【平成八年(1996年)三月中旬】


【平成八年(1996年)三月中旬】



 借金取りとの交渉は、駐在さんと俺も同席した状態で行われた。


 遥歌さんを風俗に沈める気だったらしい交渉相手はやや渋ったが、追加で二百万円との条件で話はついた。そこまでで、暮空家への分け前は使いきった形となる。


 念のため録画もしておいたけれど、警官同席の威力に期待するとしよう。


 暮空家では、今回のできごとを消化するのに時間を要しているようだ。母親は、娘たちが自力で解決したことで、夫が戻りづらくなるのではないかと心配しているらしい。どちらかと言えば、見捨てられた状態にも思えるのだが……。これが夫婦の絆というものなのか。


 いずれにしても、しばらく様子を見るべきなのだろう。そう考えた俺は、一仕事終えた満足感を胸に時を過ごしていた。


 それが油断だったわけではないだろうが、次の日曜日の午前、逃げ場のない小道で、俺は車に急接近された。前世のトラックに跳ねられたときの記憶がぶり返しそうになったが、直前で見覚えのある車体が静止した。


「乗ってもらおうか」


「はい、わかりました」


 本当なら、降りてきた人物の向こう脛を蹴り飛ばして逃げ出したいところだったが、美冬はともかく遥歌さんは、俺よりも父親の言葉を信頼するだろう。それに、油断のない身のこなしをしていて、首筋を警戒心が駆け巡ってもいた。


「素直なことだ」


 嘲り混じりの失笑を漏らされても、俺は口角を上げ続けていた。


 競馬の配当金の残りを奪おうとしているのだろうか。それなら、話はむしろ簡単である。はした金だなどと言うつもりはないが、取り返しようがある状態で、こだわっても仕方がない。


 それにしても、借金取りから逃れて連絡もとれないとの話だったのに……。接触したのは、美冬ではないはずだ。夫との接触を乞い願っていたらしい奥方か、完全に見放されたとは思っていない遥歌さんか。そして、どこまで伝わっているのだろう?


 姉妹は母親には、資金の入手ルートはぼかして伝えているはずだ。残りの金を俺が持っていることも知らないだろう。なら、やはり……。


 ともあれ、じたばたしても仕方がない。俺は悍馬に乗ったつもりで、できるだけ心を整えにかかっていた。


 その態度は、どうやら隣家のご主人の気に障ったらしい。家長であるなら、それらしい行動をしろと言ってやりたいが、ハンドルを握る相手の逆上を招くべきではない。


「そうして、余裕をかましていられるのも今のうちだぞ。お前は、これからヤクザの事務所に放り込まれるんだ」


「おじさんがノミ屋で借金をしたっていうヤクザ屋さん?」


「別口だ。シノギを邪魔される連中の怒りは、どう噴き出すかな」


 どうやら、目の前の人物はこの拉致の首謀者ではなく、ただの使い走りであるようだ。となれば、交渉のしようはあるかもしれない。俺に用がある反社会勢力には、心当たりがあった。


 


 俺を事務所とやらに連れ込んだ隣家のご主人は、完全な小物扱いで追い払われた。どうも、借金取りに話をつけてもらおうとしていたらしいのだが……。既に返済済みだとの認識はないらしい。


 入り口には、創始会と大書してあった。これがおそらく、組織名なんだろう。


 ソファーに座らされると、目の前の机に若い男性が腰を下ろした。


「お前が、舐めたことを連中に吹き込んでいるガキか。覚悟はできてるんだろうな」


「連中というのは上田競馬の運営者で、吹き込んでる内容とは競馬新聞の「いろは馬」を反社会勢力から引き離せ、ということかな」


「確信犯か。上等やコラっ」


 凄まれたところで、とてとてと足音が聞こえて、扉が開いた。


「ヤスさん、こんにちはー。じいちゃんは今日はこっちですか?」


 途端に、凄んでいた人物の声が猫撫でモードに変じた。


「坊っちゃん。相変わらずお元気で。おやっさ……、社長はご不在です。お家の方に顔を出すように伝えましょうか」


「いや、それはよしておこうかな……って、智樹なのか?」


「よう、孝志郎。お前は、ここの子だったのか?」


「いや、じいちゃんの職場の一つでね。なんか、知り合いの手伝いらしくって。智樹はどうしてここに?」


「父さんの仕事の大切な取引先でね。興味のある分野だったので、職場見学をさせてもらってるんだ」


「智樹の父さんの仕事がらみなら、いろは馬の方じゃないのか?」


「そうそう。これから連れて行ってもらえることになってるんだ。ね、若頭さん」


「そうなんですよ。社長も、あちらにいらっしゃると思うので」


「なら、一緒に行こうか」


「いや……、たぶん、父さんも来て込み入った話になるんじゃないのかな。どうだろう?」


「そうですね。今日はちょっと……」


「じゃあ、また今度にするよ。智樹、明日には話を聞かせてくれよな」


「ああ、学校でな。……生きて帰れたらだけど」


 後半は、隣の人物にだけ聞こえる音量での発言である。


 扉が閉ざされると、やや低い声が響いた。


「ぼっちゃんに助けを求めなかったことには感謝する。だが、シノギを邪魔しようとする者に容赦はしない」


「父さんは、なんの見返りも用意せずに、正面から押し通そうとしたのかな? 筋は通らないけど、役人としての立場もわかってほしい。話をつけるのは、別ルートでもいいはずだからね」


「提案でもあるってのか?」


「好みかどうかはわからないけど……、ただ、孝志郎のじいちゃんにも伝えた方がいいんじゃないかな。それとも、若頭さんが全権代表?」


「いや……、確かにそうだな。なら、いろは馬に向かうか」


 孝志郎の乱入がなかったら、ボコボコにされていたのだろうか。それとも、顔はヤバいと判断した上で、ボディーのみへの打撃に留まったのだろうか。


 なんにしても、交渉の道は開かれたのだった。……さて、道中で相手が検討に値すると考える程度の提案をひねり出さなくては。それもまた、結構な難事ではありそうなのだけれど。




「上田競馬を改革せんとする少年軍師が、孝志郎の同級生だったとはの」


 白髭の老人にまっすぐ見据えられると、背筋に冷ややかなものが走った。けれど、頭脳は大人であるからには、それを隠すための笑みくらいは浮かべなくては。


「軍師などとは……。こちらも、事務所に孝志郎が現れたのには驚きました」


「そうかそうか。ヤスの奴は、それを知っていて、余裕をかましていたようだと言っておったが」


「いえいえ。……孝志郎の家は、裕福には見えません。まさか、おじいさまが社長と親分をこなされているとは」


「ヤクザが儲かる時代ではない。もっとも、うちはずっとこんなもんだがの。……いろは馬もジリ貧だった。あきらめかけたところに、来年度の開催予定が発表された。あの仕掛けぶりに、期待するなという方が無理というものだ。そこに、いきなりの排除の話だからな」


「暴対法が成立した以上、元のままではいられません。……孝志郎に、御身の跡を継がせるおつもりなのですか?」


「いや、あの子は、家を出た娘の子だ。それはない」


「安心しました。孝志郎が利害関係者になると、色々とややこしくなるところでした。……ヤスさんにはお伝えしましたが、現時点で暴力団をただ単に排除するのが正しいことだとは考えていません」


「将来的には……、滅するべきか」


「実際には、滅びた方がいいところだけが、より先鋭化して存続するのでしょう。ただ、いずれにしても、孝志郎にその世界が向くとは思えません」


「だな。……単なる排除以外に、どういう方策がある」


「創始会本体と完全に切り離せる企業は、どのくらいあります?」


「お前さんの狙いは、いろは馬の切り離しなんだろうがな。不動産会社、土建屋、飲食店、その他といったところだ」


「これまでは、直接仲介して利益を得ていたのかもしれませんが、情報を元に先回りして儲け口を探す、というのではどうでしょう」


「工事情報か……」


「上田競馬は、父さんを失業させないためにも、繁栄させるつもりです。近隣からの集客ももちろん、パソコン通信を使っての全国からの投票を呼び込みます」


「そのあたりは、儂にはよくわからんが、ヤスはなにやら興奮していたな。これで、うちも存続できるんじゃないかと」


「切り離しが必要なのは、ご理解いただけていると思います。……発展のために、薄暮向け及びナイター向け照明の設置、スタンド整備、コース拡張を検討しています。おそらく、薄暮開催向けの設備が最初になるでしょう。そういった情報があれば、それらに必要な人手や資材が分かれば、先回りできないですかね?」


「入札となるとな……」


「そこもやりようかと。日程も、毎週土日開催になるとすれば、人材集めが必要となるでしょう」


「ふむ……。絡みようは、確かにあるな」


「そのあたりの世間話を、孝志郎とするのは自然なことです。……若頭さんにも、それで納得してもらえないでしょうか?」


「若頭とは、誰のことだ?」


「ヤスさんがそうなのでは?」


「いやいや、あいつは堅気の競馬記者だぞ。事実上のいろは馬のリーダーだ」


 どうやら、どやしつけられたのは演技だったらしい。


「お互いに利益を出せるようにしていきたいものです」


「そうだな。……ところで、お主を連れてきた男だがな」


「暮空氏ですか。あの人物も、孝志郎の同級生の父親です。……実際のところは、借金取りには既に駐在さん同席で金を押し付けてあります。おそらく、それで収まるだろうとは思いますが」


「その金はどうした?」


「馬券で得ました」


「ほう……。なら、金を返してやったやつに拉致されたわけか。締めておくか?」


「いえ、世話になっている隣家の姉妹の父親です。できれば、話を落着させてもらえると」


「金を返済済みなら、念押し程度でだいじょうぶだろうよ。……なあ、お前さん、うちの組を継がないか?」


「ご冗談を」


 応じた俺の言葉に笑声を上げながらも、孝志郎の祖父の目は笑ってはいなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る