【終章】


【令和四年(2022年)三月三日】


 たっくん……、叔父さんの死んだ七月。近しい人の死に衝撃を受けていたあたしは、遺言メールを受け取ったのだった。


 文面からすると、送信予約をかけて、中止しなければそのまま届く形にしてあったらしい。そこには、自分の生命保険で借金を返して、騎手を目指すようにと書かれていた。姪の心叔父知らずとはこのことである。あたしが騎手になることより、叔父さんが生きていてくれる方が、何十倍も重要だったのに。


 競馬学校へ入学した直後に怪我をして、騎手になれなかったことをずっと引きずっていた叔父さんと、その夢を引き継いじゃおうかな、との発想で騎手を目指したあたしとでは、重みが違っていたのかもしれない。騎手になれなくても、競馬に関連する仕事に就いて、叔父さんと競馬談義ができればそれでよかったのだ。


 あたしが騎手になったときに役立つ知識や技能を考えている叔父さんの熱中ぶりが微笑ましくて、つい本気で対応しちゃったのがよくなかったのかもしれない。いや、騎手になりたいというのは本気だった。でも、その夢を叶えて一番喜んでくれたはずの人がいなくては……。たっくんは本当ににぶちんなんだから。まったくもう。


 叔父さんが亡くなってすぐ、叔父さんの次に親近感を抱いていたディープインパクツも世を去ったと知り、あたしは虚無に落ちかけていた。自死を意識したとき、あたしのところを訪れたのは、中央競馬会の新田理事長だった。まったく意味がわからないと思いながらも迎え入れると、ダンディなそのおじさまはこう告げた。



 父親から受け継いだ借金を理由に入学を拒絶することは絶対にない。安心して応募してくれ、と。


 さらに、騎手学校時代の叔父さんを知っていたそうで、お線香を上げてくれた。頼ってくれればよかったのに。いや、最後にようやく頼ってくれたのか。そうつぶやいたようにも聞こえたが、気のせいだったかもしれない。


 騎手を目指すとの方向性は決まっても、叔父さんを失ったことで世界の色合いは薄れていた。ただ、それは間もなくあたしだけの話ではなくなった。新たな疫病の発生は、当初は外国の話で、次いでクルーズ船の中での出来事だったのが、都市圏から日本中へと急拡大する展開は、終末の訪れかのように捉えられた。


 新型コロナは世界全体を恐慌状態に陥れ、ロックダウン的な封鎖が世界の大都市に波及していった。そこでの死者数は多かったのだろうけど、大崩壊にまでは至らず、やがて世界は灰色で塗りつぶされていく流れとなる。


 東京でロックダウン的な封鎖が行われ、ほとんどの飲食店が営業を停止し、商店が入店制限を行う状況下でも、競馬学校は新入生を受け容れた。結果としては、あたしたち38期生はコロナ禍の時期を競馬学校に隔離されて過ごす形となった。


 そして、天涯孤独となったはずのあたしのところに、知らない女の子から手紙が届くようになった。応援してくれるのはうれしいんだけど、どうしてあたしなんだろう? 合格者リストで名前を知って、というのも筋が通らない。


 まあ、それでも、心の支えになったのは間違いない。署名には、拙さの感じられる微笑ましい文字でみはると書かれていた。いったい何者なのだろうか。


 


 新型コロナは、影響を弱めたり強めたりしながら、世界は徐々に元の姿を取り戻していった。ワクチンの確保、発病時の隔離、マスク不足、ワクチン接種の是非を巡る分断、いわゆるアベノマスク配布……。初期のロックダウン的な動きと、盛り上がっていた海外からの観光客訪日が途絶えたことで、旅行業界や飲食店は壊滅的な打撃を受けたようだ。


 それらの事象は、競馬学校で苦闘していたあたしにとっては、影響がなかったと言えば嘘になるけれど、日々の課程の方を重視せざるを得なかった。



 そして、コロナの影響がだいぶ軽減された2022年春。あたしは競馬学校を卒業し、デビューの日を迎えている。


 本来なら、3月最初の週末に中央競馬の開催場でデビューするのが筋なのだが、あたしはなぜか縁もゆかりもない上田競馬を訪れていた。


 所属するように誘ってくれた調教師の仁科先生は、当然のように上田競馬場で行われる交流競走の鞍上にあたしを指名した。そして、その日に開催される交流競走以外の11レースについて、上田や高崎、宇都宮、さらには浦和や岩手の厩舎からも騎乗依頼が舞い込んだ。意味が分からないと思いながらも、依頼をもらったからには乗らせてもらおう。


 上田競馬場は、ダートの長距離レースと、創設されて間もない初夏の時期の3歳牡牝それぞれのアメリカ的な短期集中型交流三冠が特徴的な地方競馬場となる。この日は、競馬シーズンの到来を告げるイベント的な開催に、メインスタンドの竣工が重なったお祭り状態で、上田での牝馬クラシック三冠の緒戦、中央でいう桜花賞相当の梅姫賞や、ダート超長距離路線の最高峰とされる信玄賞などが組まれている。重賞も複数含まれるのだが……、現地の競馬新聞「いろは馬上田」で確認したところ、あたしの総ての騎乗馬に本命の印が並んでいるのはどういうことなのだろう。


 当日の早朝に上田競馬場に入ると、出迎えてくれたのは嵐山美弥騎手だった。地方競馬における女性騎手の第一人者である彼女は、きつい表情を浮かべていた。


 あたしが乗る地方馬11頭のうち、10頭に騎乗経験があり、7頭については主戦を務めている。今日は上田競馬にとっての最大のお祭り開催であるはずで、彼女が乗れば全勝もあり得る顔触れである。


 騎乗機会を奪われて怒っているのかと思いきや、女性向けのトイレの在処や、調整室の設備について説明してくれた。続いてメモを取り出し、きつい口調で一頭ずつの癖や注意点を挙げた上で、判断は任せるとしながらもお勧めの騎乗プランまで提示された。さらには、初騎乗なんだから、今の時点の全力さえ尽くせば全部負けてもいいのだとまで。


 どうしてそこまでしてくれるのかと訊ねたら、自分の背中を押してくれた存在への恩返しなのだと、恥ずかしげな笑みを浮かべた。これはあれか、ツンデレってやつか。恩人とは、いったいどんな人物なのだろうか。


 そこでようやく、この嵐山騎手が中央の高瀬巧騎手の結婚相手であることを思い出した。キングオブクールの故障があったにしても、天皇賞の舞台で名勝負を演じた二人の結婚は、高瀬騎手が叔父さんの知人だったこともあって、印象に残っている。


 その恩人というのは、高瀬騎手かと問うてみると、すごく嫌そうな顔をして、巧じゃない、もっと雑な奴だと吐き捨てた。そうでありながら、どこか泣き笑いのような表情になったので、抱きしめたくなってしまった。もっとも、目に見えないトゲのようなものがイメージされたのと、大先輩であるのを踏まえると、実行に移せるはずもなかったが。


 そこから、気になっていたことを訊ねてみた。スタンドの改装は済んだと聞いていたのだけれど、行われている工事は何をしているのかと。


「芝コースの整備をしてるの」


「芝……ですか?」


 地方競馬なのに、というあたしの漏れ出ているだろう想いに反応せず、先輩騎手は囲いの方に目を向けた。


「能力検査ができる程度の、直線脇への設置というBプランが落としどころのつもりだったんでしょうけど、そんなことで許してやるもんですか。ここをダートだけじゃなくて、芝の長距離の楽園にして、悔しがらせてやるんだから。中央の思惑なんて、知るもんですか。……だいたい、なんで9の字を包み込む長いO字型の3000m級コースは無理だ、なんて話になるのよ。9の字を8の字にすればいいだけでしょうに」


 あたしに向けられた言葉ではないのは、空を見つめる視線の強さからも明らかだった。



 そのまま、バレットを軽く越える水準の世話を焼かれた頃に、開門の時間となった。コロナ禍の重苦しい雰囲気がだいぶ緩和されたためか、人出の勢いは激しいものとなっていた。新設されたスタンドが、行楽モードの人々で充たされていく。


 国内の行楽は、徐々に復旧しつつあるようだ。一方で、国をまたぐ移動はまだだいぶ制限されていて、変異株といった話が出るたびに緊張が走ってもいる。さらには、この日に競馬場を訪れている中でさえも、マスク姿の人が多く見受けられる。もう、元通りにはならないのかもしれない。


 そんなことを考えながら第一レースのパドックに向かうと、華奢で綺麗な女の人が、可愛らしい少女を連れているのが見えた。寄り添うように立っている金髪の女性もまた、美貌の人物である。



 その女の子が、とてとてと走ってきた。


「風香お姉ちゃん。時雨里美春と申します。はじめまして」


「あ、もしかして手紙のみはるちゃん……? どうしてここに?」


「あたしは、爛柯牧場の一子相伝の後継者なのです。風香お姉ちゃんには、うちの主戦騎手になってもらわないと困るのです」


「なんですとーっ?」


 つい、いつもの調子で叫び声を上げてしまって、慌てて手で口を塞ぐ。爛柯牧場とは、高瀬巧騎手と嵐山美弥騎手の手綱で天皇賞における名レースを展開した、キングオブクールとランカシュヴァルツの生産牧場である。


 その両頭の子であるランカユキタカも天皇賞を制覇し、メグロ牧場の偉業を引き継ぐ五代制覇を成し遂げている。……さらには、あの「金髪の孺子(こぞう)」ことランカラインハルトの故郷でもあった。


 あたしの生涯最初の騎乗馬は、今日の第一レースで自身のデビュー戦を迎える、ランカユキタカの全弟なのだった。どう考えても、嵐山騎手を差し置いて騎乗依頼が来る方がおかしい。正直なところ、今でも意味がわからない。


 生産牧場でもある有力な馬主筋に失礼をしたと焦ってしまったのだが、顔を見合わせた三人は懐かしさとせつなさが混ざったような笑みを浮かべた。


「ホントに、智樹の縁者なのね」


「うん、お父さんがここにいます」


 母娘らしき二人のやりとりに、金髪の美女も頷いている。


「な、なんのことですか?」


「その話は後でゆっくり。中央でも、しっかりと乗り鞍は用意させてもらうから」


「そうなのです。今年デビューの、セカンドインパクツの主戦をお任せするのです」


 その二歳馬の名には、強めに聞き覚えがあった。激しく戸惑いつつも、とまーれー、との声がかかれば、あたしは騎乗馬の元に向かうしかない。

 駆け寄った先のランカヨリツナ号は、亡き叔父さんのような優しい瞳をしていた。



(了)


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平成転生 馬事累々 ~馬好き引きこもりの二周目平成渡世 転生したら平成だったので、のんびり競馬を満喫しようと思ったのだが~ 友野 ハチ @hachi_tomono

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