【平成元年(1989年)~平成二年(1990年)】


【平成元年(1989年)晩秋】


 転生前の記憶が像を結び始めたのは、四歳の頃だった。それから一年ほどが経過した今では、すっかり元の人格が定着している。


 新たな俺の名は、時雨里智樹(しぐれさと・ともき)。現在は、二年後に小学校入学を控えた、いわゆる年中と呼ばれる年代にある。


 本来のこの人物の意識は、初期から感知できていなかった。あるはずだった人生を俺が押しのけることを、あの女神が許容するとは思えない。そう考えると、生まれてこないか、あるいは早逝するはずの人物だったのかもしれない。検証のしようはないけれど。


 智樹としての俺が生まれたのは、長野県の佐久平と呼ばれる地域で、戦国時代には真田一族が活躍した地域らしい。


 のどかな土地だが……、のどかすぎて馬券が買えないどころか、競馬に触れづらいという問題があった。


 俺がこの時代に持ち込めたのは、競馬知識くらいである。転生前に果たせなかった騎手になる選択肢は、生きられる時間が元の死亡時……、令和の初頭までと考えると、避けた方がよいだろう。その時点で、五十、六十であるなら、調教師になって姪っ子を受け容れる素地を作る手もあったのだが、三十四歳ではそれも厳しい。


 そう考えれば、女神の許容する範囲で馬券を買って儲けて、騎乗馬の確保を目指すのが早道であろう。それが、このやり直しの平成の世での俺の目的だった。この年の一月六日に昭和天皇が崩御し、七日から平成元年が始まっている。


 佐久平からだと、中央競馬の競馬場までは遠いが……、ここからもっとも近い地方競馬場としては、上田競馬場がある。日本の競馬は、農林水産省傘下の組織が運営する中央競馬と、地方自治体が独自に運営する地方競馬に分かれる。上田競馬は長野県唯一の競馬場で、確かバブル崩壊後の地方競馬がばたばたと倒れていった時期に、ひっそりと幕を閉じたはずだ。


 訪れたこともなければ、所属馬もまったく記憶にないため、元時代の知識は通用しない。それだけに楽しめそうなのだが、いかんせん、上田まで行くための足がない。現時点での地方競馬ライフ満喫は、あきらめるしかなさそうだった。


 父親は上田市役所で働いていて、母親は看護師であるため、俺は一人で留守番をするのが日常だった。家にある本や新聞が読み放題なのは助かるところとなる。


 この時点では、スマホはもちろん、家庭向けのコンピューターは、MSXというちゃちな規格のものについてちらほらと話を聞く程度で、インターネットも普及していない。紙に頼るにも、図書館まではだいぶ距離があり、五歳の幼児の身での往来は現実的ではない。好みのジャンルばかりではないが、本棚が埋まっているのは歓迎すべきなのだろう。


 箱型のテレビの中では、光GENJIがローラースケートで踊り狂いながら「太陽がいっぱい」を歌っていた。存在こそ知っていたものの、じっくり聴いたのは初めてだった。なんともいい曲である。


 そして、この時代には、地上波のゴールデンタイムに巨人戦が流れているのにも驚かされた。父親が巨人ファンなので、よくチャンネルが合わせられているのだった。


 Jリーグ草創期だけに、サッカーの中継もたまに行われている。現地観戦かネット視聴が基本になる平成末期とは、環境の違いが際立っていた。まあ、それは野球も同様か。


 前世では、野球にはほとんど関心はなかったが、ブラウン管の中の巨人は、阪神タイガースと横浜大洋ホエールズに滅法強かった。


 ……ただ、暗黒時代のはずの阪神より、大洋の方がより低迷しているようだ。暗黒の下って、なんなんだろう? 漆黒? そして、他のチームは球団の保有会社の名で呼ばれているのに、なんで巨人だけ読売じゃなくて巨人と呼ばれるんだ? その程度の野球知識であるので、逆に新鮮だとも言えそうだ。


 ダンプから助け出した赤ん坊が、阪神柄のベビー服を着ていたのが印象に残って、なんとなくタイガースを応援するような心境になっているのだが、なかなかに弱い。お気に入りの選手は御子柴投手で、いい仕事をしていると思うのだが、勝利には結びつかないのがせつないところである。


 まあ、確か2000年くらいまでずっと暗黒時代のはずである。応援する甲斐もなさそうなだけに、生暖かく見守るとしよう。


 そして、この年の日本シリーズでは、巨人に三連勝した近鉄バッファローズのピッチャーが、「巨人は(最下位の)ロッテより弱い」と発言して、巨人の選手を発奮させ、四連敗するというドラマが生まれていた。この件は、史実としては把握していたが、生で見るとなかなかに盛り上がった。


 土俵際からの逆転優勝に父親が小躍りするさまは、なんだか微笑ましかった。




【平成二年(1990年)春】


 かねてより幼稚園に行かせるべきか、との話は出ていたのだが、俺は必要ないと主張を続けていた。元時代の感覚がある中で、お遊戯やお絵描きを楽しめるはずもない。ましてや、上田まで出るのでなければ、人数はごく少ないらしい。


 そのはずだったのだが……、隣に越してきた家族に同い年の娘がいたために、一緒に通わされることになってしまった。なんと間の悪いことか。


 お隣……と言っても少々離れた立地となる暮空家は、陰のある父親と明るい母親に、姉妹二人という家族構成である。高校生である姉の方は朗らかな美人であるのに対して、俺と同い年の妹はやや病弱でおとなしい性格のようだ。それだけに、引っ掻き回されることもなさそうではある。


 いざ通い始めると、わりとのどかで放任モードであることに安心すると同時に、意外な収穫があった。その幼稚園では、園長が日経……、日本経営新聞を購読していたのである。


 時雨里家では新聞は地元紙の長野毎朝新聞だけとなる。地方では単に新聞と言えば地元紙を指すとの話は聞いていたので、そこに文句はないのだが、競馬についての情報はごく少ない。


 一方で、日本経営新聞はなぜか伝統的に競馬に関する情報がやたらと詳しく、下手をすればスポーツ紙よりも質的に勝る場面すらありそうである。


 とはいえ、六歳児が日経を読みたがるのもおかしな話である。俺は月曜日ごとに、新聞で馬の写真が見たいと理由をこじつけて、土日の紙面を借り受けることに成功していた。


 この頃の競馬界での歴史的なできごとや、血統的な流れの概略は頭に入っているけれども、さすがに毎週の動きまでは把握できていない。これまでの知識に血肉が通うようで、非常に楽しい時間となった。


 この年は、コグリキャップ、ウルトラクリーク、イナリウノの平成三強対決で盛り上がりかけたのだが、それぞれが故障を抱える形で、直接対決としてはいまいちうまくはまらず、といった状態となるはずだ。


 晩秋のこの時点では、安田記念で復活したと思われたコグリキャップが再び精彩を欠く展開となっている。未来を知る俺は、引退レースとなる有馬記念で有終の美を飾る、コグリ伝説の大団円に向けた流れだと知っているが、世間では終わった馬扱いしたがる者も多くいるようだ。


 重賞レースの回顧記事を読み返していると、ご近所さんの少女……、暮空美冬が近寄ってきた。


「ねえ、競馬に興味があるの?」


「いや、馬がね。綺麗だから」


「ふーん」


 ちらりと目をやってきた紙面は、折りたたんでいたことから文字しかなかった。いかんいかん。


 そんな話をしていたら、他の園児が「おどるポンポコリン」を歌い始めた。まあ、耳に残るよな。それは仕方ない。


 そして、どうやらお遊戯で歌に合わせて踊らされるらしい。そういうことなら、きっちりと踊りきってみせるとしよう。



◇◇◇◇◇



 暮空美冬にとって、東京からの引っ越しは本意ではなかった。自分の体調と、父親の事業がうまく回っていないことが重なり合っての転居なのだが、山村に近い土地は、都会に比べて刺激が少ないのは間違いない。


 いや、実際には別の楽しみようがあり、智樹は脳内で文句を並べながらもわりと田舎生活を満喫している状態なのだが、美冬はその心境にはなかった。


 田舎には山猿のような子どもしかいないだろう、というのは、転居を知った同じ幼稚園の級友が、母親に植え付けられた偏見を、心配の念として伝えてきたものだった。判断材料を他に持っていなかった幼い美冬は、そういうものかと捉えていた。


 それだけに、なにやら取り澄ました雰囲気の隣家の少年が、彼女には胡散臭い存在として感じられていたのだった。


 競馬に興味があるのなら、少しは話が成立するのかとも思ったのだが、なにやら記事を読んでいるふりをしていること、そしてそれを隠そうとしているようである気配に、相手にする気が失せたというのが実情だった。


 この時分は、アイドルホースだったコグリキャップが天皇賞・秋、ジャパンカップと二戦連続で敗戦し、しかも明白に調子を落としていたために、このまま引退すべきとの声が強くなっていて、暮空家でも話題に上ることが多い。


 ただ、この幼稚園で年長組は二人だけで、年中、年少と合わせての活動が多いことから、美冬は自然と同級生と二人セットで扱われる場合が多い。その相手が大人からの指示はそつなくこなすところが、また美冬には疎ましく思えるのだった。


 そして、お遊戯で「おどるポンポコリン」を踊らされるとなっても、動じない様子もまた憎たらしい。


 せめて、「鉄骨娘」のダンスくらいにしておいてくれないだろうか。そんな美冬の願いは、かなうことはなかった。


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