【平成八年(1996年)三月下旬】
【平成八年(1996年)三月下旬】
静かに話をしたいと、智樹は姉妹に初詣以来の山中の神社まで連れ出された。
「改めてありがとう。あの後、借金取りからの接触はないわ」
「でも、父親が不在だと不安そうだね」
「そうね、母さんが特に」
美冬が微妙な表情を浮かべているのを、姉がやや気遣わしげな視線で見つめていた。暮空家の末娘と両親の距離感は、やや危険域に近い状態となっていた。
「とりあえず、肩の荷が下りたわ。一時はどうなることかと思ったから。そして、父さんはどうしているのかな」
智樹は、ヤスさんこと高寺泰明あたりから顛末は聞いただろうかと考えていた。そうなれば、返済資金はどこから出たと思うか、とも。
智樹にとって、暮空父はあまり関わり合いになりたい人物ではない。早々に話の転換を図ることにした。
「それで、内定は復活したの?」
「ううん、駄目だった。借金が返済されても、反社会勢力との関係が問題なんだと言われてしまうと抗弁は難しいし、無理やり入ったところでね」
「じゃあ、今から仕事探し?」
「就職氷河期なのでねえ。就職浪人するなら、卒業しない手もあったんだけど、まあ、留年する資金があったわけでもないし」
自分の取り分を回そうか、と口にしようとした智樹だったが、さすがに受け取りを拒否されるだろうと思い直した。そして、前世の記憶を参照しながら思考を巡らせていく。
「うーん、どこまで介入していいのかな。事業は好きにしろって言ってたから、他者にやらせてもいいのかな。馬券での資金確保もやり過ぎないようにしたいし」
口中のつぶやきは、姉妹にはぶつぶつ言っているようにしか聞こえない。そして、美冬はいつものことだと目線を外しながらも、次の明確な言葉を待っている。そんな同い年の二人の様子は、遥歌には微笑ましかった。
「今は96年か。ということは、デビュー待ちは94年生まれ。サンデー産駒なら……、そうか!」
いきなり視線の焦点を合わせた智樹が、姉妹の年長者に向き直る。
「遥歌さんは、どんな就職をしたかったの?」
「大前提として、奨学金の返済もあるし、働かなきゃと思っていた。だから、安定していて興味があった広告業界に触れられるハウス代理店を志望したの」
「広告といっても、マスメディア向け広告が必須ではないってこと?」
「まあ、そうね。特に、こうなった以上は、選り好みをするつもりもないし」
「なら、会社を起こすってのはどうかな」
「起業ってこと? 大学の同期で検討していた人たちもいた。確か、資金が300万円いるはず」
「ここにあるじゃない」
智樹が自らの腹を叩く。
「それは、あなたのでしょ」
「この1000万を元手に会社を作って、オーナー社長として活動してみるのはどうかな、というのが提案になります」
「元手を出すなら、オーナーはあなたでしょうに」
「ぼくが株主になるとややこしくなっちゃうから。ただ、条件がいくつかあって、当初の資金の使い途は指定させてほしい。具体的には、一口馬主として何頭かに出資して欲しいんだ」
「それは……、でも、元が大穴馬券だった資金だし、いまさらか」
「パソコンは持ってる?」
「ええ、東京の拠点は引き払ったので、ここに」
「ネットには接続できる?」
「ダイヤル回線なら一応は」
「なら、それを見ながら話をしようか」
三人の密談は場所を移すことになった。
「検索は……、ヤッホーか! え、てゆーか、アメリカ版しかないの? そんな時代かあ」
ネットサーフィンと呼ばれる、主にリンクをたどる形でのホームページ閲覧が一般化するのは、もう少し先のこととなる。
「検索サイトがないこの時代、どうやって情報を集めてたんだろう。んー、たどっていくしかないのか。……これか。うわー、レトロ」
最先端のはずの動きのあるホームページは、智樹には博物館級の遺物として映っていた。
「競馬のページ……。えーと、タイジュとフダイとキヌノ……。そうか、タイジュシャトルもか。それにステディゴールド! うん、急げば行けそう」
智樹に逐一説明する気がないのは、姉妹にはもう把握されている。
「ステディゴールド、タイジュシャトル、キヌノジャスティス。合法的な錬金術としては、いい素材だな」
「考えはまとまった?」
「うん。当面はかつかつでも、少し経てば余裕が出てくるはず」
「お姉ちゃんの給料は出せるの?」
「とりあえず、新卒初任給くらいの額でのスタートでどうかな。もちろん、一口馬主での出資だけじゃなくて、広告関係も手掛けてもらって」
「でも、一人じゃできないでしょうに」
「インターネットのサイトを作ってみるかなあ。ヤッホーは登録型だから、業界ごとの主要な企業を網羅するような紹介サイトを作ってみるとか」
「リンク集ってやつ?」
「見せ方で紹介サイトにする感じかな。いずれゴーグルが出てくるまでに、老舗として一定の地位を築ければ、勝算は出てくる。ついでに、一口馬主の紹介サイトも作っておくといいかも」
「どうやって稼ぐの?」
「やがては、ネット広告が本格化する。サンデーサイレント並みに世界を変えることになる。それまでに地歩を固めておければ、大化けするかも」
「本当にそうなったらすごいけど」
「あとは、サイト制作の受託もできたらいいな。HTMLだよね。さすがに初期のものは簡単だと思うけど。デザインを頼めそうな人はいるかな?」
「一個上で、就職浪人してにっちもさっちも行かなくなった先輩が、いるにはいるけど。その人も競馬好きで」
「なら、ぜひ誘ってもらって。自社のサイト作りをショーケースに、受注を取っていって、いずれ取引先サイトへの広告掲載を仲介したいな。大手代理店に入った先輩とかいたら、ぜひ仲良くしておいてもらって」
「まあ、救われた人生だから、やってみるわ。ただ、一人で出資するというのは、ちょっとねえ。……智樹くん、頼めない?」
「いや、やめておくよ」
「じゃあ、お母さん?」
そこで反応したのは美冬だった。
「でも、お母さんはお父さんに甘いから」
妹の言葉に、遥歌の表情が曇る。そして、思い直したように視線を合わせた。
「じゃあ、美冬。お願いできないかな」
「子どものわたしが?」
懐疑的な口調の少女の隣で、彼女の同級生がぽんと手を打った。
「いいかもね。出資に年齢は関係ないはず。どこから出てきた資金か、というのはあるけど、そこを調べる人はいないだろうし」
「会社名は、暮空姉妹社?」
「いやいや、もうちょっと堅いのにしようよ」
「まあ、そこは好きに決めてもらって。初手の方向性は、そんな感じでいいのかな。あとは、余力があったらネット広告を扱うところと、取り引きするなり潜り込むなりして、顔を売ってもらえると」
「うーん、やっちゃおうか。美冬も手伝ってくれる?」
「うん、もちろん」
姉妹がはしゃぐ様子を眺めながら、智樹の口中でつぶやきが生じていた。
「異変がないってことは、ここまでならだいじょうぶなのかな? それとも、何かあるのなら成功してからなのか……」
ひとまずは、智樹が天に召される気配は見られなかった。
一口馬主としての投資は、多少の交渉を経て下記の通りの確保となった。
タイジュシャトル、100口50万円のうちの2口確保 1/50
ステディゴールド、40口95万円の1口を確保 1/40
キヌノジャスティス、500口6万円の10口を確保 1/50
約300万円で、当面の経費は年あたり200万円程度となる。智樹の計算では、ごく早いうちにプラス収益となるはずだった。
一方で誤算だったのは、起業の要件緩和前で、資本金だけでなく取締役三人と監査役の選任が必要な点だった。各方面との交渉の末に、いろは競馬のヤスさんとその人脈から名義を借りる展開になった。
関わりのできたいろは競馬からの連想もあってか、新会社の名称はひふみ企画に落ち着いた。
振り出しは、上田市内の小さな貸事務所で、ということになった。
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