【平成十年(1998年)冬~平成十一年(1999年)春】
【平成十年(1998年)年末】
有馬記念が終わり、競馬界は来年に向けての展望が行われる時期となった。
ここからが地方競馬のターンとなるはずで、上田競馬でも正月休みが終わる時期までに十日ほどの開催が予定されている。
来年度からは原則土日開催に移行し、年末年始は完全休業とするため、最後の年末年始開催と銘打って様々なイベントを仕掛けているそうだ。そこには、ひふみ企画のイベント部門も関わっていた。まあ、実際は外注に頼っている状態らしい。
暮空家の女性三人による家族会議は、簡単には決着はつかなかったものの、ひとまずの落着を見ていた。
中学は上田で卒業すること。あちらで高校までは通うこと。そして……、俺が一緒に北海道に向かうこと。
特に最後の項目は、どうしてこうなったんだ?
ひふみ企画の現状としては武蔵小金井駅東端から至近のオフィスが手狭となり、会社の方向性が分かれているのを受けて、チーム分けして別オフィスを確保する動きとなっている。
ポータルサイトとして育っているひふみ総合案内の運営と、一般向けサイト制作、ネット広告事業はネットチームとして。サイト制作の中でも競馬に係ること、競馬系のコンサル、一口馬主関連は競馬チームと分類された。
連携はしていくにしても、ネット部隊は別オフィスへ移り、競馬チームは引き続き武蔵小金井駅前となった。
そして、牧場の継承の話は、やはり法人化の形になりそうだ。未成年の女子が引き継ぐとなると、色々とややこしいのかもしれない。
タイジュシャトルの最後のレースは、師走の短距離GI、スプリンターズステークスとなった。3着に敗れた後には、調教師から既に種牡馬の身体になっているとの発言が出ていた。藤島調教師の口から出ると、そうなのかと納得してしまうから不思議である。
実際には、翌年も現役を続けていれば、いくつかのGIタイトルを積み上げられていたかもしれない。その分の賞金は、出資者に入るはずだったわけだが……。まあ、一口馬主クラブが出資者の利益を最優先させるとは限らない。特にタイジュはその傾向があった。
キヌノジャスティスは、中長距離GI路線を歩んで、この年は勝利なしに終わった。……実は、来年も勝ち星無しでの引退が、前世での流れだった。まあ、既に充分に稼いでくれているのだが。
ステディゴールドも未勝利だったのだが、印象はまるで異なる。春天、宝塚で2着だったのに続いて、秋の天皇賞でも2着、有馬記念では3着と好走している。
お前は、ナチュラルネイチャかっ、というツッコミが入りそうなシルバー&ブロンズコレクターぶりが、変な人気を集めるのも前世通りとなっていた。この時点で、勝利したのは未勝利戦と500万下、900万下だけなのだから、なんとも徹底している。
ステディゴールドのこの状況は来年も続くのだった。まあ、おかしな人気になるのもわからないでもない。
秋の天皇賞では、サイレントスズカが非業の死を遂げた。レース中の馬が故障する映像は何度見ても嫌なものだが、目を背けるわけにもいかない。そして、秋には種牡馬入りしていたハネダブライアンが急逝してしまった。父親のブライアンズタイムスは、この後も長く活躍馬を輩出するはずだが、代表馬を一頭挙げるとしたら間違いなくハネダブライアンとなるだけに、残念ではあった。
海外絡みの話としては、ジャパンカップを制したエルコンドルパサが翌年の欧州遠征を発表し、海外進出も新たなフェーズを迎えようとしていた。
対して、朝日杯三歳ステークスでは、短期免許を得て日本で騎乗中のロバート騎手がGI制覇を果たした。ヨーロッパでは、秋から春までは競馬がほとんど開催されていないため、この流れは加速していくことになる。
一口馬主への出資は、三頭で打ち止めにするつもりだったが、ひふみ企画の競馬チームが独自路線を歩むのなら、再開するのもありかもしれない。
中学卒業までの猶予は、あと一年三ヶ月。まさか、北海道へ転じることになろうとは……。まあ、なるようになるか。
【平成十一年(1999年)正月】
正月が開けて程なく、東京のひふみ企画オフィスで打ち合わせが持たれた。まあ、東京と言っても、都下の武蔵小金井なのだが……。
都下は東京じゃない、と傲然と言い放ったのは誰だっただろうか? 長野県では、県内と県下という二つの言葉が示す領域は完全一致だが、東京においては都内とは二十三区で、都下は多摩地方の市や村を指すため、まったく別の地域となる。内じゃないから東京都じゃないんだ、という「都下は非東京」論の理屈自体はわからないでもない。
そして、ひふみ企画のネット部隊は渋谷へと拠点を移していた。渋谷は特別区の地域で、まさに都内に入ったわけだ。ビットバレーと呼ばれるIT企業群密集地域への仲間入りという形となる。
遥歌さんは、普段は渋谷オフィスにいるそうで、武蔵小金井に来るのはひさしぶりらしい。美冬と俺は、競馬部隊とは初顔合わせとなるので、同席するとの話になっていた。
競馬部隊のトップは、競馬コンサル対応を一手に引き受けてくれている、物腰の柔らかい男性、片瀬氏である。草創期から参加している、遥歌さんの大学時代の先輩だというデザイナーの知人で、その縁で加入してくれたそうだ。
各地方競馬場に出入りしていて、信頼されつつあるようだが、おっとりした物腰ながら二枚目というアンマッチぶりで、謎の雰囲気を漂わせてもいた。
一方のデザイナーさんは、ネット部門を含めてのデザイン系の総元締め的な立場で、やや癖のある人物だそうだ。悪い人でないのは間違いないが、クライアントとの交渉も喧嘩腰になるらしく、あまり客先に出さない対応が取られているとのことだ。
打ち合わせ前の雑談的に、タイジュシャトルの種牡馬としての売却代金の配分についての話が出た。
「最初から、規約で決まっていたのなら、まだわかるのよ。でも、いざ高額で売却するとなってから、一口馬主としての枠を越えてるとか言って配分を無しにしようとか、なにを考えているのか」
文句を吐き出す遥歌さんは、むっとした様子である。
「出資者の資金で運営しているって自覚がないんだろうねえ。まあ、さすがに中央競馬会が黙ってないだろうし、撤回されるんじゃないかな」
タイジュはこの後、いったん崩壊に近い状態になるはずだ。気にする必要はないだろう。
「配分があるかないかで、競馬部門の収支が変わってくるのに」
そのタイミングで、遥歌さんの隣にいた人物が口を開いた。ややきつめながらも整った顔立ちで、穏やか系の遥歌さんとは対照的な印象である。どちらも美人と言って間違いのない水準だった。
「以前から申し上げている通り、競馬部門を残しておくと、今後のひふみのためになりません。廃止を検討するべきかと」
「あのねえ、琴音。これから競馬部門の打ち合わせなんだけど……」
「競馬部門もひふみの一部です。経営担当としての職分の一部だと考えています」
「ことねさん、お気持ちはわかりますが、外部の方もいらしていますし……」
片瀬氏の声は、困惑を穏やかさで包んでいる状態である。揉めるのはかまわないが、長くなっても困る。俺は口を開いた。
「ことねさん? はじめまして、時雨里智樹と申します。ひふみの中で方向性が分かれてるとは聞いていたけど、お姉さんは競馬関連の事業を無くした方がいいというご意見なの?」
「三浦琴音と申します。……競馬部門は、赤字でこそないものの、資金効率が低すぎるの。その分の人員や予算を成長分野に振り向けるべき。しかも、上場を見据えるとなると」
最後の文言に応じて、遥歌さんが居心地悪げに身じろぎをした。そういうことか。
「でも、創業からしばらくは、一口馬主の配当金がなければ回らなかったじゃないの」
やや憤然とした美冬の言葉に、身体を正対させて琴音嬢が応じる。このあたりは好感が持てる。
「初期の資金繰りに寄与したことも、過去の黒字幅も評価しています。それでも、企業経営は未来を見据えて考えるべきです」
なんだか、上田競馬がらみでそんな話を聞いた気もする。まあ、考え方はわからなくもないので、俺は質問を返した。
「効率だけが理由じゃなさそうですね。それなら、どこかの会社に事業売却でもしますか」
「智樹くん、ちょっと来て」
俺は、ひふみ企画の女社長に部屋の隅に連れていかれた。後年で言う壁ドンの態勢だが、もちろんこの時代にそんな概念は未だ存在しない。
ささやき声で、問詰が行われた。
「なんでそんなに他人事なのよ。そもそも、あなたの興した会社なのよ」
「いや、どこからどう見ても、暮空姉妹の会社のはず。資本もそうだし、経営的な面からも」
「こうなるのがわかって、自分の存在を消していたの?」
「そこまで考えていたわけじゃないよ。そもそも、遥歌さんが内定取消を喰らって大変そうだったから、働き場所を用意しただけで」
「そう。この会社は智樹くんが作ったのよ。それなのに、あなたが当初思い描いていた方向から外れて、競馬事業を放棄するなんてできない」
「いやいや、一口馬主はあくまでも当座の運転資金稼ぎのつもりだったから、今の方向性は望んでいた通りで、むしろできすぎな感じだよ。上田競馬のコンサル方面だけは、綺麗に切り離してほしい、ってくらいが要望かなあ」
「競馬事業は存続させる。だから、後ろ向きなことは言わないで。いいわね」
「はい、ご下命のままに」
なにごともなかったかのように、打ち合わせは再開された。事業の方向性は、経営チームの内部で話すべき事項だと断じられた琴音さんは、不満そうに口を曲げていた。それでも綺麗さは崩れないのだから、相当なものなのだろう。
競馬部門のトップが、美冬と俺に身体を向けて問い掛けを投げてくる。
「ご意見を伺いたいのは、上田競馬場を筆頭にする地方競馬へのテコ入れ策です。ご承知のように、どこも予算は限られています。収益は見込めないのですが……」
ふん、と琴音さんが鼻を鳴らすと、片瀬氏がびくっとした。仲良くやってほしいのだが。
「撤退の道も示しながら、というのは堅持したいところだね。その上で、お金のあまりかからない増収策を提案していく感じでどうかな」
「具体的には?」
「高崎、宇都宮のサイトは見させてもらったけど、あれは運用も受注してるって認識でいいのかな?」
「そうなります。話のあった、広告の掲載についてもこちらで。ただ、運用費は微々たるもので……」
「まあ、そうだよね。広告は、お互いの競馬場の開催日案内とかを載せるのはよいかな?」
「問題ないでしょう。ただ、素材を用意しなくては」
「ま、そこはがんばって。……あとは、南関の開催日程と電話投票募集広告、一口馬主クラブ、競馬メディアかなあ。中央競馬のイメージ広告や、ネット投票会員の募集に、ネット投票対応のネットバンクなんかも。それと、近場の競輪、競艇も引き込みたいね」
「前橋競輪と、桐生競艇。それに伊勢崎オートですか……」
「そのあたりのサイトの受注を目指すかどうかは、好きに考えてもらって。それらの広告は、ひふみで手掛けてないの?」
「幾つかは、扱いがあるわ」
検索サイトを中心とするゴーグルが、サイトの内容に沿った広告の自動掲載バナーを扱い出すのは、もう少し先のことである。ひふみのネット部隊でも、似た概念を手掛けようとしているようだが、個人サイト向けまでは難しそう、との話だった。そうであるなら、業種を絞るのはありかもしれない。
「まあ、そうは言っても、ページビューが少ないだろうからなあ。正直なところ、ショーケースにしかならない気はする。現状で稼げるのは……、なんだろ?」
「コンサルとはいっても、やはり予算が……」
「食い込んでおけば、いずれ儲かるようになったときには、リターンもあるとは思うけどね。ただ、本格的な回復までは十年、いや、十五年かかるかなあ」
「その間、現状の利益率では、社内にいる怖いお姉さんが許してくれなさそうなんですが」
喉を鳴らして威嚇する琴音さんに、片瀬氏が頭を抱えて見せる。意外と仲良しなのかもしれない。
「薄利でも人件費をまかなえているのなら、いいと思うけどね。お金があるのは、南関東と中央かなあ。それも含めて、公営競技系の新聞広告のデザインなんかも取れると、安定しそうだけど」
「地道にやっていくしかないですか……」
「競馬情報サイトもありだけど……、人手がかかるだろうから、なかなか難しいかな。テーマを絞れば、あるいは。騎手に絞ったサイトや情報誌なんてのもありかも」
「調教師ファン、とか?」
ぼそっと口を出したのは、琴音さんだった。
「それはさすがに……、ニーズがなくて、収益性が悪そうだけど」
そう返したのはひふみの女性社長だったが、俺は首を振った。
「いや、連載を取って、書籍化を視野に、みたいな感じならありかも。ネットの世界では、隙間を狙うのは普通にありだし。中央に限らず、地方の調教師とかも含めれば……」
発案者はそっぽを向いてしまったが、何人かでもコラムを書いてくれれば、積み上げて行く価値はあるかもしれない。
抜本的な対策は出なかったものの、継続的に細かな受注を取りつつ、南関東、中央競馬への浸透を図るという方針が確認された。
【平成十一年(1999年)三月】
「ザクくーん、じゃなかった。朱雀野せんせーい」
「ザクくんでいいって」
「じゃあ、ザク先生。開業おめでとうございます」
孝志郎と美冬と俺の三人で、調教師になったかつての朱雀野教諭の元を訪れている。
俺は進路相談を受けたために把握していたが、二人にとっては初耳状態だったようだ。
「まさか、先生が調教師志望だったとは。競馬の話をしてたら睨みつけられた、と思ってました」
「いや、どんな話をしているのか、興味があってな。誤解させたのなら、すまなかった」
「でも、先生を辞めて二年で開業なんて、急展開ですねえ」
美冬の言葉に、ザク先生が照れくさそうな笑みを浮かべた。
「師匠に、早い方がいいとせっつかれてね。馬も、何頭か回してもらっていて」
「爛柯牧場と付き合いのある馬主さんを紹介できるといいんですけど、上田競馬に縁のある人は少なくってですね」
「いやいや、そこは気を使わないでくれ。自分の腕で集めていくのが基本だからな」
そういう世界ではないと、ザク先生もわかっているはずだが、まあ、俺らはまだ一人前扱いされていないということか。
「で、騎手を育てる気はあるの?」
「いや……、現状ではとてもとても。去年は調教師補佐の免状もとったから、そちらの話はあるかもしれないけどな」
調教師補佐とは、中央での調教助手のような立場となる。
「厩舎を構えるよりは、手に職をつけていく感じは確かにありかもね。厩舎を持ってしまったら、競馬場と運命を共にするのが基本になるだろうし」
「ああ、上田を離れる可能性があるなら、それもありだろう。……彼女なんかは、いずれよそに向かうかもしれないな」
そう口にしながらザクくんが視線を向けたのは、ボーイッシュな面立ちの女性厩務員さんだった。二十歳そこそこ、といった年頃だろうか。
「人生いろいろですね」
「しがらみがなければ、振り出しの場所に捕らわれる必要はない。ただ、僕としては、こうして厩舎を持った以上は、微力ながら上田競馬を盛り上げていかないとな」
「がんばれー」
おどけながらも、上田競馬を存続させる理由がもう一つ増えたなと思うと、肩の荷がやや重くなった気がした。
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