【平成八年(1996年)正月】
【平成八年(1996年)正月】
暮空家の玄関の扉が乱打されたのは、一日ぶり二回目だった。
「くーれそーらさーん。借りたお金は返さなきゃダメですよねー」
扉が蹴りつけられる音がして、美冬と母親は互いを抱きしめ合った。
この家の家長は、借金取りだ、くそっと吐き捨て、昨日の段階でこの家を離れている。妻子の退避先を調整する気があるのかどうか、二人には判然としなかった。
東京でなら近所に響き渡って嫌がらせになるだろう大声は、隣家との距離があることからその面の効果はない。けれど、母娘を恐怖させるには充分な威力があった。
物音がしなくなってしばらくの時間が経ち、二人が玄関の様子を窺っていると、いきなり鍵が回った。
飛び上がった美冬と母親の前に現れたのは、遥歌だった。
「はるちゃん。どうして帰ってきたの。今年は、来ないって言ってたじゃない」
母親の声音には、やや非難の成分が含まれている。心配の念も、同時に存在はしているものの。
「父さんの借金の話が、内定先に伝えられたみたいでね。……内定が取り消しになっちゃった」
バブル崩壊による就職氷河期は、1993年からスタートし、この時期は凍りついた状態にある。それだけに、大卒の就職状況は不安定さを抱え込んでいた。
彼女が内定を勝ち取っていたのは、医薬品メーカーのハウス代理店だった。早計にも見える処置は、成り立ちからトラブルを避けたがる社風だったことも影響していたのだろう。
「どうして、あの人の借金があなたの就職に影響するの?」
「筋の悪い人が何度も電話してきたらしくてね。わたしに身体を売って返させると。ヤクザにカネを借りるというのは、そういうことなんだと」
「サラ金からじゃなかったの?」
「競馬のノミ屋からの借金も多かったみたいで」
そこで、顔を上げた美冬が問いを挟み込む。
「中山大障害の……?」
「そう、そう言ってた。その負け分を、上田競馬で稼いで返そうとしていたのかもね。……ともかく、ちょっとここに居させてもらえる? 独身寮にも電話が入っていて、いないってことにしたくって」
「それも、全部がわたしのせいなのかな」
妹の言葉に、腰を落として目線を合わせた遥歌がゆっくりと首を振る。
「いいえ、絶対に美冬のせいじゃないわ。……あなたは、いざとなったら、智樹くんのところに逃げるのよ」
「でも、みんなで……」
「ええ、できるだけみんなで過ごしましょう。どうにもならなかったらの話よ」
首を振る美冬の頭を、姉の手が撫でつける。その動作には、遥歌の方の心を落ち着かせる効果があった。
◆◆◆◆◆
寝正月を過ごしていると、父さんが客人を連れてやってきた。
面識はないはずだが、相手の方は智樹を見知っている様子だった。この秋には、少年少女の二人連れが幾度か上田競馬場に出没し、パドックで馬を見ている姿が話題になっていたらしい。上田競馬の関係者ということか。
この馬はいいね、と話した馬が活躍するので、聞き耳を立てる人も出てきていたようだ。それに気づいた俺は、予想にならないように発言に気をつけるようにしていた。
「年度が変われば、上田ダービーしかなかったクラシック路線を整備することが決まっている。時雨里くんからは、日程と時間帯とについて意見があると聞いているのだが、見解を教えてくれるかな」
年輩の人物の問い掛けに、俺は快活さを装いながら頷いた。父親の対応ぶりからして、偉い方であるものと思われる。
「もちろんです。……日程面では、平日の不定期開催から、できれば毎週の土日を含めた決まった曜日の開催をお勧めします。時間帯は、少なくとも薄暮開催を、できることならナイター開催がよいと思います。やがて、パソコンを通して全国の競馬ファンが各地方競馬の馬券を買える時代が到来します。中央競馬が終わった後の時間帯の、お馴染みの地方競馬になれれば、売上は安定するでしょう」
「ファミコン投票みたいなものが、パソコンでできるようになるという理解でよいのかな」
「はい。……今年の四月には、南関東で独自の電話投票がスタートすると聞いた気がします。そこからの発展が期待できます」
「時雨里くん、そうなのか?」
「ええ。息子に話した覚えはありませんが。……ただ、あれは大井、川崎、船橋、浦和の四場限定のはずです」
「乗っからせてもらいたいですねえ」
冗談めかして言ったものの、実際は本気である。南関東とは遠く離れた北海道のばんえい競馬が、やがてSPAT4に加入するからには、チャンスは皆無ではない。
「けれど、パソコン投票のシステムを独自に作るのは厳しいだろう」
「はい、それはそう思います。なので相乗りが理想です。それが叶わなくても、いずれは地方競馬のパソコン投票を統括的に扱う業者も出てくるでしょうし、もっと先には、中央競馬のシステムに乗せてもらえるかもしれません」
「夢のような話だが。……毎週開催するとしたら、土日の二日間開催になるだろう。中央競馬ともろにバッティングすることになりそうな気がするが」
「いっそ、中央競馬の場外馬券場を誘致しますか。そして、中央のメインレースが終わる頃に、開催を始めるというのでも」
「それは過激な……。実現したとして、中央競馬のファンが上田競馬に興味を示してくれるだろうか」
「足を運んでくれれば、飲食物などの物販収入に、少額にしても手数料収入は得られるでしょう。中央競馬を楽しんだ後に、もうひと勝負と思ってくれる人がほんの一握りでもいれば、大成功だと思います。そのための、番組拡充になります」
「番組編成の方針は、提案を踏まえて固めている。こちらが、来年度の日程表だ」
父親から渡されたのは、俺にとっては初見の資料である。ざっと目を通したが、不満はない。
「牡馬三冠は、真田三代になぞらえますか。2300mの真田幸村賞、2400mの真田昌幸賞、3000mの真田幸隆賞とは、本格的ですね」
「皐月賞相当は、1600mや1700mでは感じが出ないとの話になってな。牝馬については、春から初夏までの1600m、1700m、2300mと考えている。レース名が決まっていないんだが……」
「牡馬が真田三代なら、牝馬は姫君の名前からでしょうか。諏訪姫、黒姫、巴御前……となると、いかにもばらばらか。季節の花から、梅姫賞といった感じでもよいかもしれません」
「季節的には、梅姫賞、桜姫賞、桃姫賞といったところか。初年度は、四月第一週が第一戦、四月四週が第二戦、六月に第三戦という日程だけれど、翌年度は三月頭に初戦を持ってくる予定だからな」
年度カレンダーの最終月に視線を巡らせると、確かに牝馬の三冠初戦が三月頭に組まれている。
「三月の頭にお祭り的な開催をする案が採用されましたか」
「ああ、牡馬三冠路線の前哨戦と、牝馬三冠の初戦。それに、古馬の各路線の総決算的なレースを重ねようかと思っている。レース名は、武田四天王になるかもしれん」
「ブリーダーズカップみたいですね。そのどれかが、交流戦として発展すればよいのですけれど」
「育てていく必要はありそうだな」
この三月頭の開催は、将来的には、中央の新人騎手のデビュー戦にも対応できそうだ。JRA交流レースを組んで、三月に入ってからの平日に開催すれば、中央での土日のデビューを前に新人騎手に来てもらって、話題作りに繋げられるだろう。
「それと、古馬長距離戦は多めに設定したが、超長距離はいったん保留とさせてもらっている」
「よいと思います。目玉にはなるでしょうが、盛り上がるかどうかとなると、厳しいかもしれませんので」
「後は、年末開催との兼ね合いなんだが……」
「うーん、年末年始は、公営競技がどこもがんばる時期になるかと。ふだんは競馬専門の人も、競艇や競輪の大レースになら興味を示す場合もありましょうし。そう考えると、年末年始と中央の金杯の裏辺りは休んで、一月二週目から始動でもいいかも」
「ふむ……。年末年始の売上は貴重ではあるが、毎週土日開催と引き換えとしてならありかもしれんな」
この時代には、ワーク・ライフ・バランスと言っても通じなさそうだけれども、発想自体は伝わったようだ。
「それで、距離のバリエーションについてなのですが、こちらを見ていただけますか」
俺が示したのは、美冬に描いてもらった馬場拡張案を追加した競馬場の見取り図である。
「これは……、いくら掛かるかわからない大工事になるな」
最初に渡したのは、現状のコースの全面的な拡張に、ダートと芝の900m直線を含んだ欲張りモードの地図となる。
「そうなると思われます。もう一案、お示しします」
俺が出したのは、ホームストレッチに直線700mを追加した絵図となる。
「直線1000メートルということか」
「はい。それと、拡張した直線スタートから一周させることで、2000mも実現できます」
「中距離路線か……」
外回りコースもない現状では、2000mのコース設定は不可能である。中距離が実現できれば、さらに多様性は高まるのだった。
「1000mは、向こう正面スタートで、半周ちょっととすれば実現できますが、正直なところ、紛れの多いレースになりそうです。基本的には、実力を発揮できそうなレースの方が、通には好まれるかと。一方で、紛れの多いレースもまた、楽しいんでしょうけどね」
「番組作りには色々と工夫のしようがあるし、拡張は難しいにしても、検討のしようはある。……ただ、関門はいくつかある。ナイター開催もそうだが、提案のあった馬柱の無償公開となると、競馬新聞の発行元を説き伏せる必要がある」
「ええ。将来を考えると、馬柱を自由に広告などに使えるような関係性にしておきたいところかと」
「新聞社のいろは馬は、上田市に本拠を置いている。創始会という任侠団体と関係していて、表向きは別組織だが、人員は行き来しているようだ」
「暴対法との絡みで、関係を絶ってもらうしかないですね」
「そうなんだがなあ……」
首を振っているあたり、厄介な相手なのだろう。大人というのは大変なものだ。
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