【平成十六年(2004年)晩秋~冬】


【平成十六年(2004年)晩秋】


 秋の終わりが近づいてきている。上田競馬では、タンホイザーゲートが嵐山先輩を背にデビュー戦での勝利を果たした後、連勝を続けている。ザクくん曰く、どんな距離でも調教程度の走りで大楽勝状態だそうなので、だいぶ力量差はあるのだろう。


 エスファの相馬眼によれば、中央でもオープン級の実力があるとのことで、二歳の早い時期なら中央でも重賞制覇の可能性はあったかもしれない。ただ、そこから地方に転出となると、通用しなかった早熟馬的な印象がついてしまうため、上田競馬からのスタートとしている。


 父系としてのノーザントーストの血を残す意味合いがあるので、勝利数を積み重ね、できれば連勝記録を伸ばして、話題づくりをしていきたいところだった。


 エスファは世界各地を飛び回っていたのだが、この夏から爛柯牧場に滞在する時間が長くなっていた。若駒の乗り運動を見物していたところ、参加したくなったらしく、体力づくりと称して頻繁に通うになっていた。


 騎乗技術は確かで、馬への当たりも柔らかなので、もちろん大歓迎である。ついでに俺への当たりも柔らかにしてほしいものだが、冗談を言い合える相手は貴重でもあった。




 そして、美冬と俺は美浦トレセンを訪れていた。これまで爛柯牧場の馬を預託してきた調教師さんが、体調面の不安から勇退するとのことで、そちらへのあいさつと、紹介してくれた若手調教師との顔合わせとなる。


 これまでの先生へのあいさつは無事に済んだのだが、新たな調教師さんとは初手からややこしい依頼の形となる。


 面談室に現れたのは、ザクくんこと上田競馬の朱雀野調教師と同年代の、やや神経質そうにも映る男性だった。開業してそれほど時間が経っていないところも共通している。


 この人物は、前世の記憶によれば、知性派調教師として平成の終盤には頭角を現してきていたが、当初は苦労したはずだ。


 あいさつの言葉を交わした後で、俺はステディゴールド産駒の一歳馬二頭の預託を打診した。


「ただ、この両頭は、二歳戦までで……、最も遅いケースでも三歳の二月くらいまでには引退させたいと考えています」


「引退させて、どうするのかな」


「繁殖牝馬に回します」


 美冬が視線を送ってきている。意図は説明したし、いつもの俺の感覚から導いた結論だと捉えていても、なおも得心がいっていないのだろう。となれば、初耳状態の相手に与える印象はだいぶ悪いと思われた。


「競走馬の能力曲線の話は、ここでするまでもないでしょうね。馬を大事にする天元さんの考えとはかけ離れているようにも思えますが、どういう意図があるのかを聞かせてもらえますか」


 冷静な口調で威圧的なわけでもないのに、やたらと迫力を感じるのは、こちらの後ろ暗さのある心持ちの影響だろうか。


「この世代は、ステディゴールドの初年度産駒となります。ステディゴールド牝馬に、メグロマックイーンを種付けしてみたいのです。その機会は、限られているように思えます」


「特に配合的に目立った特徴はなさそうだし、それはせめて三歳シーズンを終えてからでもよいのでは?」


「それでは間に合わないような気がするのです」


「気がする……ですか」


 仁科調教師が、腕を組む。理性的な人物には、響きづらい言い回しだったかもしれない。


 そこで、俺の隣に座る、爛柯牧場のオーナーが口を開いた。


「智樹は稀に言うのです。なにかが耳元でささやくのだと」


「オカルトですか」


 眉間にしわが寄っている。ただ、ここで引いても意味がない。


「確実ではありませんが、試してみたいのです」


 ふっと息をついて、若き調教師が問いを投げてきた。


「天元さんなら、なんと言うでしょう」


 穏やかな口調だが、その言葉は俺の胸に突き刺さった。


「馬を大事にされていました。三歳の早々に引退させるなんて、無茶をするなと言われそうです」


 そこで、美冬が声のトーンを上げた。


「いいえ、祖父ならば、天元護久ならば、この若者が無茶をしようとするからには、理由があると考えるでしょう。そして、展開されるだろう馬作りをとても楽しみにしていました。ニヤリと笑って、やってみろと言ったと思います」


「……その配合で、何を目指すのでしょうか」


「日本で引き継がれてきたステイヤーの血は、絶やすには惜しいと考えます。メグロマックイーン自身は、純粋なステイヤーとは言えないとしても、昨今の主流の種牡馬に比べれば」


「主流の種牡馬とは、違う流れを作りたいということですか?」


「ええ。昨今のスタンダードとなっている、人気の種牡馬と良質な肌馬をかけ合わせて、強い馬を作る方向性を否定する気はありません。けれど、弱小であるぼくらは、長距離戦線、ダート戦線を狙って馬づくりをしています。同時に、埋もれるには惜しい血統を残して、将来の血の飽和に備えたいという気持ちもあります」


「そこは、諸外国との交流で、解消できるんじゃないのかな」


「そうかもしれません。けれど、かつて国内を席巻した種牡馬の血脈をあっさりと絶やすようなことを繰り返していたら……。まあ、ヨーロッパと北米以外の、中国やインド、オセアニアや南米で多様な血統が生まれているかもしれませんが」


「日本でも残すべきだと考えているわけですか。……それで、マチカゼタンホイザ産駒なのですね。タンホイザーゲートだったかな」


「ご存知でしたか。ノーザントーストは、ノーザンダンサーの支流の一系統だと考えれば、ありふれた存在かもしれません。けれど、日本を席巻した馬の系統を絶やすのは……。もちろん、母系には脈々と流れてはいても、いつか父系として求められる日が来るのではないかと」


「地方で……、上田競馬で大事に使っているようですね」


「はい。過保護なくらいに」


「中央入りさせる気はあるのですか? よければ、預かりましょうか」


「通用するでしょうか」


「ダメだと思えば、高崎に戻すなり、別の地方に移籍させればいいわけでしょう? 地方を含めて勝ち目のある重賞をじっくり探して、箔をつけられれば」


「けれど、開業したてで馬房が貴重なはずなのでは」


「そうですね。……少し、身の上話を聞いてもらえますか」


 コーヒーをぐびりと飲んだ仁科師は、少々の躊躇を押しのけるように話し始めた。


「私の父親は既に廃止された地方競馬の厩務員でした。母子家庭で貧しかったのを、天元さんに援助してもらって、厩務員になることができたそうです。あまりにも喜んでくれたから、ぽろっと言ってしまったらしいのですよ。いつか、調教師になりたいと」


 ふっと息を漏らして、虚空が見据えられた。


「天元さんは、いつでも援助するぞと言ってくれたそうです。父は、爛柯牧場の馬を預かって恩返ししたいと、仕事の傍ら調教師を目指しました。ただ、元々持病がありましてね。無理がたたって、体を壊して急死してしまったのです」


 小さく息を吐いて、話は続けられた。


「天元さんは葬儀に飛んできて、涙ながらに謝っていましたよ。自分が殺したんだと。夢を語らせて、それに賛意を示すことで無理をさせて、妻と息子から大切な存在を奪ったんだと。……ぼくの学費を出させてほしいと言い募って、母さんに断られていたな。夫は夢に殉じたのだと。幸せだったのだと。だから、お詫びの意味がこもったお金は絶対に受け取れないと。……そうして、天元さんの馬を、爛柯牧場の生産馬を預かることは、ぼくの夢のひとつになった。夢の全てではないですが」


 俺が沈黙を破る言葉を紡ぎ出せたのは、数分の後のことだった。


「GⅠを狙える馬ができたら、ぜひお願いします」


 あっさりと若手調教師は首を振った。


「そんな馬は、どこの厩舎だって預かってくれます。他の有力調教師と関係を深めるのに使うのがよいでしょう。今回のステディゴールド牝馬や、マチカゼタンホイザの子のような訳ありの馬だけで構いません」


「じゃあ……」


「聞きたいことは聞かせてもらいました。どんな馬でも、馬房に空きのある限り引き受けましょう」


 その断言は、ここにいない誰かに伝えるかのように重みのある響きだった。




 トレセンの建物を出たところで、俺は秋空を見上げていた。


「ぼくらがやろうとしているのは、天元のじっちゃんが成し遂げつつあったことを、少しだけ進めていくことなんだな」


「ええ。……不満?」


「いや、こんなに光栄なことはないさ」


 俺の言葉は、本心からのものだった。



【平成十六年(2004年)年末】


 かつて日本の競馬界を席巻したノーザントーストが落命したのは、12月上旬のことだった。そして、八日後にディープインパクツがデビュー戦を迎える。


 世を去りし者がいれば、旅路に踏み出そうとする者もいる。間にサンデーサイレントを挟んでいても、何やら運命的なものを感じてしまう。


 ディープインパクツは、前世での記憶通りの成績を残していくのだろうか。競馬界に限っても、ある程度のバタフライ効果は生じているはずだが、どうなるのだろう。


 そんなことを考えながら牧場作業に精を出していると、近づいてくる人影があった。


「来ちゃった」


 来ちゃったじゃねーだろと思いながらも、手を止めて向き直る。


「上場会社の社長様が、いきなり牧場に登場とは、いったいどうなさいました?」


「解任されちゃった」


「なんですとぉー? 筆頭株主じゃなかったっけ」


 思わず前世での姉の口癖的な驚き方をしてしまった。遥歌さんは、ちょっと困ったような表情を浮かべた。


「もう違うと思う。会社に全株を売却する手続きを取ってきたから」


「それはまた……、大金持ちだね」


「でも、その後にリビングドアとの連携強化を発表するから、安いうちに入手できたと父さんは笑ってそう」


「まあ、リビングドアがいつまでも我が世の春を謳歌できるはずもなし」


「そういうものかな。……ごめんね、ひふみは、本当は智樹くんの会社。私は預かっていただけ。それなのに……」


 声を落とされると、元気のなさが際立ってしまう。


「いや、俺の関わりは小さかったって。ひふみ企画は残っているし、上場がらみの株式売却は、資金繰り的にとっても助かったし」


 実際問題、金利の高い借金はほぼ返し終えている。大ケガをしない経営を進めていけば、破綻は免れそうだ。そう思いたい。


 正直なところ、遥歌さんのこれまでの行動に対して、思うところがないわけではない。俺に対してはともかく、美冬に対して不誠実な振る舞いは許容域を大幅に越えていた。


 けれど……、唇を噛んでいる様子に重なったのは、前世で遊びに来た姪っ子がはしゃいで、俺の大事にしていた馬の置物を壊してしまった際の、凹んでいる姿だった。


 俺は殊更に明るい声音で問い掛ける。


「……で、今回はゆっくりできるの?」


 姉貴分であり、妹のような存在にも映る人物の表情がぱっと明るくなった。


「うん。仕事は無くなったし、母さんは父さんの帰りが遅いと言いながらも楽しそうだから、邪魔するのもなんだしね」


「なら、のんびり過ごしてよ。別に、手伝ってくれてもいいけどさ」


「なんか手伝うことあるの?」


「うーん……、ないこともないけど」


「なによ、歯切れが悪いわね」


「ちょっと考えてることがあってね。組織作りが必要なんだけど、どこから手を付ければいいのか」


「なあに、トンネル会社とか、ダミー会社とか?」


 本気なのか、冗談なのか。金融錬金術の最先端企業と関わりを持ってきた人物だけに、怪しげな響きに聞こえてしまう。


「そういうんじゃなくってね。……天元のじっちゃんは、自分の財布で地域の苦学生や従業員の係累を支援したり、母子家庭に援助したり、色々とやってたらしいんだ。美冬が自腹でそれを受け継いじゃいそうで怖いので、それを目的にした財団とか作れないかなって」


「なにそれ、面白そう。くわしく聞かせなさい」


 事情聴取の末に、遥歌さんは売却益の全額提供だけでなく、財団立ち上げの陣頭指揮を請け負う旨を表明したのだった。まあ、気分転換になるのなら、いいのだけれど。


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