【平成七年(1995年)正月】


【平成七年(1995年)正月】 



 遥歌は家庭内で父親の行動について言及せず、当事者二人も沈黙を保ったことから、暮空家において末娘の競馬場置き去り事件は起こらなかったことになっていた。


 美冬は、それほど落ち込んでいる様子を見せていなかったが、帰省中の遥歌はやや気にかけており、妹と隣家の少年を初詣に誘ったのは、その文脈からだった。


 彼らの住む里では、初詣は町まで下りるか、山に分け入る途中にあるお社か、という二択となる。遥歌は後者を好んでいた。


 お参りを済ませた帰り道、年長の連れに請われた智樹は、同級生の少女の承諾を得て、彼女の能力の説明を始めた。


「……というわけで、一定以上の能力を持つ馬は光って見えてるそうなんだ。光の強さの強弱は、そのまま資質の高さを表すみたい。ただ、ある程度以上の能力になると、強さが変わらなくなるようでね」


「カイトウテイオーとメグロマックイーンの違いはわからないけど、未勝利を勝ち上がれるかどうかは判別できるってこと?」


「まさにそんな感じだね。強弱がどのくらい判別できるかの検証はまだなんだけど」


「……でも、勝つ馬がわかるわけじゃないみたいなの」


 美冬の言葉に、隣家の少年が首を振る。


「それはむしろ、いいことだって。実力が見極められる方が、より価値が高いよ。残念ながら、写真は光らないようなんだけど、映像なら見分けられるわけだし」


 ふむ、と声を発した遥歌が問いを投げ込む。


「中央の未勝利を勝つ水準ってことは、上田競馬だと?」


「オープンに上がれるかどうか、くらいの高めの条件ってとこかな」


 上田競馬の重賞レースの賞金水準は、中央の未勝利戦より低いのが実情である。智樹は興奮した様子で続けた。


「予想に有効なのはもちろんだけど、競りでの馬選びのアドバイザーとか、牧場でどの馬を売ってしまうかとかの判断にとても有益ってことになるねえ」


「すごい能力を持っているのね。……あたしには、そういうのは何もないな」


 姉妹の年長者がこぼした言葉に、智樹が首をひねる。


「うーん、遥歌さんと一緒になにかを成し遂げたわけでもないので、得意分野とかはわからないけど、場を明るくしちゃうのはすごいことだと思う。どんな組織でも重宝されるだろうし、きっと組織を束ねるのにも」


「そんなの、ただのにぎやかしでしかないじゃない」


 奮然と応じたのは美冬だった。


「そんなことないって。お姉ちゃんがいない間のうちは、灯が消えたみたいな感じよ」


「そうなの? でも、確かに美冬は父さん、母さんよりも……」


 そこで遥歌は言い淀み、首を振った。


「はぁー。でも、やっぱり、あたしの中には美冬みたいな能力を見出してはくれないのね。小学生にそんなことを求めるのも、どうかしているとは思うけど」


「暮空の能力はすごいけど、活かせる分野は非常に限られている。牧場でも厩舎でも体力は必要だろうし」


「……ちょっと待って、智樹くん。美冬のことを苗字で呼んでるの?」


「うん」


「さすがにそれは……、いくらなんでも他人行儀すぎるんじゃないかしら。名前で呼んであげて。いいわよね、美冬」


「別にかまわないけど」


「いや、でも……」


「お願い」


「わかったよ。……美冬さん?」


「さんは抜きで」


 智樹からの問い掛けの視線に、少女はやや煩わしげに頷いた。


「美冬」


「なら、あんたのことも智樹って呼ぶわ。いいわよね」


「ああ、もちろん」


 呼び方が落着したところで、やってきたのは智樹とは顔馴染みの年若い駐在だった。


「よお、少年。あけましておめでとう。今年もよろしくな。大障害並みのも、また頼むぜ」


「うん、こちらこそ。……あ、こちらの二人も、競馬に興味があるみたいなんだ」


「本当かい? 若い娘さん達がめずらしいね」


「両親が以前、競馬関係の仕事をしていたんですよー」


 遥歌が如才ない受け応えを始める様子を、智樹はややニヤつきながら眺めていた。その様子に、美冬は胡乱げな視線を向けるのだった。


「あ、いや、意外とお似合いなんじゃないかと思ってさ」


「そんなこと考えてるの?」


「まあ、駐在さんに女性を紹介すれば、恩が売れるってのもあってさ。美冬も、駐在さんと交流を持っておいて損はないと思うけど」


「とも……、智樹は変なことばかり考えているのね」


「うーん、まあ、そうかも」


 隣家の少年を名前で読んだことと、それを意識している自分とまったく気にしていないように見える相手との対比が、美冬には急に恥ずかしいことに感じられた。


 しどろもどろになって家に駆け込むと、途端に電話が鳴った。この年代には、まだ携帯電話の普及率は低く、固定電話が連絡手段として通用している。暮空家では、娘たちも含めて手近にいる者が取るルールになっていた。


「はい、暮空です」


「……太郎さんはいるかい?」


「どちらさまでしょうか」


 問い返したのは、父親について訊いてくる電話が入った場合には、相手の名前を確認するようにと指示されているためである。


 そのままガチャリと切られて。美冬は首を傾げる。けれど、窓から智樹の姿が見えたことで、先程の恥ずかしさがぶり返して、そのまま自室へと駆けていくことになった。


 暮空家の電話は、その日はもう鳴らなかった。



◆◆◆◆◆


 正月、こたつで寝転んで、この時点では健在の海老一染之助染太郎師匠の傘回し芸を堪能していると、父親が声をかけてきた。


「なあ、智樹。上田競馬に行ったんだって?」


「うん、お隣の美冬……、暮空さんが迷い込んだみたいで、お姉さんと探しにね」


「そうか。……あの競馬場をどう見た?」


「どうって……」


 どこをどう見ても、典型的な滅びに向かいつつある地方競馬である。バブル期の始め頃に増築した部分の居心地はいいが、本館は昭和前半の香りが漂っていた。


「まあ、いずれ閉じることになるだろうねえ。中央競馬には敵わないだろうし」


「そうだよなあ……」


 やや口惜しそうな反応に、俺は戸惑いを覚えていた。


「どうしたの? 競馬に興味があったとは思えなかったけど」


「実は、上田市役所から競馬組合に出向することになった」


「建て直し? それとも、見極め?」


「表向きは前者だ」


 見極め含みということか。


「それなら、今のうちから職員さんの行き先を探す動きをした方がいいかもね」


「税金が投入されている。建て直せるものなら建て直したい」


「これまでのバブル期で充分に利益は享受したんじゃないの? 早めに撤退すれば、累計でプラスになりそうな気がするけど」


「過ぎた期間は考えないのが行政というものでな。過去の検証は必要にしても」


「……任期中に廃止となったら、父さんが責任を取らされる?」


「それこそ、表向きには影響がないはずだが、希望を示しつつリストラを繰り返してからの廃止となったら、恨まれるだろうな」


 この善良な人物が不利益を被るのは間違っている気がする。そしてなにより、時雨里家には穏やかであってほしい。


「……でも、父さんは競馬が盛んになってうれしいの? ギャンブルには否定的なんじゃ」


「いや、今回の話を受けて競馬を勉強してみた。サラ金で借りた金を突っ込むような印象を持っていたんだが、だいぶイメージが変わってきているようだな。しかも、血脈の魅力も確かにある。若い頃に寺山修司の著作で触れたときにはちんぷんかんぷんだったが、今ならちょっとわかる気がする。血脈については……、お前たちの影響かもな」


 俺と父さんが視線を向けたのは、寝息を立てている弟、雅也の方だった。


「なら……、魅力的な番組と、他地域に売るための仕組み作り、それに予想向けツールの提供ってところかな」


「なんだって?」


「だから、上田競馬の生き残り策でしょ? まずは、牡牝の自前での三冠レース確立。後は、短距離長距離のバリエーションと、近隣地域での連携、開催時間帯の検討に、競馬新聞の拡充も必須だね。……今の時期なら、とりあえずはそこまでかなあ」


「待て待て、ひとつずつ。上田独自の三冠レースとな?」


「中央競馬の三冠……、牡馬での皐月賞、ダービー、菊花賞、牝馬の桜花賞、オークス、エリザベス女王杯も、ヨーロッパの概念の借り物だから、似たものを作って問題ないはず。牝馬に至っては最後のエリザベス女王杯が古馬混合ってとこまで踏襲しているしね。中央競馬では、いずれ、三歳馬……じゃなかった、四歳馬限定の牝馬三冠最後のレースが設定されるだろうけど」


「それは、春から秋にかけて、短いのと長いのを混ぜて総合力を競わせる感じか?」


「それでもいいけど、アメリカの三冠みたいに、時期を近接させてもいいかもね。いずれにしても、決めたら、調整は最小限に留めて、ずっと続けることかな。二十年経てば伝統の香りが漂ってくるよ」


「短距離、長距離のバリエーションというのは」


「いろんなレースがあっていいよね、って話だね。飽きさせないように。現状は、1600mと1700mがほとんどで、ごく稀に2300mがあるくらいだよね。そこを拡充して」


「それは、手間がかかるな」


「そりゃ、そうだろうけどさ。古馬のクラシックディスタンス戦線を拡充するのは有効だろうし、1600mにしても、マイル王決定戦とかは季節ごとに設定したいね。クラシック世代なら、マイル三冠なんかも考えていいかも。それで、他の地域の馬も呼べたらいいね」


「地域連携ってのは、そういうことか」


「そうそう、北関東には、高崎、足利、宇都宮の競馬場があるよね? そこと交流して、招待するなり、自由に参戦できるようにするとか。後は、新潟、三条との連携もありかも」


「高崎とは、以前は往来していたらしい」


「なら、素地はあるから、すんなりまとまるかな? 交流を図って、そこにレースのバリエーションも重ねれば、ある程度は出走馬を呼び込めるかも。そこから、相互発売に繋げていきたいねえ」


 父さんは、いつの間にやらメモを取り始めている。


「まだあったよな」


「時間帯は……、大井みたいなナイター開催は難しいかな?」


「照明も、人の手当てもなあ。……見合う効果はあるだろうか」


「いずれ電話投票がパソコン投票に発展すれば、よその手薄な時間帯に開催していれば、競争力に繋がるよ。がっつりナイターが無理なら、中央競馬や南関東の昼の部が終わる夕方頃に設定できれば。午後五時から、六時半くらいにメイン3レースをやるだけでも、だいぶ違うと思う。午後七時半くらいまでやってもいい気がするけど」


「……そうは言うが、中央競馬好きが上田競馬に関心を示すとは思えないがなあ」


「そんなことないよ。もちろん全員ってわけにはいかないけど、全国の競馬ファンのごく一部でも呼び込めれば」


「競馬新聞は……、電話投票やパソコン投票には関わらないんじゃないか」


「データは貴重だから。スポーツ新聞に広告として馬柱を載せるとか、先々はネットで無料公開なんてどうかな」


「いや、しかし……」


「競馬新聞の発行会社を市や関係団体で取り込んじゃえば、自由にできると思うけど」


「そんな資金は……。しかも、あそこは……」


「うーん、予想者には、馬柱があれば最大のアピールなんだけどなあ。……でもまあ、実際はどれも無理だよね。潔く滅びの道を進むのもありかも」


「いやいや、考える。本気で考えてみる。だから、また相談に乗ってくれるか?」


「うん、もちろん。いつでもどうぞ」


 父親がメモをなにやら帳面にまとめているのを横目にテレビを見ながら、一区切りついたらしいタイミングで声をかけてみる。


「ところで、相談なんだけどさ」


「おう、なんだ?」


「去年から、グリーンチャンネルが放送されてるじゃない? あれ、契約できないかな」


 俺は、これまでのお年玉を貯めている、一銭も引き出していない預金通帳を持参した。


「長期的には足りないと思うんだけど、その時点で解約するのでも」


「……智樹が、自分で見るのか?」


「それもあるけど、隣の美冬にも見せたいと思って」


「どうして、それを先に言わないんだ」


 そう口にした父さんは、なにやら夫婦会議を招集していた。うーん、でも、女の子が競馬に興味を持つって、この時点では外聞が悪いよね?




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