【平成四年(1992年)】
【平成四年(1992年)正月】
前年末の有馬記念では、メグロマックイーンがビッグユウサクにまさかの敗北を喫した。
そのマックイーンは、春競馬の締めくくりとなる宝塚記念では僚馬のメグロライアンの2着となり、秋の天皇賞では1着入線ながらも18着に降着し、ジャパンカップでの敗北は仕方がないにしても、春の天皇賞以降はまさかの無勝利に終わった。
カイトウテイオーはダービー後に骨折が発覚して三冠は夢と消え、春の時点で主役と思われた二頭にとっては不本意なシーズンとなった。これも、あいつの悪い予言のせいだと、美冬は八つ当たり気味な思いを抱いていた。
一方で、暮空家ではめでたいながらも、厄介ごとの芽もはらんだ事象が生じていた。
「おめでとう、お姉ちゃん」
「美冬、ありがとう。でも、お金がね……。奨学金は出るんだけど、家賃や生活費もあるし」
「奨学金……って、きゅーふがた?」
「ううん、違うの」
「そうなんだ」
妹の発言を訝しんだ遥歌が、やや声のトーンを落として問いを発した。
「そんな言葉、よく知ってるのね。……どういう意味だかは知ってる?」
「うん。そうじゃなければ、借金だから将来を縛られるとかなんとか」
「誰が言ったの? ともきくん?」
「うん。そう……」
「そうならないように、就職をがんばるから」
「あら、なんの話?」
「隣のともきくんがね、給付型じゃない奨学金は借金だから、将来を縛られるって言ってたんだって」
「あなたの話を知ってたの?」
首を振って応じたのは、美冬だった。
「ううん、こーしろーの将来設計について、そう言ってた」
姉妹の母親は、頬に手をやって首を軽く傾げた。
「……ともきくんは、まだちっちゃいときにベルリンの壁崩壊のニュースを食い入るように見ていたらしいのよね。で、これが冷戦の終わりだとか感動していたようだし、ちょっと変わった子なのは確か」
「ふーん、一度ちゃんと話してみようかな」
「でも、変なヤツよ。テイオーやマックイーンの悪口ばかり言うし」
「それはちょっと感心しないわねえ」
そこで父親が起きてきたために、話は沙汰止みとなった。娘の進学関連の出費に苛立っているその人物の前で、隣家の少年の話題が出ることはなかった。
【平成四年(1992年)5月】
三月までは姉の自転車で通っていた道を、美冬は隣家の少年の背に負われて進んでいる。彼女の小柄さもあって、傍目にはいくつか年長の兄が妹を背負っているように映るだろう。少女の気恥ずかしさも一ヶ月も経つとすっかり薄れて、日常に組み込まれていた。
姉の大学進学が、この事態を招いたわけだが、こうなるまでには紆余曲折があった。
美冬の母親は、平日は朝早くに仕事に出て、遅くに帰る生活なので、早朝に送るのならともかく、帰りの対応は難しい。
父親は夜の仕事で、早朝に帰宅する生活となっている。夕方の出勤前に迎えに行くことは時間的には不可能ではないのだが、当人によって示された難色に妻も同意する形となった。
行きは母親の車で早朝に、帰りは歩きでという形で落着しかけたが、本人が帰りの上り道を半分も踏破できなかったために、紛糾する展開となる。それを聞きつけた智樹が、両親経由で一つの提案を投げ込んだのだった。
抵抗する美冬をよそに、隣家の少年の発言は、当初は苦笑していた暮空家の年長者達に響いていった。
そして、智樹は当人には小声で事情を説明したのである。曰く、自分のことをいいやつなんだと思いたいため、そして周りによく思われたいために利用したいだけなんだ、と。
だから、恩に感じる必要はまったくないので、利用されてくれないか。そうまで言われて、しかも家族の歓迎ムードも踏まえると、腹立たしいながらも美冬は頷かざるを得なかった。
小学二年生同士で、しかも背負う男子の側は前世の記憶持ちとなれば、性的な意味合いは生じるはずもない。
それでも孝志郎はからかいの対象としてきて、美冬を憤慨させることになった。
小学生低学年の男子なんて、あんなもんだろうと口にした智樹に、あんたも小二の男子でしょうにと彼女は返した。対して、当人はそうだったと穏やかに笑ったのだった。
通学路を行き来する間には、ある程度の会話は成立するようになってきていた。
時は春。四月の終わりである。美冬は、もう一度試してみようとの心境になっていた。
「だから、カイトウテイオーとじゃ、役者が違うと思うの。怪我がなければ三冠馬だったわけだから、別格でしょ?」
話題は、週末に開催される天皇賞・春についてである。
「まあ、元気だったらライオンダーバンには勝ってたかもなあ。ただ、メグロマックイーンの菊花賞と天皇賞も強烈だったし。長距離適性では、マックの方が……」
「伝説になる馬と、そうじゃない馬だと話は違うと思うんだけど」
「春天以降のマックは、確かにレジェンドって感じじゃなかったけどなあ」
応じる智樹の歯切れは悪い。
「あんたに競馬のなにがわかるのよ」
美冬自身には牧場で暮らした経験はないが、馬に触れてきた家族が揃ってテイオーにめろめろであるため、すっかりファンになっている。同調しない同級生の態度は、苛立ちの誘因となっていた。
「確かに、本質は理解していないと思う」
智樹がそう答えたとき、校門が目の前にやってきた。ここで背中から降りるのが、いつもの流れである。
素軽く駆け出していく少女を、背負ってきた隣人が苦笑を浮かべつつ見やっていた。
「……天皇賞は、メグロマックイーンの連覇だったわね」
週明けの登校時、顔を合わせてからしばらくの時間が経過したタイミングで、美冬がやや気まずそうに切り出した。
「だなあ。でも、カイトウテイオーも、距離こそ合わなかったけどいい走りだったんじゃないかな? 秋には、きっといい走りを見せてくれるよ」
「勝者の余裕ってやつ?」
「勝者? 勝ったのはメグロマックイーンだろ? 馬券も買ってないし」
本気で言っている様子であるのが伝わったことで、美冬の苛立ちは強くなっていた。単勝で二倍を切る一番人気に推されたカイトウテイオーは、メグロマックイーンに敗れただけでなく、5着に終わった。
「あんたは……、なんで競馬のことを知っているの? うちは、みんなでテレビ中継を見ているからだけど」
「えーと、ぼくもテレビで見たりですね。新聞で少々ですとか……」
「ふーん」
美冬は、隣家の夫婦の姿を思い浮かべた。なんとなく、競馬好きには見えないな、と考えながら。
ちょっと慌てた様子で、智樹が話題を転じさせた。
「それはそうと、皐月賞を勝ったミノノブルボン、調教がすごいらしいね」
動揺しておかしくなっていた言葉遣いは復旧している。
「ダービーも人気よね。三冠に届くかなあ?」
「うーん、菊はどうだろうね。やっぱり、二千メートルと二千四百メートルはともかく、三千メートルは別競技だからなあ。……まあ、全部がスピード系統になっちゃえば、その中での争いってことになるんだけど、それも健全じゃないんだよなあ」
ぶつぶつとこぼしている同級生に、美冬は胡散臭げな視線を向けるのだった。
【平成四年(1992年)年末】
有馬記念が終わると、一年も暮れるという実感が湧いてくる。中央競馬はこのあと、一月五日の金杯まで休みに入る形になる。その間は、地方競馬を含めた別の公営競技の稼ぎ時となるのだった。
弟がついに立ち上がったが、まだ一歩は踏み出されていない。記念すべきはじめの一歩が誰に向けての歩みとなるかで、両親と俺とのつばぜり合いが生じていた。まあ、実際には食べ物なりテレビなりに向かっていきそうだけれど。
この年の競馬界では、ダービーも制したミノノブルボンが三冠に挑むも、フラワーシャワーに阻止されるという劇的な展開が生じ、また、天皇賞・秋で敗れたカイトウテイオーが、この年から国際競走となったジャパンカップを制するというドラマも生まれていた。
締めくくりの有馬記念では、ジャパンカップを制覇からの流れでカイトウテイオーが一番人気に推されていたが、十一着と敗れている。
それもあって、メグロパーマーが大逃げを打ち、レジェンドワールドの強襲をハナ差でしのぎ切るという波乱の展開となった。馬連しかなかったこの時代の三万馬券は大きい。買いたかった……。
休養入りしているメグロマックイーンだけでなく、メグロパーマー、メグロライアンなどの、メグロ華やかなりし頃となる。
今回の万馬券も手を出せなかったわけだが、やはり小学校低学年の身で馬券を買うのは困難である。誰か、自由に使える大人がいればいいのだけれど……。両親には、とても頼めそうになかった。
父親の方は、上田市役所からの上田競馬繋がりもあるはずなのだが、競馬を全否定こそしないものの、だいぶ敬遠している様子である。
まあ、俺の競馬知識は、もう少し後の方が明度を増しているはずだし、今後は馬券も増えていくわけだし、焦ることもあるまい。
「ともきー、ちょっと手伝ってー」
「はーい」
どうやら、おせちの準備が進んでいるようだ。この甘い香りは、きんとんづくりに突入しているのだろうか。さつまいもの裏ごしなら任せてもらおう、というくらいにここ数年は連続して担当している状態だった。
元の母親は料理面では、お世辞にも腕が立つ方ではなかったが、こちらの母親は料理が上手でご飯がおいしい。この調子だと、発育はさらに良くなって騎手向きの身体ではなくなるだろう。まあ、競馬学校で前世の俺と同期入学などすると、あっさりと干渉度が限界を超えそうなので、問題はない。
地方競馬の騎手になるという手もあるのだが、最終的な目標である姪っ子の騎乗馬確保からすると、あまり噛み合う進路ではなさそうだった。
テレビでは、今年のヒット曲がダイジェストで流されていた。「君がいるだけで」「島唄」「悲しみは雪のように」「決戦は金曜日」などが流れていたが、小学生的にはやはり「ガラガラヘビがやってくる」を推すべきなのだろう。小学校に上がって、お遊戯をしなくてよかったのはなによりである。
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