【平成八年(1996年)夏~冬】
【平成八年(1996年)夏】
俺の前で、美冬が軽やかな足取りを見せている。脚力もついてきて、学校への往来を歩いて踏破できる日も出てきていた。ただ、やはり疲れてしまうタイミングはあり、一緒の登下校が続けられている。
二人の話題はサンデーサイレント産駒の勢いにたどり着くことが多い。
「ラムタラーもすごいのかな」
「うーん、どうなのかな。まあ、総てがうまくいくわけじゃないしね」
欧州三冠を制した輸入種牡馬に期待する声は広がっているが、俺の記憶からずれが生じなければ、産駒は活躍できずに終わるはずだった。まあ、サンデーサイレントが猛威を振るっている状況でなかったら、話は違っていたのかもしれない。
今年も地方交流重賞は盛んに行われ、ホクトヴェガが大活躍していた。
そして、この春には中央競馬史上で初となる女性騎手が、一気に三人誕生していた。中でも、首席卒業の牧風結希騎手は乗れると評判で、実際に見事な追い込みを決めた場面も印象に残っている。
ただ……。
「早すぎたということなのかな」
「なにが?」
「いや……」
平成の最終盤には、牧風結希騎手の引退によって女性騎手不在だった中央競馬にさっそうと登場した藤原七海騎手が、見事な活躍を見せる。女性騎手に減量などの恩典を与えようとの世界的な流れと、社会全体として男女の棲み分け的な空気が薄れていったのも、正直なところ大きかっただろう。もしも牧風結希騎手がその頃に登場してたら、活躍度合いは違っていたかもしれない。ただ、まあ、それはタラレバではある。
設立した新会社関連の話としては、4月にヤッホージャパンがオープンしている。当初のヤッホーはただのリンク集でしかなく、ひふみ企画でも同様のサイト「ひふみ案内所」を開設していた。ここで名を売ることが、いずれ財産になるとよいのだけれど。
同時に、サイト制作の受注を始めてもいた。ただ、ネット上の制限の多さを理解しないデザイナーが多くて苦労しているらしい。ファミコンのドット絵をやっていたような人材の方が向いているのかもね、と何気なく話したら遥歌さんがポンと手を打っていたので、心当たりがあるのかもしれない。
ゲーム機としては、1994年にプレイステーションが登場しており、1990年のスーパーファミコンとともに、初代ファミコンを過去の遺物にしていた。
上田競馬では、牡馬の二冠目となる上田ダービーこと真田昌幸賞と、牝馬三冠が既に終了している。盛り上がりはそこそこだったようだが、継続していくことが重要だろう。
そして、キヌノジャスティスのデビューが近づこうとしていた。
【平成八年(1996年)冬】
小学校も最終学年を迎えていて、二学期の終業式まで進んでいた。年明けからの三学期で、小学生生活ともお別れとなる。そして、俺たちが通った小学校は、統廃合による今年度まででの廃校が決まっていた。
終業式の後、美冬が下級生の女子と話し込んでいるタイミングで、俺はザクくんこと朱雀野貴臣教諭に呼び止められ、指導室に連れていかれた。
前世も通じて、生徒指導の対象となるのは初めてである。どんな展開になるだろうと期待に胸を高鳴らせていると、少しもじもじとした感じでザクくんが口を開いた。
「今日は……、進路指導をお願いしたくてな」
「はい。……でも、六年生で進路って、考えるものでしたっけ?」
「いや、智樹の進路じゃなくて、俺のだよ」
「は? ザクくん……、いえ、先生の進路?」
「ザクでいいよ。智樹は、上田競馬の運営に関わっているのか?」
普通に考えれば、そんなわけはないのだが、ザクくん……、朱雀野貴臣教諭の瞳には真剣な光がある。
「父さんが関わっていて、アドバイスはしているよ」
「ふむ……。上田競馬に、地方競馬に未来はあると思うか?」
「このまま、地元の顧客相手に商売していたんじゃ、滅びると思う。でも、ネットで対象範囲が広がれば、別の展開があるかも」
「インターネットか……。孝志郎が夢中になってるみたいだな」
「世界が拡張するのは、間違いないと思う。ただ、そのスピードが……、地方競馬の各場における累積赤字が先に限界に達してしまうかも」
「智樹の目から見て、どうなると思う?」
「総ての手が打てれば、間に合うと思う。でも、実際にやるのはぼくじゃないからね」
さすがに、そこまでの責任は負えない。
「存続の可能性は五分くらいならあるか?」
「上田競馬は、ギャンブル全否定の市長とかが現れなければ、五分以上かな。高崎と宇都宮が残ってくれるといいんだけど」
「足利は?」
「あそこは無理でしょ。払い戻しが手計算とか……。牧歌的で好ましいけど、今後の展望はゼロに近いと思う」
「手厳しいな。南関はどうだ?」
「南関東は安泰だよ。域内の人口が多い上に、電話投票を先駆けて手掛けていて、さらには衛星放送での中継まで。お手本というか、おこぼれにあずかりたい感じ」
「浦和もか?」
「大井、川崎、船橋と比べて一枚落ちる分、危機感があるのか、より動きがきっちりしている感じがあるね。高崎と宇都宮が倒れた場合には、どうにかして浦和と姉妹競馬場って形に持ち込みたいとこなんだけど」
俺の視点は、どうしても上田競馬に置かれる形となる。
「そうか……。俺はなあ、調教師になるのを夢見ていたんだ」
「中央の?」
「……いや、この上田を離れられない。ならば、上田競馬でとも考えたんだが、存続できるとは思えなくってな」
「何も手を打たなければ、そうだと思う」
「各路線の三冠レースが整備された。でも、それだけじゃないんだろ?」
「すぐできることはやろう、という話になってるみたい。長距離路線の拡充と、週末開催、薄暮開催の導入くらいまでは、なるべく早く実現したいかな」
「教師になった以上、途中で放り出すわけにもいかない、とも思っていた。ただ、ここが閉校になるのならば」
「見切り時ってわけ? ……地方の調教師って、試験を受けるんだっけ」
「どこかに弟子入りさせてもらってからかな」
「なら、競馬組合か創始会からだれか紹介しようか」
「待て待て、前者もダメだが、後者はもっと駄目だ」
さすが地元民、組織名だけで素性がわかるようだ。
「無理やり押し込むのは駄目だろうけど、紹介くらいならいいんじゃない?」
「いや、師匠は自分で見つける。頼むから、介入してくれるなよ」
「わかった、応援するくらいにしておく」
「遠くからでいいからな。ホントに、誰かに口添えしたりするなよ」
「うん。元担任が調教師を目指してるって触れ回るだけにする」
「だーかーらー、やめてくれって」
「事実なのに」
「それでもだ」
まあ、気持ちはわからないでもないんだけれどね。
そこまで話したときに、応接室の扉が開けられた。小規模なこの小学校に、ノックをするような風土はない。
「智樹……とザク先生? なにかトラブル?」
「いや、ちょっと人生相談をな。もう済んだ。相棒を借りて悪かったな」
「相棒ってわけじゃ……」
伸びをした朱雀野教諭は、晴れやかな笑みを浮かべていた。
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