【平成十年(1998年)夏】その2


【平成十年(1998年)夏】その2


「これが繁殖牝馬のファイルだな。一覧にするのは手間ばかりかかるから、こうして書き込んで管理している。で、産駒は別ファイルにして、って感じだな」


「カード式管理ってやつだね。これなら、すぐにパソコンでの管理に移行できそう。……血統理論は?」


「すまん、そこは雑だ。クロスくらいまでは見ているが、産駒傾向からの推測が主だな。まあ、肌感覚ってやつだ」


「うーん、理論も結局は経験則をまとめたものだから、それで回っているのなら問題ないんじゃないかな」


 実際には、同じ価格帯で上振れを出す可能性を高めるのには意味がありそうだが、現時点でそこまで踏み込むつもりは智樹にはなかった。


「あと、牧場が実は三場に分かれてるんだって?」


「ああ、元々は三人が持ち寄った感じなんでな。今回、そこも整理しようとしている。法人は新たに起こす形でよいんだよな」


「うーん、遥歌さんのひふみ企画がうまく回りだしているから、競馬部門を分割するって手もあるんだよね。そこに移譲するのも、あるいは親会社として使うのもありだし」


「まあ、そこはうまくやってくれ。で、配合方針だが……」


「馬主さんたちの反応はどうかな」


「年輩世代は、長距離への思い入れが強い場合が多くて、乗り気の人が何人かいる。中央の長距離重賞なら、フルゲートにならない場合がほとんどだからな。その夢を示して、まったく通用しなければ、上田競馬に、という建て付けは悪くない。……まあ、まずは自前で実例を示すべきだろうが」


「同じことを考える人が出てきたらあっさり破綻するけど……、そんな考えを起こせない程度に実績と血統を積み重ねたいな」


「だな。ソッカーボーイ、ウルトラクリーク産駒の牝馬を確保して、長距離実績を積み上げる。そこから、中央を主戦とする馬主さんを捕まえて、メグロマックイーンの種付けを目指す。そんな流れか」


「でもなあ……、一千万を超えるような価格帯だと、想定しているような、うまく行けば中央の長距離に顔を出し、厳しければ上田競馬で長距離戦線をにぎやかす、といった方向性とは外れちゃうなあ。マックイーンがここまで人気とは誤算だった」


 メグロマックイーンは、最終的には有望な産駒を残せず、いわゆるステマ配合で母父として評価が高まる流れとなっていた。智樹としては、種牡馬としてはあまり評価されなかったものと考えていたのだが、現状は大人気である。


「いや、どうやっても大柄な産駒が出づらいらしくて、少し人気が落ちてきている。よほどの活躍馬が出なければ、やがて下がってくるだろう」


 この頃は、大きな馬がもてはやされる傾向にあり、大柄なマックイーンから大柄な産駒があまり生まれず、生産者側が苦労している状態だった。そして、智樹の記憶の中では、今年のクイーンカップを制したエイセイクイン以降、目立った活躍馬が出ることはない。


 その点、ソッカーボーイ、ウルトラクリークは、シンジケートこそ存続中だが、そこまでの人気ではなく、特に後者は値崩れが起こっている状態で、手を出しやすい状態だった。


「後は、長距離の産駒を安定して出す牝馬が売りに出ていれば、入手するのもありかも」


「それは確かに。……ただ、現時点では、スピード系を目指す従来方針との二本立てとなっている。この春は、ソッカーボーイとリアルフダイ、ウルトラクリークを一頭ずつだな」


「牝馬が生まれてくれるといいな」


「牡馬で菊花賞から天皇賞を目指そう、とは思えんのか」


「その路線なら、牝馬でも進めるし。ただ、ソッカーボーイは後継種牡馬に困ってないけど、ウルトラクリーク産駒、リアルフダイ産駒からは、走る小柄な牡馬を一頭確保しておきたいってのはあるね」


「種牡馬まで手を出すつもりか」


「そりゃあ……、長距離志向の馬産ってのは、そういうことでしょ?」


 そこで、爛柯牧場の番頭役が問いを挟んだ。


「ちょっと待ってください。小柄な牡馬がいいとはどういうことでしょう」


「えっと、長距離は小柄で低燃費な馬が向く……んじゃなかった? マラソンランナーがたいてい小柄なのは、そういう話なのかと思っていたんだけど」


「メグロマックイーンは500キロ近くあったじゃないか」


「大柄な馬に長距離は無理、と言っているわけじゃないよ。でも、マックイーンはどちらかというと、長距離もこなせる中距離馬なんじゃないのかな。長距離特化は、むしろフラワーシャワーでしょ。無事だったら、リアルフダイの代表産駒として一番の種付け候補だったのに」


「確かにな。……リアルフダイは、譜代ファームの窓口には、先代の意向でいい馬にだけだとかごねられたんだが、テル坊に香典を先払いでよこせと言って、無理やり種付けしてきた」


「それはまた……。ソッカーボーイ、ウルトラクリーク、リアルフダイの牝馬にメグロマックイーンなんかをつけられるといいね」


「夢は広がるな。……それで、この夏は、いつまでいられるんだ?」


「美冬、どうかな?」


「八月の末までは」


「ああ、内地は夏休みが長いんだったか」


 爛柯牧場の場長が得心顔となったが、孫娘は首を振った。


「ううん、長野は八月の中旬まで。でも、トッキー先生に話は通してあるから」


 トッキー先生とは、美冬と智樹の担任を務める女性教諭、土岐つばさのことである。聞かされていなかった智樹は、彼女が承諾しているのなら問題ないだろうと思いつつ、美冬が家族の了承を得ているのかどうかがやや心配になった。


 母親に電話をしておこうと胸中でメモを取り終えたところで、彼は高い夏空を見上げた。緩やかな風が、牧場の樹々を揺らしながら通り抜けていた。




 平成の怪物こと松坂大輔投手が、甲子園の決勝でノーヒットノーランを達成するという離れ業を演じる様子がラジオで流れる中、馬産地巡りは続いていた。


 継承が本決まりとなれば、定住することになる土地なわけで、美冬はしっかりと視線を送っている。対して、智樹にはどこか物見遊山的な雰囲気があった。


 元手が家賃と人件費程度の競馬関係コンサルとサイト制作、ネット広告といった事業とは違って、生産牧場は運転資金だけでも多額に上る。ただ、地方競馬の復活の道筋を前世で体験している智樹に、極端な悲壮感はない。それがまた、若番頭たる西秋隆を苛立たせるのだった。


 2000年を少し過ぎた頃から、地方競馬の廃止ラッシュが広がる。2005年頃からのネット投票の加速化は、その救済の意味もあったのかもしれない。


 競馬に限らず、この頃は公営競技全般が受難の時代となっている。令和に入る頃には大盛況となる競艇だけでなく、競輪、オートレースも息を吹き返すのが智樹の前世での記憶の中にある風景だった。


 ネット投票の波に乗れた競馬場もあれば、そこまでではないところもあるが、一連の廃止以降は平成のうちには廃止に追い込まれるところは出ていなかった。淘汰された中には、ネット投票がより早期に普及してもなお倒れるしかなかったところもあると思われる。実際、ネット投票に対応したトータリゼーターの導入が困難だろう地方競馬場も見受けられた。


 一方で、ネット投票時代まで存続すれば、むしろ好転していただろうと思われるのは、上田競馬場の近隣では、立地の良い高崎競馬場あたりだろうか。


 高崎競馬場と上田競馬場が生き残れば、南関東の軍門に降って、無理やり気味ながら首都圏競馬という形に持ち込むことも、智樹の想定にはあった。そこまでいかなくても、高崎に年に数回でも長距離競走を組んでもらえれば、だいぶ話は変わってくる。


 いずれにしても、智樹は負ける勝負をしているつもりはなかった。


 対して、不況の影響をひしひしと感じている若番頭の西秋隆は、遥歌と同年代なだけに、大学に進学した友人たちが社会に出る頃の阿鼻叫喚ぶりを肌身で感じている。彼の皮膚感覚からすると、長距離路線シフトは迂遠に過ぎて、知恵を絞って手頃な価格帯の種牡馬で走る馬を作り、それで得た資金で高額種牡馬をつけていくのが唯一の解決策に思えていた。


 ともあれ、馬産の全体は任されているため、ことさらに異を唱える状況にはない。継承の話は、総てが固まってから公開される想定で動いており、招かれた二人はアドバイザー的な存在だと捉えられていた。



◆◆◆◆◆



「智樹くーん」


 牧場を散歩していると、朗らかな声が耳朶に届いた。手を振りながら駆けてくるのは、暮空姉妹の年長者の方だった。


「遥歌さん。上田で過ごしてるんじゃなかったんですか」


「夏休みが終わるってことにして、来ちゃった」


 来ちゃったじゃないだろ、とは思ったものの、おそらく暮空母の心境が安定したとの認識に至ったのだろう。


「で、話はどうなった?」


「美冬が継承するという話で一件落着しそうです。親御さんの了解をもらってからになるとのことですが」


「智樹くんは?」


「アドバイザー的な立場を確保しました。あ、それって、ひふみ企画の仕事にした方がいいかな?」


「それだけっ?」


「え、はい。定期的に訪問する感じになるのかな、と。遥歌さんも都合がつけば一緒に。後は、競馬コンサル系の要員も」


 ひふみ企画は順調に成長していて、特にネット広告系とサイト制作方面の人員が増えてきているそうだ。競馬コンサル役には人柄の良い競馬好きを配置していて、電話で話した範囲では俺を中学生だからとバカにすることもない、柔らかな印象だった。


「なんでそうなっちゃうのかな……。まあ、巻き返しようはあるか」


 なにやらぶつぶつ言っているが、やがて気を取り直したようだ。


「それで、いい馬はいた? この機会に馬主になっちゃいなよ」


「資格要件に達してないって」


「うちから成果見合いの報酬を支払えばすぐだけど。……ホントは駄目なんだけど、おじいちゃんに名義貸ししてもらえば」


「新田さんにバレたら、色々まずいし。そもそも相馬眼には自信がないんだ」


「はー? あれだけいろいろズバズバ的中させておいて、なに言ってんのよ」


「いや、ほんとに」


 それは正直なところである。まあ、前世知識でGⅠ馬を入手することもできるのだが、それで運命を変えるのも怖いしな。


「でも、所有したくなったときのために、共同馬主はやっておかない? わたしも、会社で保有する場合を考えて、資格を取る準備をしておこうかと。まずは地方からになるかもしれないけど」


 個人での馬主資格を獲得するためには、中央で年間二千万程度、地方で五百万程度の恒産が必要となるらしい。それくらいは確保する目処がついたということか。結構な話である。


 共同馬主とは、馬主資格を持った幾人かが馬を共同で保有することで、一般人がクラブ馬主の募集に応じて出資する一口馬主とは異なる概念となる。つまり、その気になれば一頭丸ごと所有できる馬主資格を取ることになるわけで、中学生の俺には過ぎた話である。丁重に断ると、いつでも代わりに所有するからと返された。名義貸し、だめ、絶対。


「一口馬主は、おすすめはいないの?」


「いないわけじゃないけど、ネット広告が順調なら、一口馬主レベルの収入は誤差のようなもんじゃない?」


「その傾向はあるのよね。……スタッフの中には、競馬方面は切り離すべきだとの声もあってね。でも、キャッシュがあれば、できることも広がるから」


「まあ、それはそうかもしれないけど、走る馬でもデビューまでは持ち出しだからなあ。……その、競馬事業反対派のスタッフの人は、なんて?」


「事業の方向性が違うから、相乗効果が低いんじゃないかって」


「一口馬主サイトも含めて、競馬関連はもう余技みたいなもんだろうしねえ」


「そうね、広告収入があるわけじゃないし。ただ、競馬場関連の仕事もあるから」


「まあ、そのあたりも相談していこうよ」


 話し込んでいると、通りかかったのは若番頭だった。遥歌さんの顔を見て、カクンと顎を落とす。ぎくしゃくと立ち止まると、声をかけてきた。


「智樹くん、その方はどなたかな?」


 普段のつっけんどんな印象は影を潜め、猫撫で声に近い響きがある。おそらく、そういうことなのだろう。


「こちらは暮空遥歌さん。美冬のお姉さんで、天元のじっちゃんのお孫さん」


「遥歌ですー。牧場の方ですか?」


 営業モードに切り替わったからには、邪魔をするのはよくないだろう。俺は手振りで屋内に入っているからと伝えて、その場を離れたのだった。


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