【平成十八年(2006年)晩春~秋】


【平成十八年(2006年)五月五日】


 端午の節句の上田競馬場は、そこそこの人出が見られていた。


 初来場の人も少なからずいたようで、おでんとコップ酒が売りの店と、いろは系のカフェ的なスタンドのどちらにも行列ができていた。屋台を幾つか用意していたこともあって、極端な待ち時間にはならずに済んでいる。ただ、今後も集客に力を入れていくのなら、手当ては必要となろう。


 既に宇都宮、高崎ともに開催を終え、残すは薄暮開催というには遅い時間帯となる、上田の最終レース、スタミナ王決定戦を残すのみとなる。


 三場のレースのネット中継は実施されているが、それとは別にひふみ企画の動画班の精鋭が三場をはしごしてのリレー生リポートを実施している。新幹線の移動中にもカメラを回していたそうだから、本気である。


 そこでメインリポーターを務めたのが、三浦琴音嬢……、通称ことねんである。


 競馬好きなのは露見済みだったが、実は元々が女子アナ志望だったそうで、しゃべりも達者で、露出にも抵抗はないらしい。ガチでの予想企画、馬券を握りしめての生配信、グルメリポートに移動中の寝顔配信など、ひとまず爪跡は残せただろう。


 今年の仕込みは間に合わなかったが、来年度には七夕の宇都宮でもお祭りをしてよいのかもしれない。一方の三月は上田競馬単独で、との話になりそうだ。


 と考えている間に、スタンド付近にいた琴音嬢……、ことねんの元におでんとコップ酒、それにクレープらしき小洒落たスイーツがもたらされた。ビジョンに大写しになっていることねんの横で、おでん皿を捧げ持っている人物に、見覚えがある。顔は写っていないが、どうやら弟の雅也である。手伝ってくれるとは聞いていたが……。


 馬場では、既に本馬場入場を終えた馬たちが輪乗りを始めている。ことねんは、朝からそこそこの的中を出していて、増えた軍資金で有り金勝負を仕掛けるようだ。


 あ、買い目を雅也に伝えているが、そいつはまだ高校生だ。ってゆーか、酒を持たせていたのも本来はまずい。平成末期ほどコンプライアンスにうるさくないにしても……。


 気を揉んでいる俺の隣で、美冬が笑みをこぼしていた。


「あれ、雅也くんよね。楽しくやっているようでよかった」


 その隣にいるエスファが、得心したようだ。


「どっかで見た奴だと思っていたが、トモキの弟だったのか。そう言えば、今日は朝から移動続きだと言ってたな」


 昨日は三人で時雨里家に泊まらせてもらった。大宴会というわけではないが、和やかな会食になっていたので、交流が持たれたのだろう。


 俺としてもくつろがせてもらったが、美冬にとってもなつかしい環境だったようだ。一方で、かつての住まいが空き家として傷みつつあるのには、やや寂しげな表情を見せていた。


 母さんとだいぶ話し込んでいたのは、なんだったのだろう。看護師相手なので、体調面の相談かもしれない。


 そして、スタミナ王決定戦のスタート時間となった。戦法は本来なら自由だが、注目度が高まりそうなので、無茶な大逃げを打って周回遅れになることや、完走できずに終わるのはできるだけ避けようとの申し合わせが、主催者主導で交わされたと聞いている。


 事情を飲み込んだヤマアラシ先輩は、道中は抑え気味に進めていた。それでも最終周に入ると、団子状だった馬群は徐々に焼き餅のように伸び始めた。さすがに、実力差は大きい。向こう正面からロングスパートを仕掛けたウルティマクリークが大差をつける中で、二着争いは大激戦となり、ゴール前では歓声が生じた。画面の向こうでも、同様に興奮してくれた人はいただろうか。


 レース後には、タフなことみんによるレース回顧トークショーが催され、長い一日が幕を閉じた。……上田が想定通りにナイターになったら、より長丁場となるのだろう。まあ、一人で三場を紹介すること自体が無理な話ではあるのだけれど。



【平成十八年(2006年)秋】


 ディープインパクツの凱旋門賞3位入線も派手なニュースだったが、禁止薬物検出による失格判定は、より衝撃的だった。


 その翌月には、デルタブルージーが南半球の海外GIを日本馬として初制覇している。メルボルンカップは、オーストラリアを代表する長距離レースとなる。


 サンデーサイレント、ダンスインザナイトの血を受け継ぐこの馬は、菊花賞に続いて、二度目のGI制覇だった。史実では、それ以外のレースぶりがいまいちであったためか、種牡馬になることなく障害競技の馬となったはずだ。


 サンデーサイレント産駒は多くの馬が好成績を残すものの、多くの馬が種牡馬入りすれば、稀少性が薄れていってしまう。特に現在のレース体系で軽視されている分野である長距離系の馬は、サンデーサイレント系の中でも一段落ちる扱いをされるのは仕方のないところかもしれない。


 ダンスインザナイトも、自身の戦績も産駒に出やすい適性距離もややステイヤー寄りで、後継種牡馬が出てくるか微妙である。これからの強い長距離馬作りだけを考えれば、ぜひ取り入れるべき血統なのだが……。将来的なサンデーサイレントの血の飽和への対応を考えれば、最低限の導入としておきたい。そして、その枠はステディゴールドであるべきなのだろう。


 長距離血統の牝馬にダンスインザナイトや、あるいは引退後のディープインパクツをつけまくれば、中長距離を席巻する名馬が生まれるのかもしれない。それでも、目線はその先に向けるべきだと思えた。



 明るい話としては、仁科調教師がマジックを炸裂させてくれた。


 ノーザントースト系を存続させるべく、タンホイザーゲートに芝での好走実績を作ってほしいとリクエストしたのは確かである。相手関係を見極めた仁科先生は、長距離のオープン特別を2勝した上で、朝日チャレンジCでGⅢを制覇させてくれたのである。


 その手腕も物凄いのだが、続けて駒を進めたのは天皇賞・秋だった。さすがに無茶だと思いながらも見守っていると、挫跖を理由に前日の出走取消となった。……わざとだとすれば、ややえげつないやり方だが、GIに挑戦しようとして果たせず、そのまま引退というのは、タンホイザーゲートの実力を考えれば、経歴として最上の締め括りと言えるだろう。

 


 秋が深まった頃に孝志郎から連絡が入って、北海道で久々の同級生三人の再会となった。久闊を叙しつつ話を聞くと、留学話があったのに断念して就職するのだそうだ。


 祖父を頼れば、それくらいの資金はあっさりと捻り出しそうだが、そこは縁切りをした母親の意向もあるのかもしれない。


「遊びに行く留学ならともかく、本気で学びたいことがあるならもったいないぞ。そのあたりはどうなんだ」


「そりゃあ、行けるものなら行きたいさ。ただ、奨学金がな」


 応募した給付型奨学金には、家庭の収入が低いところを優先する規定があり、よりきつい状況の応募者がいたことから、落選してしまったそうだ。


「まあ、そいつはすごい優秀だったからな。そちらを選んで然るべきだったんだ。ただ、大学はやはり行きたかったから」


 悪いことに、高校の途中で母親が体調を崩して、働きに出られなくなったらしい。住民税系の税金が遅れて徴収されることもあり、見かけ上の収入ほどの資金がなく、家計としては厳しさを増したそうだ。


「状況はわかった。美冬の祖父が個人で手掛けていた育英事業を引き継いだ財団がある。そこでなんとかしよう」


「智樹の意向でなんとかなるのか?」


「ああ、多分な」


 美冬と孝志郎を連れて事務所に向かうと、遥歌さんが迎えてくれた。天元財団は順調に運営されており、彼女はやや暇を持て余し気味であるようだ。新生ひふみを興すタイミングは、早めに来るかもしれない。


「ほほう、アメリカの大学で数学をねえ。……オッケー。審査完了」


「いや、それはあまりにも」


 弱々しく抗議の声を上げたのは、本人である。


「なによお、文句あるっての? おじいちゃんが生きていたら、やっぱり一瞬の決裁だっただろうから、いいのよ、これで」


「はあ……」


「じゃあ、天元財団からの給付型奨学金で借金を一括返済して、留学費用を用立てればいいのね。交渉するから待ってて」


 受話器を手にした遥歌さんは、当初は上機嫌だったのだが、やがて押し問答になり、最後には怒号が上がっていた。電話を切ると、こちらにてへっとでも言いそうな笑みを投げてきた。


「あー、ちょっと時間がかかるかも」


「だいたい聞こえてたけど、繰り上げ返済は駄目だって言ってるの?」


「規約上、一括返金はできないと言い張ってる。金利が目当てなんでしょ。育英目的を詐称する悪徳金貸し集団が」


 吐き捨てるようであるのは、これまでの接触でよほど腹に据えかねているのだろうか。


「結論は変わらないから、こちらからの支給分で返済を代行するのもありよ。他の選択肢としては、訴訟前提で送りつけるとか……」


「創始会から連絡を入れてもらうとか?」


「いや、じいちゃんを絡ませるのはまずいって。天元財団に悪評が立ちかねないし」


「気にしないけどな。あたしもそうだけど、おじいちゃんもそうだと思う。金貸しは立派な商売だけど、善意の皮を被るのは許せないとか、いかにも言いそうじゃない?」


「それはそうかも」


 ……結局のところ、創始会方面から連絡を入れてもらったところ、あっさりと要求は通って孝志郎の借金は完済されたのだった。



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