【Web版】平成転生 馬事累々 ~馬好き引きこもりの二周目平成渡世 転生したら平成だったので、のんびり競馬を満喫しようと思ったのだが~

友野 ハチ

【序章】


 競馬が人生に似ているんじゃない、人生が競馬に似ているんだ、とは誰の言葉だっただろうか。


 俺の人生を競馬になぞらえれば、入厩直後に予後不良と診断されたようなものだった。いや、調教中の事故による競争能力喪失か。


 足が思うように動かなくなったために騎手の夢が絶たれ、入ったばかりの競馬学校を去らざるを得なくなっても、他に道はあることになっている人間が殺処分されはしない。けれど、俺は結局のところ、絶望の海から抜け出せなかった。


 動画の切れ目でモニターが暗転すると、ほの明るく照らされた自分の顔が映る。頬の辺りが少したるんできているようでもある。このところ食べ過ぎかもしれない。


 階段から転げ落ちる原因を作ったあいつに、恨みがないと言えば嘘になる。けれど、俺の心は自分が失った未来……、いや、既に半ば過去ではあるが、そちらに向かいがちだった。薄暗い部屋では、抑え気味のモニターの明かりが輝いて見えている。


 競馬学校を辞めた後、改めて高校に入り直す気にもなれず、俺は家に閉じこもった。それでも、ネットを開けばついつい競馬の情報を追ってしまい、いつしか予想に没頭するようになった。そして、二十歳を過ぎる頃には、そこそこに安定して稼げるようになっていった。


 それから十数年が経過し、つい先日に元号が平成から令和に切り替わった今でも、馬券で勝負しているのは変わらない。加えて予想サイトも運営して、そこそこの収入を得られてもいた。


 塞ぎ込んだ息子を心配しながら相次いで亡くなった両親の遺産で、古いけれどがっちりしたマンションの一部屋を購入し、残った金と馬券での稼ぎでなんとか生活はやっていけていた。今後も、そのはずだった。


 だが、どうしてもまとまった金が必要になった。そう、姪っ子のためである。


 ずっと味方でいてくれた姉さん。食事を絶って死のうとした俺に、無理やり粥を喰わせながら泣いてくれたその人物も、事故に遭って死んでしまった。遺された旦那はどうでもいいとして、母親を失った娘は不憫だった。


 そして……、彼女は叔父である俺になついてくれていた。姪っ子との交流がなければ、姉が心を残したはずの存在を見守るという目的がなければ、俺は今日まで生きて来れなかったかもしれない。


 俺がかつて騎手を目指し、挫折したことは母親から聞かされていたのだろうか。理由はどうあれ、彼女が騎手を目指すと聞いて、俺の世界は再び彩りを取り戻したように思えた。


 押し付けにならない範囲を探りながら、俺は短かった騎手候補生時代の経験と、そして夢破れてから無限に繰り返してきた、自分が無事だったらどうしていたかの検討結果を伝えてみた。


 技術面はもちろんだが、騎手は結局のところ人と交流し、信頼を得ていくのが重要である。エージェント制度が広まって、やや状況は移ろっているとしても、本質は変わらない。


 人の懐に入り込んでいく技術は最低限である。そして、先達への敬意を示すため……、年上の人々に阿るためのツールとしての、過去競馬知識、競馬に関連する映画や小説、まんが、ゲームといった作品に触れること、年配の人との共通言語としての古めの流行歌、野球知識、エトセトラ。


 総てでなくても取り入れられればと思ったのだが、彼女からすると亡き母親の生きた時代に重なったこともあり、わりと抵抗なく受容したようだった。


 姪っ子の風香は幸いにして、体幹もバランス能力も、時間把握能力にも優れていた。後は競馬学校に入学できれば、少なくともチャレンジはできる。そのはずだった。


 ネックになったのは、片親となっていた父親が急死してしまったことだ。自殺ではなかったようだが、早い死なのは間違いない。


 両親を亡くした喪失感は大きかっただろうが、それ自体が騎手への障害となったわけではない。亡き父親が事業で失敗した借金を相続してしまったのが、深刻な問題なのだった。


 手っ取り早いのは自己破産だが、破産状態にある人間が、公正さを鋭く求められる騎手として適性があるとは、なかなか判定してもらえないだろう。


 競馬学校は食費以外無償ではあるものの、借金を背負っての入学は許可されない可能性が高い。となると、入学前、いや、願書を出す前に借金を清算する必要があった。




「たっくん、話ってなあに?」


 俺のことをそう呼ぶのは、姪であるこの娘くらいである。駅前の喫茶店は、ほどほどの混み具合となっている。店内には、控えめな音量でアニメ「鬼滅の刃」の主題歌「紅蓮華」が流れていた。


「競馬学校の願書、準備したよな」


「一応したけど……、でも、借金が」


「すまなかったな。俺に法律の知識があれば、相続放棄するように助言できたんだが」


「ううん、それは父さんのせい。でも、父さんだって、わたしに引き継がせるつもりなんかなかっただろうし、誰が悪いわけじゃないの」


 可愛い姪にこんなあきらめたような声を出させているようでは、叔父の名折れというものである。


「なんとかするようにがんばってみる。だから、もしもうまくいったら、風香もがんばってくれよな」


「うん。それはもちろん。でも、どうやって」


「馬券で勝負だ」


「なんですとーっ? いくらたっくんが凄腕馬券師だからって、それは無理だと思うけどなあ」


 素っ頓狂な驚きぶりは、母親譲りである。


「やってみなきゃわからないでしょ、だろ?」


「あはは、母さんがよく言ってたよね。うん、わかった。期待して待ってる。……でも、騎手になれなくても、馬に関わる仕事を探そうと思ってるから、あんまり無理しないでね」


「ああ、もちろんだ」


 ここで無理をせずにどこでするんだ。ほにゃっと笑う姪っ子の頭を撫でながら、俺は決意を固めたのだった。




 競馬学校の入学願書の締切が間近に迫った週末に、俺は宣言どおりに大勝負に打って出た。


 普段は、中央競馬はネット投票専門だが、大金を確保することを視野に入れれば、競馬場に赴く必要がある。


 なにも、開催中の競馬場である必要はない。競馬をやっていない競馬場は、場外馬券場として機能する形となる。既に春の大レースが連続する時期は過ぎ、関東での開催は行われていない。


 競馬の一年は、晩春のダービーで終わる。ダービーとは、数ある大レース……、GⅠレースの中でも、特別なレースなのだ。格だけなら、天皇賞や有馬記念、ジャパンカップなどもある意味で同等だが、ダービーは若駒の時期に一度だけしか出場できない、世代の頂点を決めるレースなのである。喩えるなら、野球の甲子園が一発勝負で行われる、といったところか。


 令和最初のダービーは、本命馬にアクシデントが生じた影響もあってか、単勝オッズが100倍に近い穴馬、ロジェバローズが最内から先行して押しきった。単勝万馬券になりそうな穴馬さえが、サンデーサイレントの系譜に繋がる大種牡馬、ディープインパクツ産駒なのだから、彼らの影響力は凄まじいと言えるだろう。


 ダービーが済み、上の世代も走る幾つかの大レースが終わった後、夏競馬と呼ばれるやや穏やかな時期がやってくる。そして、そこでは、ダービーを目指してきた若い世代が、年長の馬たちと初顔合わせをするレースが増え、予想者の眼力が試される場となるのだった。


 これまでの予想者人生で培ってきたノウハウを振り絞って、俺は日曜日の最終レースに出走するうちから三頭を選びだした。トマトソースとペペロンチーノ、ミントスムージーという、偶然ながらうまそうな名前の馬たちに、命運をかけることになる。


 馬券の方式は色々あるが、一着から三着までを順不同で当てる三連複と、順番通りに的中させることが必要となる三連単が花形となる。人気薄のその三頭で決まってくれれば、姪っ子が相続してしまった借金を完済できる。


 これが、俺のプランAだった。


 ただ、さすがに三頭で勝負するのはきついとも思えたので、やや人気のあるもう一頭、パンドラボックスを絡めての勝負とした。


 三頭で決まれば、得られる配当は返済額を大幅に上回る計算になる。パンドラボックスが絡むとぎりぎりだけれど、その程度ならば、借金する余地はあるだろう。たぶん。


 そう考えながら、場内に配置されたモニターで、当該レースの配当を眺めていたら、ある瞬間に三頭の配当が急激に下がって、焦らされる局面があった。


 ただ、その後にはやはり人気馬に投票が集中したようで、安全圏まで戻っていった。


 定刻から遅れること数分、録音されたファンファーレが場外馬券場となっている競馬場に鳴り響き、モニターの中でレースがスタートした。


 手に汗を握って念じる間、俺は姉さんと赤ん坊だった姪っ子の姿を思い浮かべていた。最後のコーナーを先頭で回ったのは、ペペロンチーノ号だった。そこまでは、予想通りである。


 短い直線で追いすがる後続馬群の内側から、ミントスムージーがややズブい脚色ながらも、着実に抜け出してくる。そして、大外を回って突っ込んできたのは、トマトソースだった。


 三頭が完全に抜け出して、俺は神様の存在を都合よく信じそうになる。感謝の言葉をつぶやいた時、ペペロンチーノ号の右脚がおかしな動きをした。危ないと声が出たときには、既に転倒していた。そこにミントスムージーが巻き込まれ、トマトソースは驚いて斜行し、騎手が転げ落ちた。


 場内が騒然とする中で、先頭でゴール板前を駆け抜けたのは、パンドラボックス号だった。




 プランAが不首尾に終わったからには、プランBを選択するしかない。このときのために、既に高額の生命保険を契約済みである。俺の身になにかあった場合に、遺書が姪っ子に届く手筈は整えてある。係累からの遺言を、姪っ子は実行してくれるだろう。保険金がすぐに支払われるわけではないにしても、借金と相殺できる目処さえ立っていれば、どうにかなる。そう思いたい。


 ただ、自殺では支給が確実じゃないし、姪の哀しみがより深くなるだろう。であるならば、殺されるのがよい。そう考えて、一応の目星はつけておいた。


 呼び出したのは、かつて冗談半分に自分の背中を押し、不具になる原因を作った元同級生である。


 そいつが、息子を溺愛しているのは調査済みである。その子にかつての父親の所業を知らせると告げれば、あの時と同じように突き飛ばしてくれるのではないか。それが、俺の期待だった。場所も選び抜き、意図的に転げ落ちれば、死亡の確率が高い段差に到達できる坂道も選定している。


 首尾よく呼び出したのだが、夕暮れの風景の中で、そいつの意外な姿を見せられることになった。すまなかったと、羨ましくなって、からかい半分で押してしまったのだと泣きながら、息子には自分から話して、警察に自首すると言いながら土下座されてしまう。俺の目に、涙が滲んだ。


 ひどいじゃないか。ちゃんと、あの時みたいに突き飛ばしてくれよ。俺だけが昔のままだったっていうのか。


 この悔やみようだと、もっと早くに文句を言いに向かっていたら、平身低頭に謝られていたのかもしれないとまで思えてくる。謝罪が欲しいわけではない。だけど。


 殺してくれないのなら、相手にする必要はない。少なくとも今は、そんな余裕はない。


「いや、もういいよ。子どもに言う必要はない。ちょっと、競馬で負けてむしゃくしゃしてな。からかってみたくなっただけだ。まあ……、なんだ、幸せにな」


 俺はそれだけ告げて、その場を逃げるようにと立ち去ったのだった。




 プランAが失敗し、プランBも完遂できずに終わった。


 どうすべきだろう。自殺では、保険金の支給が確実ではない。となると、事故死できる場所が必要となる。けれど、そう都合よく事故に遭遇できるはずもない。


 当てもなく街道沿いを歩いていると、遠方からなにやら衝突音が聞こえてきた。トラックが、なにかにぶつかったらしい。


 けれど、そのまま速度を落とさずに進んでいる。長い引きこもり生活を経ても、なぜか衰えていない俺の視力が、運転席で白目を剥いている男の姿を捉えた。


 そして、俺の後方の横断歩道には、ベビーカーを押した若い母親の姿があった。トラックの姿を捉えて竦んでしまったのか、動けずにいるようだ。


 俺の脳裏から、生命保険の件はすっ飛んでいた。


 足よ、動け。びっこを引きながら、最大限の速度でそちらに向かう。


 碌に走れないはずの足が、何かが噛み合ったような感覚になり、数歩だけ駆け出せるような動きとなった。このところの肥満進行の影響かもしれない。


 親子のところにたどり着き、突き飛ばす。


 ……間に合った。思っていたほど衰えていなかった動体視力と反射神経に感謝しながら、俺は赤子の産着が縦縞のユニフォーム姿であるのに苦笑めいた感覚を抱いていた。


 そして、俺の視界はトラックでいっぱいになった。


 ああ、神は最後で俺を見捨てないでくれた。これで、生命保険が姪っ子に入る。マンションも処分すれば、九千万だったかを返してなお、手元に多少は残るはずだ。神への真剣な感謝の祈りを捧げ終えると、衝撃と激痛と断絶が、俺を包み込んだ。




 目を開くと、そこには白い世界が広がっていた。そして、なにやら穏やかな顔の女神が、こちらを見つめていた。


 女性であることはひと目で分かるが、どうして女神だと判断したのか、自分ではわからない。けれど、それは俺の中では確定的な事実であった。


「……ごめんなさいね、あなたが賭けていたあのレースでの競走馬の事故は、こちらの都合だったの。本来なら、あなたは配当を手にして、死ぬ必要はなかった」


「そうだったのか。……でも、結果は良かった。あの死に方なら、生命保険は間違いなく下りて、姪っ子は借金を清算して騎手への道を踏み出せるはずだから」


 心残りは、風香の騎乗姿が見られなかったことだが、それは仕方のないことだろう。


「埋め合わせというわけではありませんが、あなたに新たな人生を与えましょう」


「異世界転生ってやつか? チート能力もらってハーレムでうはうはみたいな。ただ、ハーレムとかめんどくさいから、穏やかな人生を送りたいな」


「あの……、そういう夢みたいな話ではなくってですね。この世界で、地球で生まれ変わりをするということです」


「それもまた、充分に夢のような話なんだが。……まあ、風香が騎手として活躍する姿が見られるなら、それもいいな」


「いえ、未来には……、今日以降には今回の生まれ変わりは及ばないのです。あなたの誕生日時以降のどこかの時点を指定してください」


「俺の人生を変えられるってことか? 記憶は保持されるのか?」


「記憶は保持されますが、元の自分や知り合いに影響を与えることは制限されます。干渉度合いが一定値を超えると、抹消されます」


「一定度合いとは?」


「そうですね。前世の自分に連絡をとって自分の知識を伝えたりしたら、一発でしょう」


「姪っ子に、父親の財産を相続放棄するように伝えたりとかは?」


「同様でしょうね。また、元の知識を使って、故意に歴史を変えようとすることも同様です」


「その点は心配ないと思う。競馬以外にほとんど興味を持ってこなかったから。……馬券は、買っていいのかな」


「程度によります。結果を記憶しているからと言って、あるレースに数億円投入したら、話は変わってくるでしょう。でも、まあ、ある程度まででしたら」


「バタフライ効果、みたいなことは気にしなくていいのか? 肩がぶつかったことで、世界を救うはずの人間の将来ががらっと変わるかもしれないだろ」


「故意でなければ、かまいません。この世界は、意外と変化を許容するのです。完全に過去の知識に依存して、それを覆そうとするのでなければ、時流に添いそうな仕事をしたり、事業を起こしたりしてもかまいませんよ。選択の結果として世界が変わっていくのは、むしろ自然なことです」


「結果として、自分や知己の未来が変わっても?」


「故意の程度が重視されます。あなたが起こした変革によって、結果として変化するのなら、それは問題ありません」


「なるほどね。まあ、できるだけ長い方がいい。今の自分と同じ時に生まれる形で頼めるかな」


「長さ……ですか。いいでしょう、承知しました」


 未来を生きることはできず、自分が生まれた時点からがスタートとなると、期間は三十余年ということになる。終わりが見えている人生というのも、シンプルでいいかもしれない。その時の俺は、そう思っていた。


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