【平成六年(1994年)】


【平成六年(1994年)晩秋】



「今年はやっぱりハネダブライアンの三冠よね。コグリキャップの妹、コグリローマンの桜花賞制覇も感慨深かったけど、歴史的にはやっぱり」


 同級生の少年の背に負われた美冬は、前日の菊花賞の結果にやや興奮気味である。


「ブライアンの強さは強烈だよなあ。それに、サンデーサイレントの産駒もいきなり活躍しているし。世界が変わっていく感じがするな」


「サンデーの子は確かにすごそうだけど、でも、でも、テイオーはもちろん、ブライアンの子だって期待できるでしょうに」


「そうなんだよな。テイオーはともかく、ブライアンが健康だったらどうだったんだろう。ブライアンズタイムス系は、サンデーサイレントに系統が近いにしても、もう少しなあ……」


「ブライアンはお兄ちゃんのビオハヤヒデも活躍してるしね。牧場がすごいってことなのかな」


「うーん、確かに今の時点の勢いはすごいよな。それがどうしてああなっちゃうのか……」


 智樹の言葉の後半は、いずれもが口中でのつぶやきとなっていた。両馬の生産牧場は、獲得賞金額リーディング絶対王者の譜代牧場に継ぐ二番手に位置して飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、わずか八年後に破綻に至るのだった。


「暮空さんは、馬産に興味があるのかい?」


「そういうわけじゃないけど……」


 今度は、美冬の言葉が小さくなっていった。そして、しばらくの逡巡の後で、問い掛けが発せられた。


「爛柯牧場(らんかぼくじょう)って知ってる?」


「いや。……アニメのヒロインみたいな牧場名だね」


 相手の反応に、少女が首を傾げる。


「そんなアニメあったっけ? 詳しいわけではないけど」


「いや、違う。勘違いだ」


 智樹が口にしたヒロインが登場するアニメ、マクロス・フロンティアは、この時点から十四年ほど後の放映となる。


 この1994年秋は、マクロスシリーズの第二作目、マクロス・セブンの放映が開始されてから程ないタイミングで、毎週日曜の朝には熱気バサラの歌声が宇宙に響き渡っていた。


「でも、爛柯牧場ってところに聞き覚えはないなあ」


「そう。……いいの」


 やや歯切れの悪い反応に、問いを重ねようとした智樹だったが、背負った相手を下ろす地点に到達していた。


 美冬の脚力はやや上向いており、両者の合意の上で離脱タイミングが早められつつあった。


 


 教室に入ると、孝志郎がうれしげな声を発して智樹を迎えた。


「そうか、パソコンを入手したのか」


「ああ、東京の親戚のお下がりでな。98の、ちょっと古めのシリーズなんだが」


「動けば問題ないだろ。98かあ……」


 MECのキューハチと呼ばれるパソコンシリーズは、数年前まで日本で標準機的な位置を占めるシェアを獲得していたが、1992年のコンパックの日本市場参入、いわゆるコンパックショックによって牙城が揺らぎつつあった。


 シェアの六割は揺らいでいないと、この後もわりと長期にわたって大本営発表的な虚偽を公言し続けるMECが、独自仕様を放棄してAT互換機に切り替えるまでには、あと三年ほどの猶予しかない。


「で、パソコンで何をやるんだ? プログラミングといっても、BASICって時代じゃなくなってるよな」


「まずはゲーム、その次にはパソコン通信かなあ」


「ほほう」


 インターネットはまだ普及期にあり、飛躍期に至るまでにはまだもう少し時間がかかる。


「まだ設定はこれからなんだ。智樹も来るか?」


「楽しそうだな。……んー、ただ、ちょっとな」


 そこで孝志郎にちらりと視線を向けられて、もうひとりのクラスメートの頬がやや膨らんだ。自分を背負って帰っている以上、智樹に寄り道をする自由はない。それが、彼女にもわかっていた。


「日曜にでも遊びに行くから、その時点の動きを見せてくれれば」


 そう言って席に戻った智樹は、隣席の少女がふくれているのに気がついた。


「パソコンに興味あるなら、一緒に寄らせてもらうか?」


「ううん、興味ないから」


「そっか」


 やり取りが終えられたとき、小学校内にチャイムが鳴り響いた。入ってきた朱雀野教諭も、教師生活四年目に入っており、すっかり落ち着いて来ていた。教え方は元々からして理路整然としつつ硬軟織り交ぜる方向性で、より高度になってきてもいた。


 一方で、智樹達としては、競馬話を聞きつけると凝視される点に、やや気を配っている状態だった。




【平成六年(1994年)冬】



 この歳の三歳戦線……、後の世で言うところの二歳馬戦線は朝日杯3歳ステークスをフジミラクルが勝利し、プレミアステージ、タモツツヨシといったサンデーサイレント産駒に席巻される形となっている。いや、この後の日本競馬界が、と表現した方が適切かもしれない。


 その偉大さには感服するしかないが、もうちょっと他の血統を残しても良かったんじゃないのか、というのは前世から通じての俺の感想である。これが、生産牧場界が戦国時代的な状況だったのならまだわかるのだが、譜代牧場の一強だったからには、いくらでもやりようがあったはずである。


 再来週に迫った有馬記念では、ハネダブライアンが完勝し、ヒシアマゾネスが二着に入るはずだ。これまで、俺の記憶との齟齬はないので、おそらくその通りの決着となるだろう。


 そして、今回の有馬記念でのマチカゼタンホイザは、出走取消だったか。この馬は、ノーザントースト直仔の晩年の有力馬となる。


 ノーザントーストの牡馬の代表産駒は、ダイアナガリバー、アンバーフダイ、ギャロップダイアナあたりとなり、そのうちのアンバーフダイから、直仔のメグロライアンと、その息子のメグロブライトへと繋がる流れとなった。ただ、この後に巻き起こるサンデーサイレント旋風の中で、前世においてこの血脈が先へと受け継がれることはなかった。


 ノーザントーストは、世界を席巻した偉大な父親のノーザンダンサーの血を日本に持ち込むとの意味で大きな役割を果たしたのは間違いない。ただ、その後の種牡馬、幼駒の輸入が一般化する流れの中で、他のノーザンダンサー産駒も入ってきて、稀少度が低下した面は否めない。ノーザンダンサーのクロスを実現するのに、ノーザントースト以外の選択肢も普通に選べる状態となったのだった。


 そうなると、元々が気性の激しいノーザンダンサーに似ずにおとなしい性格だったこと、自身の特徴を出すというよりは牝馬の特性を引き出す傾向にあったことなどから、後継種牡馬を含めて重要視されなかった面がありそうだ。


 マチカゼタンホイザも、同様にサンデーサイレント一強の状況下で、種牡馬として結果を残せなかったはずだ。まあ、GⅠには手が届かず、次の春の高松宮杯……、この時代は短距離戦ではなく、中京二千メートルで開催されるGⅡ戦なのだが、それも含めたGⅡ三勝という戦績で、いわゆる一流馬ではないので無理もないのかもしれない。


「それで、有馬記念はどうなると思う?」


 背中から届いた問い掛けが、俺の思考にストップを掛けた。そうそう、今は学校からの帰り道だった。


「ハネダブライアンとヒシアマゾネスが抜けているだろう。ただ、その二頭じゃ馬券的な妙味はないけどな」


「やっぱりブライアンよね。……馬券的に妙味? ってのがある馬はいるの?」


「いやあ、三歳重賞はサンデーサイレント産駒の人気馬で固いだろう、他もなあ。あ、唯一、今週末の中山大障害なら、ローゼンムーンの頭、フジサンスラッガーとでいい感じかも。……そうか、駐在さんに買わせちゃうか」


「ふーん。ローゼンムーンね」


 そう口にした時の美冬は、特に意味のない世間話のつもりだった。



◇◇◇◇◇



「お父さん、おはよう」


「おお」


 美冬は、居間に入ってきた父親にあいさつを投げた。頭をかきながら応じた人物の手には、競馬新聞が握られていた。


「競馬の予想をしてたの?」


「ああ。秋の中山大障害に狙い目の馬がいるんだ」


「もしかして……、ローゼンムーン?」


「はぁ? そんな駄馬、用無しさ」


 この時点での障害界は、ブローチマインドが一強状態で、中山大障害三連覇がかかる今回も、単勝一倍台の圧倒的人気で迎えることになる。


「タイニャンとユーユーハッピーが逆転する。……ローゼンムーンとブローチマインドで決まるってのか?」


「ローゼンムーンとフジサンスラッガー……」


「話にならないな」


 そこまでで話を切り上げた暮空家の家長は、諳んじているノミ屋の番号をダイヤルしたのだった。




 その週の中山大障害・秋は後に障害にグレードが導入されるとGIに格付けされる障害界の大レースだが、平地競走に比べると扱いは低く、第9競争として行われるのが通例となる。


 テレビ中継は行われなかったため、暮空家ではラジオからのイヤホンで、勝負をかけた人物だけが実況を聴く形となった。


 圧倒的一番人気馬に続く支持を集めていたタイニャンとユーユーハッピーは、レース中に相次いで競走中止となった。ブローチマインドの三連覇が確実と思われたが、いつもの突き放す脚は見られず、抜け出したフジサンスラッガーを猛追してゴール前で抜き去ったのは、ローゼンムーンだった。


 その配当を耳にした瞬間、自分に対して父親が向けてきた冷ややかな視線を、美冬はまったく感知できていなかった。



◆◆◆◆◆



 有馬記念は、ハネダブライアンとヒシアマゾネスでの決着となった。マチカゼタンホイザは、やはり出走取消だった。


 その余韻に浸った月曜日、既に冬休みに入っているためお使いに出たところ、二色刷りの競馬新聞を手にした隣家の同級生に呼び止められた。


「ねえ、上田競馬の勝ち馬はわかる?」


 彼女の手にあったのは、二色刷りの上田競馬の競馬新聞だった。いろは馬と書かれたロゴはなかなかおさまりがよい。


「いや、地方競馬は専門外だなあ。交流重賞のごく一部くらいで、上田はまったく」


「そう……」


「だいじょうぶか? 確実に当たるとは言えないけど、検討くらいはできるが」


「ううん、いいの。ありがとう」


 まともな感謝の言葉は、学校への往来時も含めて、あまり聞いた記憶がない。いつもと違う様子に、やや心配になってしまうが、これ以上の対話は難しそうだった。


 相談するとしたら、誰だろうか。そのとき、背後から声がかかった。



◇◇◇◇◇



 美冬は、父親に車に乗せられていた。朝に予告された通りに、上田競馬に連れて行かれているのだった。


 彼らの住む土地から上田競馬場までは、車なら四十分程度。電車を使うとしたら、徒歩行程が長くなるために、待ち時間がなかったとしても一時間以上の所要時間となる。


 駐車場から入場するまでの道のりは、なかなかに寂れた雰囲気が漂う。ただ、集まる人々に荒々しさはあまり見られない。穏やかさなのか、閉塞感なのかは、受け手によって判断の分かれるところとなるだろう。


 入場ゲートをくぐると、右奥に下見所、左手に券売所、スタンドという配置となる。どこからか漂ってくるかつおだしの香りが美冬の鼻腔をくすぐったが、そもそもこの父娘は気軽に食べ物をねだるような関係性にはない。


「中山大障害の予想を的中させられるのなら、ここの結果などすぐにわかるだろう。勝ち馬を示せ」


「あれはわたしの予想じゃないし、勝ち馬なんてわからないけど……、がんばってみる。あの回ってる馬から選べばいいの」


「ああ。二頭か三頭に、多くて四頭に絞れればそれでいい」


「……じゃあ、あの2番と6番」


「二頭でいいのか?」


「うん」


 美冬が指し示したのは、彼女には薄く光って見えている二頭だった。痩せた少女の目には、競走馬のうちの一部が光を纏って見えている。薄い光と言いつつも、強さには濃淡があるのだが、光がまったくない場合とは明らかに違っていた。


 光が強さを示すものかどうかはわからないものの、競馬中継ではこの光のない馬が勝ったのを見たことがないため、彼女はそう判断していた。




 美冬が指し示していった馬が好走している間は、彼女の父親は上機嫌だった。当初は小バカにして、次いで半信半疑となった賭け方が強気方面へと置き換わり、口許にニヤつきが生じていった。


 その表情が急変したのは、メインレースで娘が一頭だけ指名した人気薄の馬が、競走を中止したときだった。


 ブービー人気の馬が一頭だけ指定されたのを受けて、その日の勝ち分を含めた結構な金額での、総流し有り金勝負が行われていた。それがふいになったわけで、衝撃は大きかったのかもしれない。


 馬券を引き裂いて地に打ち捨てると、娘の方に視線を送ろうともせずに駐車場に向けて歩き出す。当然ながら、美冬は追いかける。


「待って、お父さん」


 声をかけた娘に、暮空家の家長は冷ややかな声音で言葉を叩きつけた。


「期待をさせておいて、おかしな嫌がらせをしやがって。自力で帰れ。ここに俺と来たことは、誰にも言うな」


 言い捨てて、すたすたとその場を去る。最後に見放した一瞥を向けられた美冬は、わかったと届かない言葉を返していた。


 彼女は、電車に乗ったことがない。上田競馬場から最寄り駅までの帰り道もわからない状態だった。


 途方に暮れた彼女は、この一日で馴染みの場所になったパドックの一角へと歩を進めた。スタンド方面から流れるかつおだしの香りが彼女を差し招いていたが、持ち合わせは心細く、また、なにかを食べようという気持ちにはなれなかった。




 最終レースの馬が下見所を回り続ける中で、彼女に近づいてきた影からは、親しみを感じさせる気配がした。


 そちらに顔を向けると、並んで立っていたのは姉の遥歌と隣家の少年だった。


「お父さんとはぐれちゃったの?」


 姉の口調からは、心配の念の中に攻めるような口調が混じっているように美冬には思えた。


「ううん。一人で電車を使って帰れって」


 その言葉に、遥歌が顔をしかめる。


「美冬一人で帰れると思ったのかしら。困ったお父さんねえ。……でも、あなたもちゃんと、一人で帰れないと言わなきゃだめよ」


 その言葉には、父親への信頼の揺るぎなさが感じられた。


 ああ、姉さんは、父さんにあの目を向けられたことはないんだ。


 そう理解した美冬は、絶望と安堵を同時に体感していた。


「どうしてここに?」


「智樹くんが、あなたがお父さんに連れられて競馬場に行ったんじゃないかって。心配してくれてたのよ。で、念のため様子を見に来たら、お父さんが一人で駐車場に向かったようだったので」


「そう……。途中までは、上位に来る馬を当てられてたんだけど、最後に外してしまったの。ひどく損をしちゃったみたいで」


「それでイラついちゃったのか。しょうがないお父さんねえ」


 遥歌の中では、今回の件は未然に防がれた小トラブルとして扱われていた。対して、美冬としては重く受け止めざるを得なかった。




 母親に連絡を入れるために遥歌が離脱したため、パドックには同級生二人が残された。口を開いたのは、少年の方だった。


「なあ、暮空。訊いてもいいか?」


「なあに?」


「途中までは上位入線する馬を当てられたって言ってたよな。どうしてわかったんだ? どの馬を指定したんだ」


美冬は、手元に残った出馬表で選んだ馬を示していった。


「とても買える馬じゃないのも何頭かいるな。どうやって選んだのか教えてくれるか」


「うーんとね……、実は、馬が光って見えるの」


「光る?」


「そう、薄っすら光ってる馬と、そうじゃない馬がいるの。テレビで見る馬はだいたいが光っていて、最初の頃に放送されるレースにたまに光らない馬がいる感じ。でも、ここでは一レースあたり一頭から、多くても三頭くらいしか光っていなくて」


「その光る馬が、例外なく上位に来たってことか」


「ううん、途中のすごい汗をかいてたのと、あと、最後のレースで途中までで止まっちゃった馬がいたから……」


「競走中止や体調不良までは反映されないってことは、その日の結果じゃなくて、実力がわかるってことか。それは、逆にすごいな。テレビでも見えるってのは、生中継じゃなくてもいいのか? 調教VTRとかでもか?」


 美冬は、初めて隣家の少年から見つめられた気がしていた。これまでは、智樹の目線の焦点は自分のところで結ばれていなかったのだとわかる。


 その視線が、馬を包む光を感じる能力にだけ向けられたものだとしても、彼女に厭うつもりはなかった。父親から異物に向けるべき一瞥を投げつけられた影響もあったのかもしれない。


「うん。でも、週末の中継での調教VTRだと、みんな強めに光ってるよ」


「見ているのが、重賞レースの調教だからか。グリーンチャンネルがあれば、いろいろ検証できるのにな」


「ぐりーん……? 緑のテレビ局?」


「あ、いや、なんでもない。それにしても、すごい才能だな。馬関係の仕事についたら、すごく役に立つと思うぞ」


「牧場とか?」


「精度によるけど、生産牧場なんかだと、すごい威力だと思う。興味があるなら、とにかく馬を見て、磨いておくといい」


「うん」


 そう応じたタイミングで遥歌が戻ってきた。その両手にはおでんが山盛りになった皿があった。小腹を満たしてから、三人は帰路についたのだった。


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