【平成三年(1991年)】


【平成三年(1991年)四月】


 美冬の視線の先にあるテレビの画面では、パドックを周回する馬が大写しになっていた。その視界の中での競走馬は、薄っすらと輝く個体と、そうでないものに大別される。


 彼女はそれが自然な状態だと思っていて、他人とその話をすることはなかった。実際のところ、午後三時台の準メイン及びメインレースの中継で映し出される競走馬は、ほとんどが薄っすらと輝いているため、特に気にならないのだった。


 暮空家では、週末には家族揃って競馬中継を見るのが習慣になっている。夕方から働きに出ていて、朝が遅い父親が起き出してくる時間だという事情もあった。


 美冬の姉も含めた三人は、東京に転居する前に牧場暮らしの経験があり、馬に親しんでいる。競走馬の生産についてある程度の知識を得ていることから、競馬にも自然と興味が湧く流れだった。


 その前提のない美冬は、無理に見なくてもいいのよと言われるものの、自分以外の家族三人が共通言語を備えていることに本能的な危機感を抱いているのか、反発して集中するのが常だった。結果として、自然な興味を抱きつつある。


 じっくりと見てしまえば、紡がれるドラマは魅力的である。一時間程度の番組の中でも、パドックの解説、調教や過去のレースのVTR、本馬場入場からの輪乗り、発走、レース実況、勝利騎手インタビューとストーリーは出来上がっている。そして、季節や年単位の流れからも、その馬の生涯を通しても、さらには世代を越えてもドラマが展開される。


 小学一年生になったばかりの美冬には、さすがに年単位以上の動きはおぼろげにしか理解できていなかったが、それでも興味はその胸にあった。


 そんな中で、空気が変わるときがある。ランカの冠名のついた馬が登場したときに、なんとも言えない緊張感めいた雰囲気が漂うのである。ただ、その日のメインレースとして扱われるような大きなレースに出ることはほとんどなく、放送中に付け足し程度に取り上げられる条件戦に、たまに登場する程度ではあるのだが。


 そして、ほぼ例外なく見どころのないままに負ける。そうすると、なにやら安心したような空気が漂うのだった。


 ランカの名を冠したその馬たちが、姉が小さい頃に家族で暮らしていた牧場出身の馬たちなのだと美冬が知ったのはつい最近のことだった。その空気は、彼女にはなぜかいたたまれないものに感じられた。


 競馬中継が終わると、食事を終えた父親が出勤の支度を始める。美冬には運転の仕事だと説明されていたが、実際にはホステスの送迎からの、キャバレーでの給仕的な役割となる。


 夢破れての都落ちさ、と自嘲気味に口にする夫を、姉妹の母は柔らかな目で見つめている。その優男ぶりに都会の香りを感じたのが、そもそもの馴れ初めであるからには、無理からぬところとなる。


 姉の遥歌は父親と親しんだ経験から、近しい感情を抱いている。一方で、物心ついた頃には既に荒んでいて、この地に越してきてからは接触が少ないために、美冬はあまり親しみを感じていなかった。


 小学校に上がった彼女にとって、その家庭環境はやや息苦しさを感じさせるものとなっていた。ただ、その年頃の子どもに、よその家庭の雰囲気がわかるはずもない。


 具体的には、隣の家族がどんな状況なのか、美冬にはよくわかっていなかった。


 外で夕焼け空を見ていると、父親が出勤のために出てきた。行ってらっしゃいと声をかけると、頷きが返された。


 車庫まで進むところで、隣の時雨里家の方から歩いてきたのは美冬の同級生である智樹だった。


「こんにちはー。……って、もう夕方だった。こんばんはー」


「やあ、智樹くんだったか。お使いかい? 弟が生まれたんだったよな」


「そーなんですよー。ちっちゃくって可愛いんですー」


 その軽躁さは、美冬にとって癇に障るものだった。普段の智樹の言動から外れているためもあろう。平常時のこの少年は、年齢にそぐわぬ落ち着いた、動じぬ態度を保っている。


 発進した車を見送った智樹は、やや安堵したような息をついて、通りに出ていった。母親が弟を連れて産院から戻ってきたばかりだと聞いている。買い物にでも行くのだろうか。


 ふっと息を吐いて、再び西の空に視線を向ける。山肌が夕日を飲み込もうとするその時間帯の風景は、美冬の心象に近しいものとなっていた。



◆◆◆◆◆



 俺に弟が生まれた! 元の時代で姪っ子が生まれた時も感動的だったが、きょうだいとなるとまた別である。


 ……といっても、俺は肉体的にはともかく、精神的にはこの時雨里家に起源はない。その意味でも、俺以外の血脈を継ぐ存在が誕生してくれたのは、よろこばしいことだった。雅也と名付けられた小さき存在の前途に幸多からんことを。


 小学校一年生の男子なんて、本来は遊びたい盛りなんだろうが、後半は引きこもりだったにしても、俺は三十余年の人生を経てからの七歳児である。子育てに積極的に参加していることで、両親からはだいぶ恐縮されているが、実際問題として手はあった方がいいはずだ。


 まじめで良い子を演じているわけではないが、子どもらしい聞き分けのなさをことさらに再現する必要もまたないだろう。


 結果として、両親との間には穏やかな同志めいた関係性が生じていた。それもまた、弟の誕生でだいぶ変わってきてくれるだろう。


 町の小学校までは、なかなかの距離となっている。両親とは時間帯が合わないため、歩いて通っているのだが、幸いなことにそれほどの勾配はないため、のんびりとした通学路となっている。


 その日の朝も、時間ギリギリまで弟をあやしてから出発すると、爽やかな空気に包まれながら学校に向かっていた。


 と、後方から自転車の走行音が聞こえてきた。


「ともきくーん、おはよー」


 明るく声をかけてくるのは、隣家の姉妹のうち、明るい姉の方である。


「おはようございますー」


 頭を下げると、片手をハンドルから離して朗らかに手を振ってくる。対して、腰にしがみついている同級生の方は、しらっとした表情で目線をよそに向けていた。


 同級生だからといって、仲良くする必要性は特にない。そう割り切っている俺は、特に気にすることもなかった。


 ただ、いつもよりも抜かれる地点が学校から遠い。彼女らの方が時間に正確だろうと判断した俺は、緩やかな坂道を駆け下り始めた。




 教室に入ると、自転車で走り去った隣家の少女と、もうひとりの同級生が既に着席していた。


「よう、智樹。ぎりぎりだな」


 声をかけてきたのは、薙野孝志郎という名の人物である。


「おう、弟をあやしてたんでな。余裕で間に合うつもりだったんだが」


「計画性は大事だぞ。そんなことじゃあ、将来設計も甘いんだろう」


 こういう物言いは、どこで習得するんだろうか。俺が言うのも何だが、小学一年生らしさに欠けている。確か、保育園に通っていたとの話だったが……。


 俺自身の将来設計は、馬券での小銭稼ぎも含めて、わりと固まっている方だとは思う。何らかの会社を作って、競走馬を保有し、姪っ子のための騎乗馬を確保するのがゴールとなる。


 何らかの会社を作って、とか、世を去った後の継続性といったあたりが緩いのは確かだが……、まあ、なんとかなるだろうと思っている。成長産業に投資をするだけでも、ある程度の額にはなるはずだし。


「孝志郎は、なにになるんだ?」


「そりゃあ、いい大学に入って、いい会社に入るのさ」


 どや顔であるからには、本気の言葉なんだろうな。


「その流れを否定するつもりはないけど、なにか学びたい方向性、なりたい自分とかはないのか?」


「え……、いや、都銀とか、確実な企業に……」


 やがてバブルが弾けて、銀行も揺らぐ時代が来る。ただ、それを言ったところで、意味がないだろう。


「まあ、大学までの基本線はそれでいいのかもな。なにかやりたいことができてきたら、修整していけばいいんじゃないのかな」


「なにを偉そうに」


「偉いつもりはないさ。ただ、将来設計というのなら、俺の質問に即答できるまでに固めておいてもいいんじゃないか? もちろん、未確定なところは残るにしてもさ」


 孝志郎が唇を噛んだところで、担任の朱雀野先生が入ってきた。若い男性教師は、やる気に満ちすぎている面があるが、悪い人物ではない。


 そして、男子二人のやり取りに、もうひとりの同級生がジト目を向けてきていたのが、やや気になるところではあった。


 この地域では学年ごとに人数の波があるようで、一個上の二年生は十一人、三年生も七人いるのに対して、我らが一年生は三人のみとなっている。町の方まで行けば、もう少し人数がいるようなのだが。


 将来的には統廃合が行われるのかもしれない。まあ、それも時代の流れというやつだろうか。




 昼休み、男子の方の同級生が早々に席を立ったタイミングで、もうひとりが声をかけてきた。


「ねえ、あんた。もしかして、わたしのお父さんを騙して、利用しようとしている?」


 低く落ち着いた声での問い掛けに、俺は驚かされることになった。


「そんなつもりはないぞ。……どうしてそう思ったか、訊いてもいいかな」


「さっきの話しぶりと、うちの父さんと話しているときが、まるで違うから。うちの家族の前では、バカな男子を演じてるでしょ?」


 こちらにまったく興味を示していないように見えていたのに、意外な観察力である。年端も行かぬ子どもだと思って侮っていた面があるかもしれない。


 そして、もしかすると無意識に、頭脳は大人で見かけは子どもという先達に倣ってしまっていたのか……。


 ただし、「名探偵コナン」の連載開始はもうちょっと後だろうし、アニメはさらに後のはずだ。20周年とか言っていたのは、2016年頃だったろうか。


 ……そう考えると、俺の方が先取りしているわけか、なんて横道に逸れた思考から戻って、肉体年齢的には同い年の少女に向き直る。


「その傾向はあったかもしれない。だけど、どうして俺に直接訊くんだ? 疑いを持ったのなら、父親に警告する方が効果的じゃないか」


 俺の指摘に、少女は表情を歪めた。


「なんとなくよ。質問しているのはあたし。答える気はないの?」


「いや、すまん。答えるよ。君の父親の前で愚かな男子を装っていたのは確かだ。でも、利用するためじゃない。それは誓うよ」


「なら。どうして?」


「なんとなくなんだけど……」


「言って」


「悪口のようで気が引けるけど、利用されないように、だな」


「利用する価値があるの? あなたに」


「さあどうかな。……伝えるのなら、それでもかまわない」


「伝える意味もないでしょうね」


「そうなら、助かるよ。俺としては、両親に心配はかけたくない。なにしろ、弟が生まれたばかりでなあ」


 ふん、とでも言いたげに踵を返した彼女……、暮空美冬は教室を去っていった。




【平成三年(1991年)ダービーウィーク】


この年のダービーが近づき、暮空家ではその話題が増えてきていた。母親も年長の娘、遥歌も、生活圏に競馬の話ができる知己はおらず、興味は家庭内で増幅される形となっている。


 既にGⅠ戦線は進み、ダービー、菊花賞と並んで若駒の牡馬三冠レースとなる皐月賞は、往年の名馬シンボルルドルフの息子、カイトウテイオーが制していた。


 一方で、春の天皇賞では前年の菊花賞の覇者、メグロマックイーンが父系の三代制覇を成し遂げた。


 平成三強と囃されたコグリキャップ、ウルトラクリーク、イナリウノが揃って引退しただけに、停滞する時期が生じることも想定されたが、カイトウテイオーの騎手が三冠を達成したシンボルルドルフになぞらえて一本指を立てて記念撮影に臨んだこともあり、新たな時代の幕開けを予感させる空気は生じていた。


 美冬は、歴史的瞬間に立ち会っていることに興奮する母と姉に煽られるように、期待感を抱いている。対して、父親はどこか突き放したような見方に終止していた。


 異様な熱気の中で行われたダービーでは、強さを見せたカイトウテイオーが二冠を達成した。


 さすがにこれは、家庭の外でも共有できるのではないか。そう考えた美冬は、同級生二人にダービーについての話題を振ってみた。


 薙野孝志郎は、競馬なんてギャンブルだろう? と応じて話を終えた。対する時雨里智樹は、カイトウテイオーの二冠を称賛しつつも、怪我をしていないといいね、と言及した。


「あの走りっぷりに、怪我の気配はなかったでしょうに。菊花賞から春の天皇賞を制したメグロマックイーンと、三冠を達成したカイトウテイオーの年末の対決が今から楽しみなくらい」


「あー……、マックは秋には……。そうか、マックイーンとユウサクの俳優馬券のときか。少しくらい馬券を買えないかな。大人の協力者を確保したいとこなんだけど……」


 後半は口中のつぶやきになっていて、美冬の耳朶には意味のある音声として到達しなかった。


「なら、あんたはカイトウテイオーに三冠は無理だっていうの?」


「無事に行けたら、だよね。んー、でも、距離がどうなのかな。同世代ならどうにかなってたのかな」


 後半は、また口中でのつぶやきのレベルまで低下していった。


 なんて否定的なやつだ。もう競馬の話なんてしてやるものか。そう心に決めた美冬は、同級生との対話を打ち切ったのだった。



◆◆◆◆◆



 俺に競馬の話をしてきた女子生徒が沈黙すると、今度は男子の方の同級生が口を開いた。


「こないだの話なんだけどな。行くからには、一番上の、東大を目指したい。そこでなら、きっと目指したいものが見つかると思うんだ」


 確かめるような視線を向けてくるからには、真摯に応じるべきなのだろう。


「高みを目指すのはいいことだと思う。……東京に出て学びながら暮らすのは、費用がかかりそうだけど、その当てはあるのかな。余計なことだけど」


 この人物の家が母子家庭であることは、世事に疎い俺でも聞き及んでいる。


「奨学金を獲得すればだいじょうぶだ。それを狙っていく」


「給付型でないと、将来を縛られることになりかねないらしいぞ」


「……なんだって?」


「奨学金には、給付型と呼ばれる、そのまま受け取れるものと、そうじゃないものがある。給付型でなければ、要するに借金だから、働いて返さなきゃいけないんだ」


 奨学金の運営者の過酷な取り立てぶりは、いずれ社会問題となる。夢みたいなことを謳っていながらも、結局のところはただの金貸しなのだから、ひどい話ではある。最初からそう明言していればよいのに。


「返せばいいじゃないか」


「ただ……、大学を卒業する頃に景気が良いとは限らないだろ?」


 長野にもバブルの風は吹いているのだろうが、小学一年生では実感はない。俺らの世代が大学を卒業する十六年後には……、2007年か。リーマン・ショックはもうちょっと後だっただろうか。留年はしないとしても、留学やら修士課程やらで、ずれる可能性はある。


「ちゃんと就職すればいいんだろう?」


「そこで、違う分野を学びたくなったりするかもしれんぞ。どうせ上を目指すのなら、同時に給付型奨学金も狙ってみるといいんじゃないかな。……でも、リーマン・ショックの前にはITバブルがあるのか。その辺は、興味なく過ごしたからなあ」


 後半は理解されるはずもない言葉だったので、天井を見上げながらのつぶやきとなった。


「変なやつだな……。まあ、考えてみるよ」


 自分と関係ない同時代史なんて、興味を持つ方がどうかしている。その考え自体は変わっていないが、もしも今くらいに新聞を読んでいたら、もうちょっと色々と楽ができたかもしれない、というのは確かだった。


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