【平成八年(1996年)三月上旬】


【平成八年(1996年)三月上旬】



 卒業式を済ませて下宿を引き払った遥歌が地元に戻ったのは、3月3日のことだった。


 帰り道で智樹と顔を合わせた彼女は、陽気に手を上げた。


「よっ、智樹くん。元気―?」


「遥歌さん、ひさしぶりー。春からは社会人だよね。広告代理店だったっけ?」


「あー、あれ、なくなっちゃった」


「えっ? えーと、……内定取消とか?」


「うん。なんか、父さんが悪い筋から借金しちゃったみたいで、内定先にも話が行ってね」


「それはまた……」


「お父さんが金策は考えてくれてると思うけど、破綻する前に間に合うかどうか」


 身体を売って稼げと言われていることまでは、遥歌は口にはしなかった。


「差し支えなければ、額を聞かせてもらっていいかな?」


「差し支えはあるんだけど、利子を含めて、一千二百万円くらいらしいの。ちょっと困っちゃってねえ」


 陽気さを装った声を耳にした智樹は、脳内で計算を始めた。


「来週の土曜日、時間あるかな?」


「あるよ」


「この四年間、同級生を背負って送り迎えをしたごほうびに、東京競馬場に連れて行ってもらえないかな」


「美冬も一緒によね。レンタカー?」


「ガソリン代も出すから。行った先で、頼みたいことがあるんだ。うまくいけば、苦境を抜ける手伝いができるかも」


「へー。期待まではしないけど、ありがとね」


「感謝の言葉は、借金完済してからでいいって!」


 子どもらしい声を発して駆け去る少年を、遥歌は頬にえくぼを浮かべて見送るのだった。




 智樹と隣家の姉妹によるドライブが実施されたのは、3月9日だった。関東では中山競馬場が開催中ではあるが、三人が向かった先は東京都下の府中にある、東京競馬場だった。


 ドライブ中には、この年から放送が始まったアニメ「るろうに剣心」のテーマ曲である「そばかす」を含めたジュディマリの曲や、マイリトルラバー、大黒摩季、ミスチルなどが流れていた。この頃のアニメの主題歌には、単に関係する音楽会社のアーティストが起用され、「スラムダンク」の「あなただけ見つめてる」などのまったくそぐわない曲が設定される場合も多い。気にしては負けなのだろう。


 ともあれ、暗くなりがちな旅路が歌のパワーで多少なりとも明るくなってくれたのは、智樹にとって助かる状態だった。


 そして、三人の乗った車は東京都下……、府中へと到達した。開催していない日の中央競馬の各場は、巨大なウインズ、場外馬券売り場と化す。入場券を求められることなく場内に入ると、土曜の午後だけに穏やかな気配が漂っていた。


「石和でもよかったんだけど、ちょっと目立っちゃうからね」


「頼みってのは、馬券を買えということ? でも、学生は馬券を買えないんじゃなかったっけ」


「卒業式が済んだんだから、もう学生じゃないでしょ? 大学に言えば、もしかしたら三月中は在学証明書をもらえるのかも知れないけど、そこはどうでもいいんじゃないかな」


「まあ、確かにね」


 小学生の代わりに馬券を買うことに比べたら、些事でしかない。智樹は、風で飛ばされてきた競馬新聞をキャッチして目的のレースの掲載面を開いた。


「買ってほしいのは、このマーチステークス。アレサイクロンとプリミエプリンスの馬連一点四万円で」


 通りかかった黒服黒帽子姿の金髪の少女が、耳にした買い目に思わず声を上げた。


「Went too far. I don’t buy that」


 ありえない、くらいの言い回しであるが、確かに買える馬券ではない。ただ、意味を理解しなかった智樹は、にこやかに会釈を返したのだった。場にそぐわぬ風貌の同年代の人物が、微苦笑を浮かべて去っていく。


 プリミエプリンスも大概だが、もう一頭のアレサイクロンは、長らく九百万下で走っていた馬で、重賞に出てくるのは違和感のある状態だった。しかも、脚質的には追い込み馬で、最後の直線の短い中山での好走は本来期待できない。


 その旨を隣家の姉妹の年長者に指摘された智樹は、穏やかな声で応じた。


「追い込み馬が何かの間違いで気分よく先行すると、いつものつもりで直線でも末脚を伸ばすこともあるからね。普通に買っても意味がない局面だし、ここは頼まれてよ」


 手渡されたのは、福沢諭吉のポートレートが四枚である。レンタカー料金とガソリン代を差し引くと、今の智樹のほぼ全財産だった。


 両親に真剣に頼めば、なにも言わずに多少の金銭を貸してくれたかもしれない。けれど、それをしてしまうと、女神の不確かな許容範囲を踏み越えかねないと彼は判断していた。




 好発を決めたアレサイクロンは、無理やり抑えられることもなく、馬なりのままで先頭を楽しげに走っている。これが有力馬であれば、誰かがつっつきに行ったかもしれない。けれど、十四頭立ての最低人気馬とあれば、ノーマーク状態なのはむしろ自然な展開だった。


 1コーナーを回り、2コーナー、3コーナーを過ぎ、最後のカーブを曲がり終えると、中山の短い直線が目の前に広がる。二番手には、途中からこちらも無理に追われていないプリミエプリンスがつけていた。


 スローペースのまま、先頭で鞍上からのゴーサインを受けたアレサイクロンは、いつもなら眼前に大量の馬がいるはずなのにと戸惑っただろうか。それとも、後ろから聞こえる足音に怯えていたのか。あるいは、目に見えない先行馬を追いかけていたのかもしれない。


 アレサイクロンは、逃げを打ったわけではない。先頭を自身のペースで駆けていたに過ぎない。そこからは、いつものジリっとした末脚の出番となる。


 そのまま脚を伸ばしたアレサイクロンは、二番手につけていたプリミエプリンスとの行った行ったの展開のままで、先頭でゴールを駆け抜けたのだった。


 智樹にとっては、前世で小学生の時に父親に連れられて中山競馬場を訪れ、格上挑戦と聞いて好感を抱いたアレサイクロンの応援馬券をねだり、単勝万馬券を的中させた思い出のレースである。まったくギャンブラーではなかった父親が慌てながらも子どものような笑みを浮かべていたのが今も脳裏に浮かぶ。思い返すと、あの体験が騎手を志すきっかけとなったのだろうと、智樹は改めて実感していた。




 配当は七万円余り。三千万円弱の配当金となる計算だった。この時期には導入が進んでいる自動払戻機は、上限が百万円となっている。


「あそこが高額払戻窓口だから行ってきてもらえるかな。何を訊かれても、持ち帰ると告げてくれれば。身分を明かす必要はないはず」


 智樹はネット投票専門だったので、このあたりは耳学問でしかない。それでも、様々な事情を抱えた、色々な筋の人物が来るからには、窓口の対応も限定的なものとなる。


 事務所に招き入れられた遥歌がしばらくの時間経過の後に出てくると、がっしりとした紙袋が抱えられていた。


 通りかかって状況を察した先程の黒づくめの金髪の少女が脱帽し、音を立てずに拍手を送ってくれた。手を軽く挙げて応じると、称賛者はあっさりと踵を返した。


「さて、ごほうびをくれるって話だったよね。なら、これを半分受け取ってくれることをお願いしちゃおうかな」


「そんなわけにはいかないわ。これは、あなたが勝ち取ったものよ」


「でもさあ、小学生の身じゃ馬券は買えなかったわけだし。……なら、もうひとつ。今回の件をうちの両親に黙っておいてくれないかな」


「それはもちろん」


「じゃあ、戻ったら駐在さんを同席させて、とっとと返済しちゃおう。民事不介入でも、それくらいはしてもらって罰は当たらないだろうから」


 遥歌にはかっこいいところを見せたいはずだし、との思惑は口にしない智樹であった。


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