【平成十一年(1999年)春~夏】


【平成十一年(1999年)四月末】


「それでおじいちゃん、リアルフダイの子は牡馬だったのね?」


「ああ。ちょっと体つきは華奢だが、賢そうだぞ。ソッカーボーイ、ウルトラクリークの牝馬が体力派っぽいのとは好対照だな」


 電話の向こうで祖父の声が弾んでいるのを聞くと、美冬の胸が温かくなる。彼女が受話器を手にしているのは、自宅ではなく時雨里家の廊下だった。牧場絡みの話をしていると、母親がいい顔をしないためである。


「今季の種付けは、長距離路線に大きく舵を切るつもりだ。順調に美冬と坊主に受け渡さないといかんからな」


「計画はまとまってるの? 智樹が知りたがってたけど」


「頭の中にしっかりあるぞ。だが、坊主が見たがっているのなら、まとめるとしようか」


「でも、無理はしないでね」


「無理なもんか。既に決めているのを書き出すだ……け……」


「おじいちゃん?」


 受話器の向こうから響いた鈍い衝突音が、美冬の心を波立たせた。


「ちょ……、おじいちゃん? ねえ、おじいちゃん」


 ざわめきの音声を拾った後に、番頭役から天元場長が倒れた旨の伝達が行われるまで、美冬は我を忘れて叫び続けた。時雨里家の面々は、それぞれのやり方で傷心の少女を気遣ったのだった。




「おじいちゃんは……、牧場はどうなっちゃうのかな」


「そうだなあ。承継の話は進んでいたけど、実際の手続きは済んでいなかったんだよな。ならば、従来の組織で継続してもらうしかなさそうかな」


「でも、長距離路線にシフトするって言っていたのに」


「紙で一覧になっていたならまだしも……。若番頭に任せるしかないだろうな」


 不満顔の美冬に対して、智樹はどこか達観した様子である。孫娘への権限移譲が沙汰止みになるのなら、それはそれだと割り切っているためもあった。


「智樹は、おじいちゃんの意向が通らなくてもいいの?」


「そういうわけじゃないけど……。移譲をはっきり宣言し、種付け計画を示していたのならともかく、そうでないなら、これまでの枠組みで動くしかないかなって」


 不満げに睨みつけられても、智樹としては肩を竦めるしかなかった。




【平成十一年(1999年)夏】


「血色だけで見れば、具合はよさそうなんだけどな」


「体力はありますからな。問題は循環器の方でして……」


 番頭さんの言葉に力はない。心臓は、確かに鍛えられる場所ではない。


「牧場運営は順調のようで、なによりです」


「長距離路線への転換は打ち出されようとしていたものの、具体的な計画にはなっておらず……。息子の方針で進めるしかありませんでした」


「無理もありません。そこで、美冬や俺が口を出していたら、牧場は崩壊しかねなかったでしょう」


 実際問題、スタッフの多くは孫娘である美冬への継承も、長距離路線への転換も納得していないだろう。天元のじっちゃんに直に説得されてようやく、従ってもらえるかどうか、くらいに思える。


「ご配慮に感謝します。ソッカーボーイ、ウルトラクリークをつけた二頭は前年のままです」


 リアルフダイの子を生んだ牝馬は、若番頭の計画に組み込まれたそうだ。まあ、去年の種付け自体が無理やりだったようなので無理もないだろう。


 種付けした種牡馬のリストを見せてもらったが、既存馬主さん向けとスピード対応の中間くらいとなる方向性のようだ。その両面からのどっちつかずとも取れるが……。


 場長が眠り続けるのなら、現体制が維持されることになる。目を覚ませば、その時点での状況を元に、判断が行われるだろう。


 一番ややこしいのは、あまり考えたくないが、このまま永眠となってしまう流れとなる。三人の名義に分かれているとはいえ、牧場の大部分は天元のじっちゃんの個人所有で、相続先は一人娘の暮空母となる。相続放棄されて姉妹が受け継ぐとしても、相続税対策が必要となろう。ここに、暮空父の使嗾によって、姉妹の母が参戦して来るようだと、さらにややこしくなる。まあ、借金の額によって、話も変わってきそうだが。多額なようなら、正直なところ清算も視野に入る事態となる。


 眠れる場長に、美冬は親しげに話しかけている。その想いが届くようにと祈りながらも、智樹は現実と向き合う覚悟を固めていた。


 長距離路線の是非はともかくとして、種付け方針に介入すべきかどうか。そこが悩みどころとなりそうだった。




 若番頭から示された来年以降の種付け方針を一言でまとめると、現在のダート向きの頑丈な馬を出す繁殖牝馬達を整理して良質な繁殖牝馬を確保し、サンデーサイレント系や、キングリンボー系をつけたい、というものだった。この時期、キングリンボーの初年度産駒であるエルコンドルパサによる凱旋門賞挑戦は、競馬界の大きな話題となっている。


「キングリンボー牝馬に、サンデーやその後継種牡馬を付けられるようになれば最高の展開だなあ。そして、有望な馬は譜代の育成牧場に預けたい。そうでもない馬は、トレーニングセール向けに……」


「買ってくれる馬主さんの当てはあるのかな?」


「走りそうな子が出れば、競りで。でも、有望なのは、牧場所有か、遥歌さんに持ってもらって……」


「それで、種牡馬にって感じかな。うーん、わかるんだけど、なんか「優駿」みたいだな」


 俺の言葉に、美冬が反応した。


「優駿って、オラシオンの?」


「そうそう。もはや古典って感じではあるけれど」


 むっとしたらしい若番頭の声音が強まる。


「まっとうな考えには、普遍性があるんだ」


 図星だったのだろうか。そして、仮に活躍する牡馬が出ても、オラシオンと違って超主流血統なわけで……。


「既存の馬主さんは?」


「他の牧場を紹介する。生き残るためだ」


「うーん」


 そのやり方で走る馬が出る可能性は、もちろん皆無ではない。うまく回る未来もあり得る。さらに言えば、俺の未来知識で活躍するはずの馬を獲得すれば、話は変わるだろう。ディープインパクツという、競馬史をさらに塗り替える存在が生まれるまでには、まだ二年ほど時間がある。


 吐き捨てるように、天元のじっちゃんの腹心が息子に言葉をぶつけた。


「それは博打だ」


 いつになく強い口調で断じられて、若番頭がはなじろむ。


「やりたいなら、自分でカネを稼いでやれ」


 正論だが、薔薇色の未来に捕らわれた若者には響かなかったようだ。そして、美冬と俺に剣呑な視線を向けてくる。


「あんたらは、この爛柯牧場を引き継いだら、どういう種付け方針にするつもりなんだ。場長からは断片的にしか聞かされていないんだ」


 美冬のすがるような視線を感じながら、俺は口を開いた。


「まずは、長距離適性のある馬を。できればダートもこなせる配合で」


「迂遠だな」


「隙間市場狙いなのは否定しない。次いで、ダートのエキスパートを。芝馬を狙ってたまたまダート馬を出すんじゃなくって、配合から狙っていきたい」


「それもまた、迂遠に過ぎる」


「ダート路線が中央、地方交流の双方で整備される方向なのは間違いない。広く考えれば隙間かもしれないが。どちらも、地方競馬水準での馬作りをして、いい方向に出れば中央進出も、というスタンスで、地方競馬の馬主さんの満足度を高めていきたい」


「お前に、競馬の何がわかる」


「そうだなあ、何をもってわかると考えるかだなあ」


 埒が明かないと考えたのか、若番頭が提案を投げてきた。


「予想勝負なんかどうだ」


「GI予想勝負とかか?」


「それで行こう。秋競馬で決着をつけようじゃないか」


 この人物がなかなかの馬券師であることは把握済みだった。前世の記憶が残っているGIに誘導するのは、完全なズルではある。まあ、まさか本気で予想勝負をして決めるつもりではあるまい。天元のじっちゃんも、いつまで寝ているわけではなかろうし。


「それはそれとして、夏休みの間は手伝わせてもらいたい。それでいいかな?」


「わかった。……場長がいつ目覚めるかにもよるがな」


 口調からは、目覚めない場合については意図的に除外していそうな感触が見てとれた。




 爛柯牧場での滞在中に、競馬学校騎手課程の一次合格者が発表された。前世の自分の名にこういう形で触れるのには、気色の悪さを感じざるを得ない。


 前世の俺にとって、合格が確定し、入学式を迎え、怪我をするまでが人生の絶頂だった。あの頃の万能感を今でも思い出すことができる。続く時期の喪失感との落差は激しいものだった。


 ただ、今ではさすがに一歩引いて考えることができた。事故を阻止できればと思わなくもないが、あの女神の口ぶりからして、直接介入は一発退場なのだろう。そこで博打を打つのをためらうくらいには、今生の俺にも色々と関わりができてきている。


 そして、一次合格者には懐かしい名前もあった。最後まで俺を心配してくれていた、高瀬巧である。


 当たりの柔らかさとペース配分を長所とするあいつは、競馬界に戻る気になればいつでも声をかけてくれと、欠かさず年賀状を送ってきていた。自分もリーディングの下位で苦労して、調教中心の動きとなっていたというのに。


 前世での俺は巧に対して、持てる者からの哀れみなんてごめんだなどと嘯きながら、姪っ子には頼れる相手として話すなんて、一貫性のない態度を取っていた。


 せめて別れのあいさつを残すべきだったろうか。姪っ子が騎手になったら、思い出話をしてくれるかもしれない。



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