに済みそうでもある。
ひふみ企画に残る競馬部門の事業も、上田競馬と北関東の地方競馬以外の取引先も増えてきていて、今後十年を我慢できれば、それ以降は安泰となるはずだ。そこまで生き延びられる前提でなら、新会社に株式を持たれていないのは、むしろ好条件に転ずるかもしれない。
新生ひふみサイドの本音としては、美冬はともかく、ひふみ企画に新会社の株式を保有して欲しくないのかもしれない。まあ、そこは後で考えればいいか。
「うん、よきように」
遥歌さんが小さく、安堵したような息を漏らした。上場準備が簡単に進むはずもない。しばらく前から計画されていたんだろう。
少し早口に、渋谷オフィスの主が口を開いた。
「サイト運営や広告関連の業務支援は手厚くしていくからね。それも、そちらの助けになるはずだから。……ありがとう」
元来は、こんな風に恩着せがましい物言いをする人物ではない。どうも、なにかに毒されているようでもある。
筋の悪い男と付き合ってる、とかじゃないといいんだけど。駐在さんも、若番頭もお眼鏡にはかなわなかったようだ。
話が落着したところで、琴音さんが新たな資料を映し出した。内部検討向けの資料だと言いながらも、しっかり作り込まれた状態にある。
分割して新たに設立されるひふみは、ここ渋谷を本拠にネット広告代理店、ポータルサイト運営、サイト制作などを手掛けていくそうだ。
一方のひふみ企画は、引き続き武蔵小金井駅東端至近のオフィスで、相変わらずの開かずの踏切を眼下にしながら、競馬関連のサイト制作、競馬系コンサル、一口馬主情報サイト関連事業を継続する。
新設される牧場法人は、ひふみ企画と美冬とで株式を分け合う形になりそうだった。
上場については、俺の目には焦りすぎに映る。ITバブルはさほどでもなくても、その後のリーマン・ショックの時点で上場していたなら、おそらく直撃を喰らうはずだ。
まあ、早期上場というのは、そもそも慎重派の遥歌さんから出てくる発想ではない。ただ、ひふみ企画としては、また、爛柯牧場にとっても、悪い話ばかりではなさそうだった。
前年の競馬界では、エルコンドルパサが欧州遠征を果たし、GIサンクルー大賞典とGⅡフォワ賞に勝利し、欧州最高峰のレースとされる凱旋門賞と、GIイスパーン賞でどちらも二着と活躍した。
メイユウオペラが地方所属の状態でフェブラリーステークスを制したのも、地方競馬界からすれば大きなニュースだっただろうか。まあ、交流重賞が増えている現状では、時間の問題だったのかもしれない。
多岐騎手のダービー連覇も快挙であるが、これまでとその後の長期にわたる活躍を考えれば、これもあり得ないような話ではない。
世相という意味では、1999年七の月に世界が滅亡するとされていた予言が実際のこととはならず、犬型ロボットのアイボが人気を博し、i-modeが急速に普及し、だんご三兄弟やLOVEマシーンが流行るという、なかなかカオスな状況でメモリアルイヤーの2000年が迎えられていた。
翌年には二十一世紀が始まるわけだが、さほど代わり映えのしない日常が続くことになる。それでも、春に生じる生活の大転換は、俺をやや不安にさせていた。
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