【平成十年(1998年)夏】その1
【平成十年(1998年)夏】その1
サッカーのワールドカップは、三戦全敗に終わった。前世では残念に思った記憶があるが、二度目となると第一歩を刻んだとの感慨の方が深い。対して、阪神は見事な低迷ぶりである。
さて、美冬が北海道に渡るのには、彼女の母親の強い反対をクリアする必要があった。
自分が捨ててきた故郷に、そこを訪れたことのない娘を向かわせるのを嫌がるのは、むしろ自然とも言える。美冬は東京で生まれ、小学校に上る前に上田に越してきた状態だった。
お盆休みとの名目で同時期に遥歌が上田に帰省することになって、どうにか収まったのだが、今後の関係性に不安を残す形となった。
母親の承諾を得られたのには、隣家の少年という位置づけである時雨里智樹が同行するのも理由の一つだったろう。そして、今回の爛柯牧場からの招待にあたっては、この二人のどちらが欠けるわけにもいかなかった。
お盆の途中での移動となり、それだけに航空機の混雑ぶりはさほどでもなかった。初めて飛行機に乗る美冬が心細くなる場面はあったが、智樹のまったく気にしていない様子への対抗心から、不安を押し潰すことに成功していた。
指定された出入り口へと向かうと、老齢の牧場長の朗らかな声が響いた。
「よぉ、二人とも。北海道へようこそ。サーチングザパールはすごかったなあ。タイジュシャトルも続けるかな?」
「外国産馬とはいえ、やっぱり盛り上がるよね。今晩のレースでの人気ぶりはどうかな」
「圧倒的一番人気みたいだし、きっと勝ってくれるよ」
美冬の声は華やいでいる。一方で、出迎える彼女の祖父に同行している人物は、むすっとした表情で三人の会話を聞き流していた。
「こいつが、番頭役の二代目だ」
「世襲職なの?」
美冬の疑問は、ある意味で自然なものだったろう。対して、当人の反応はややきついものとなった。
「そんなわけあるか。実力で勝ち取った立場だ」
敵意を向けられて、やや竦んだ美冬の前に身体を入れながら、智樹が応じる。
「うん、結果が総てだね」
「足りてないとでも言うつもりか?」
「いや、足りるもなにも……」
来客の少年の言葉を遮ったのは、天元護久だった。
「まあ、待て。結果も未来も、まずは牧場に入ってからにしよう。ジャック・ル・マロワ賞は夜半だ。二人は仮眠してからの方がいいだろうしな」
タイジュシャトルは、先日の安田記念を制覇した後に、フランスに渡っている。この前週には海外GIであるモーリス・ド・ギース賞をサーチングザパールが日本調教馬として初めて制覇していて、二週連続の快挙が期待されていた。
車が回されて、四人は車中の人となった。広やかな風景は、深冬の心を躍らせていた。
「それにしても、春天もそうだったが、キヌノジャスティスは宝塚も残念だったな。ステディゴールドは天晴だったが」
この年の宝塚記念は、サイレントスズカが逃げ切っている。キヌノジャスティスは六着と敗退となった。
「ねー。それに、キヌノジャスティスとステディゴールドが同じレースに出るのは、なんだか微妙な感じだったな」
「ワンツーだったら、また話も違ったんだろうけどね」
前年暮れのグランプリ覇者として古馬中長距離のGI戦線に挑んだキヌノジャスティスだったが、春シーズンは未勝利に終わっている。対してステディゴールドは、春の天皇賞と宝塚記念で2着に入り、トップホース手前のところまで到達していた。
善戦マンとして人気となる未来を知る智樹としては、後に主戦となる多岐勇輝騎手がこの頃から乗っていたら、と思わないでもなかったが、その仮定が無意味であるとも理解していた。
と、運転席の人物が硬い声を発した。
「その三頭の目利きは認める。だが、それと馬産とは違う」
「うん、それはその通り。馬産は詳細がまったく把握できてないしね」
正直な智樹の反応に、ハンドルを握る若番頭こと西秋隆(にしあきたかし)は鼻を鳴らしたのだった。
牧場を一巡りした二人の中学生は、場長である天元護久と相棒的存在の若くない方の番頭、西秋健司と対面していた。
「さて……、来てもらったのは、他でもない。我が爛柯牧場を移譲する件だ」
「あの若番頭にですか?」
「いや、美冬にだ」
目を丸くしている少女に対して、隣に座る智樹は問いを重ねた。
「遥歌さんと二人にではなく、単独で?」
「そうだ。……娘の前で父親についての悪情報を出すのはなんだが、遥歌を絡ませると、うまく回りだした局面であやつが関わってきかねない」
「それは確かに……」
智樹はそう口にして、少しの間だけ目を閉じた。
「それで、美冬はどうしたいんだ?」
問われた少女は、同級生に困惑気味の視線を返した。
「馬は好きだし、ロマンは感じるけど、できるかどうか……」
提案主が、断言を返した。
「やる気があれば、それで充分だ」
「やりがいがある仕事だと思う。応援するよ」
智樹からそう重ねられて、少しむくれたような表情の孫娘に、爛柯牧場の長が愛おしさの籠もった目線を向けた。そして、また口を開く。
「少年……、いや、智樹よ。お前の知見を、この牧場のために使ってはくれぬか」
「もちろん、アドバイスはするよ」
「もう少し深く」
「番頭的に? でも、若番頭がいるんでしょうに。それに、血統的知識も配合理論も牧場実務も縁遠い分野だし」
「検討はしてみてくれるか」
「それはもちろん。助力は惜しまないつもりだよ」
「ふむ……」
思惑とずれたなと言いたげに、牧場の長が天井を見上げた。
爛柯牧場の番頭役である西秋健司は、古馴染みの盟友と対座していた。
「あの少年をどう見た」
「落ち着きぶりがすごいですな。同じだけの思慮深さが息子にあったら、話は変わっていたでしょう」
「隆は、あれはあれでいいところがある。……ただ、法人化したとしても、舵取りとなるとな」
「はい。……美冬さんを後継者に据えれば、智樹くんも自然とついてくるとの想定は外れましたな」
「ああ。あれは、少年の方もそうだが、美冬の方も自分の心情に気づいていないんじゃないか」
「そうなると、少し手数が必要となりそうですな」
「ああ。まあ、盤面を読んで進めるのはいつものことだ。投了寸前から押し返そうとするからには、焦りは禁物だ」
「はい」
番頭格は、茶を入れ直すために立ち上がった。長年携わってきた事業の総仕上げにかかっている年長の同志に向ける視線には、労りの色合いが濃く含まれた。
「たださあ……、牧場を継ぐとなれば、北海道に住むことになるけど、いいのかい?」
「東京から長野に引っ越したときは、嫌でしょうがなかった。今では多少の愛着は湧いたけど、生涯をあそこで過ごすつもりもなかったから」
「そうなのか。……まあ、中学生の段階でやりたいことが見つかるのは、いいことだよな」
智樹が言い聞かせるような口調になっているのは、前世での自分に思いを馳せているためだった。
「あんたは……、智樹はなにをやりたいのよ」
「俺か……。俺は、たぶん、そう長くは生きられないんだ。だから、ちょっと小金と信用を貯めて、美冬の知らない係累のために遺すことしか考えていない」
「はぁ? そんな強い体を持っていて、何を言ってるのよ。長生きできないのは、わたしの方だわ」
「いや、だいぶ健康になってきたんじゃないか」
「足腰の話はしてない」
呼吸器系の弱さの方が、彼女の生きづらさへの影響度は大きい。
「まあ、俺の話はいいよ。牧場を法人化して引き継ぐとしたら、社長になるわけだけど……」
「ひふみ企画で引き継ぐんじゃないの?」
「遥歌さんと二人でという話なら、それもありなんだけど、美冬単独だとな……。ただ、上位会社を作る形はありか」
ぶつぶつと検討を始めた同い年の少年に一瞥をぶつけて、美冬は手洗いに立った。こうなると長くなるのは、いつものことである。
牧場の話は検討すべきだけれど、今日のところはタイジュシャトルの応援に集中したいというのが美冬の本音だった。
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