【令和元年(2019年)七月二十八日】
【令和元年(2019年)七月二十八日】
この日、爛柯牧場では宴が開催されていた。日頃の感謝を伝えるための慰労会的な名目となっている。
智樹の人生最後の日であることを明確に知っているのは、妻子の二人だけである。ただ、遠くへ旅立つかもとの話はある程度まで伝わっていて、ひとまずの別れを告げるためらしいとの認識を持った参加者も少なからずいた。
来客をもてなすための食材としては、上田方面からの肉や果物に、漁協から提供された海産物など、良質なものが揃えられていた。いろはフーズの和洋の熟練調理人が仕切る形で、その場での調理が行われている。酒も大量に持ち込まれていたが、智樹と美冬は口にはしてなかった。
学校の夏休みは概ね前週から始まっている。遠来の子連れの客人には、数日前から泊まり込む者もいて、林間学校的な盛り上がりを見せた。大人たちは語らいを交わしており、既に宴はゆるやかに始まっていたとも言える。
智樹の両親と義父母が揃って孫娘である美春と交流するのは今回が初めてとなる。久々の対面となる祖母同士はにこやかに互いを気遣い合い、タロエモンと通称される暮空太郎もまた、智樹の父親と言葉を交わしながら穏やかな笑みを浮かべていた。
午前中の早い時間に到着した嵐山美弥騎手は、後輩と認識している智樹と強めなじゃれ合いを繰り広げている。前日の上田競馬のナイター開催で騎乗してから東京へ移動し、朝イチの飛行機で北海道入りした強行軍だが、本人は元気そのものである。
天皇賞に勝てる馬を上田競馬でデビューさせろとの要求は、無理難題の範疇に入るだろうが、二着に入ったランカシュヴァルツの例があるだけに、不思議な説得力がある。キングオブクールとランカシュヴァルツの子どもなら、半分はあたしのお手馬にすべきだろうと言われては、智樹としても苦笑するしかない。
その様子に、ことねんこと時雨里琴音が呆れた表情でコメントして、嵐山騎手のヤマアラシ的反応を呼び起こしていた。上田競馬場を縄張りにする二人であるが、なかなかの犬猿の仲っぷりである。智樹としては、ビジネス的なものだとの認識だったが、実際にはそりの合わなさをネタにしている面もある。一方で、子ども同士の仲はよさげであった。
三つ巴のじゃれ合いの様子を見つめる高瀬巧騎手も、前日だけ札幌で騎乗し、今日は全休として昨晩からやってきていた。爛柯牧場を含めた馬主グループの主戦騎手であるだけに、その行動にさほどの違和感はなかった。リーディングにも顔を出すようになっているこの人物は、人見知りする時期の美春にも近づくのを許されていた経緯があり、今回も姫の世話役的な立ち位置に配されていた。
薙野孝志郎と押原樹理が語る将来構想に聞き入りながら、智樹はかつての小学校時代を思い返していた。前世知識があっただけなのに偉そうな態度をとっていたのを、やや恥ずかしく感じながら。
樹理の馴染みっぷりはだいぶ強めとなっていて、智樹と美冬の脳裏では、廃校になった小学校の教室に彼女もいたような錯覚を覚えるほどだった。
世話役を務めてくれている牧場の面々をねぎらいつつ、農業高校時代の同級生たちとも智樹は交流していた。
家族ぐるみの付き合いになっている、漁協をほぼ掌握した御曹司とその夫人ももちろんだが、在学中は言葉を交わしたことがなかったのに、卒業後に繋がりを結んだ人たちも含まれる。地縁の面では、上田よりも静内の方が深くなっているかもしれない。
駆けつけていた競馬関係者は、騎手だけではない。朱雀野調教師とその夫人の雪代や子どもたちの姿もあったし、中央の仁科調教師に、その他の友好厩舎の調教師も幾人か参加している。また、爛柯牧場と付き合いのある馬主たちの姿も多く見られた。
長距離路線からの転換も含めた、本格的な中距離以下に適性のある馬の生産に向けた将来像は、親交の深いこの二人の調教師と調整していく必要があるだろう。そこについては、智樹は他のスタッフに任せるとの立場を示しており、かつて若番頭と呼ばれていた西秋隆が乗り気ではないため、方針がややグレーな状態ではあった。
爛柯牧場の馬産の将来について、智樹は楽観的な見通しを抱いている。実際問題として、美冬とエスファの相馬眼に、樹里の配合理論が重なり、隆がまとめるスタッフの生産・育成から春待一派による馴致・調教まで踏まえると、よほどのことがない限りは崩壊する未来は見えてこない。
エスファが主導して世界進出を目指すのなら、それもありだと智樹は考えている。欧州と豪州に長距離向きの生産馬を送り出すこともありだな、とも。もちろん、世代を重ねれば話も変わってこようが、天元財団への資金拠出という目標が意識されている限り、おかしなことにもならないとの予想もあった。
この機会に、震災後の自粛ムードの中で行っていなかった結婚披露も兼ねたらどうだ、との提案が複数の筋から入った。それを、美冬と智樹はあっさりと断っていた。かしこまりすぎずに皆にあいさつしたいから、というのがその理由だった。もっとも、娘と三人での記念写真は、結婚式モードや仮装的な衣装も含めて撮りまくったのだったが。今日の彼らは、やや綺麗め程度の服装となっている。
智樹が飲み物を取りに向かったタイミングで、硬い空気を纏って歩み寄ったのは仁科調教師だった。
向けられたほにゃっとした笑みに、仁科師の表情にも少し柔らかみが戻る。
「この日に、ランカラインハルトのデビューを合わせようかとも思ったのですが……」
「いやいや、馬本位でお願いします」
「はい、オーナーからはそう指示されるはずだと考えて、夏の終わりの北海道でのデビューを考えています」
「楽しみです、とても」
エスファから虹色判定だと聞かされたのは、ディープインパクツに続いての二頭目である。期待は強いが、ランカカエサルの例もあるからなと智樹は考えていた。
「あの馬はきっと、大仕事を成し遂げてくれるでしょう。見届けていただきたかったです」
強い口調ではないが、それだけに心情が込められていた。
智樹は、この人物に深い事情を打ち明けているわけではない。だが、最初に会ったときからずっと、見透されているようにも感じているのだった。
「初めて預託させてもらったステディゴールドの牝馬達が……、馬本位どころではなく、二歳戦までで引退させたあの二頭が、一頭はキングオブクールの母として、もう一頭は世代を経てランカラインハルトの祖母になりました。仁科先生のお陰です」
「いや、あの二頭が未出走引退でも、おそらく未来は変わらなかったでしょう」
「いえいえ、仁科厩舎での鍛練の日々と性格形成は大きかったでしょう。一手でも違えば、未来は変わっていたかもしれません」
「バイアリーターク系の復興は、二筋で果たされそうですな」
サラブレッドの三大始祖のうち、バイアリーターク系は、ヘロド系、トウルビヨン系、パーソロン系と続いている。パーソロンは、メグロマックイーンの祖父であるメグロアサマと、カイトウテイオーの父であるシンボルルドルフを出した種牡馬であるため、キングオブクール、ランカユキタカとルンルンナイト、ランカラインハルトはどちらもパーソロン系としてバイアリータークに繋がるわけだ。
「そんなたいそれたことを考えていたわけではないのですが……」
智樹の脳裏には、美冬を背にメグロマックイーンとカイトウテイオーのタイプの違いについて話した遠いあの日の情景が浮かんでいた。
「ゴドルフィンアラビアン系は、日本では絶えてしまいましたか」
「隆が……、我が爛柯牧場の番頭役が、輸入できないかと夢見ているようです。系統保護が目的化するのは、いかがなものかとも思うのですが」
「あくまでも、強い馬づくりのためですか」
「長距離系統の保持は、この先の馬産のために意味がありそうに思います。自己満足だと言われれば、それまでなのですが」
「まあ、今の時代の競馬は、多かれ少なかれそうなのかもしれません。正解はないのでしょう。……ただ、ディープインパクツをつけるとは思っていませんでした」
「いったん立てた方針に捕らわれていた面はあったと思います。一口馬主クラブ方面からの要望を受けて、素直につけようと思えました。……今年は残念ながら、抜群の馬は出なかったようです」
「来年の産駒に期待でしょうか」
「今年の種付けは一頭だけでしたので、再来年以降ですね。ただ、ディープインパクツは、爛柯牧場では主軸とはしないものと思われます」
「ランカラインハルトとキングオブクールも含め、サンデーサイレント系とは別の道を行かれますか」
「いえ、その両頭は、ステディゴールドとプラチナアリュールを経由したサンデーサイレントの血の威力が効いているのでしょう。サンデーサイレントが、少なくとも日本において、セントサイモンやノーザンダンサーに近い存在感を誇示するのは間違いないでしょう。その先の世界で、同様の改革者として出てくる存在が、なにになるかは……」
欧州や米国で産まれるのか。豪州や南米、中東から出てくる可能性もある。日本から出てくる可能性だって、もちろんある。
そして、競馬自体がどうなるのかという話もある。
「軍馬のための馬匹改良がお題目となっていた時期から、まだ百年も経過していません。競馬は……、この先の競馬はどうなるのでしょうね」
「きっと、時代に合わせて変わっていくのでしょう。……それでも私は、天元場長とあなたに恥ずところのない馬産を続けていきます」
その誓いの重みを、智樹は感じ取っていた。
「お願いします。あとは、俺の縁者にちょろっと目をかけてあげてもらえると」
目線を向けた先では、朱雀野調教師が美春に絡まれている。その周囲では明るい笑声が上がっていた。
すべてを見透かすような仁科調教師と、楽しい時間を満喫している小学校時代の恩師の対照的な様子に、智樹は苦笑する。
同時に、違っていていいのだとも思う。多様性こそが、やはりこの世界の肝なのだろうから、と。
智樹との関係性の濃淡で、この宴の意味合いの捉え方は違ってきていた。家族を除けば、深刻な捉え方をしている者としては、エスファと琴音が挙げられる。
ただ、ふたりとも殊更に本人を問い詰めることはなかった。美冬と美春が泰然としているから、というのも大きかっただろう。妻子の内心はともかく、長い期間をかけて別離の準備をしてきたため、独占権を主張することはなかった。そんな美春を、エスファが招き寄せ、抱きしめた。その身体が細かく震えていることで、彼女の不安は確信に変わっていた。
一方の琴音は、我が子を宴の主催者にけしかけ、高い高い、低い低いをさせることに成功していた。結果として、智樹の前に行列ができて、筋トレ的な状況が発生した。最後に登場したのは美春で、七歳にしては大柄な娘を抱き上げた智樹の腕は、ぴきぴきと震えていたのだった。
美春の朗らかな笑い声は、周囲に微笑ましさを振りまいた。ただ、幾人かはその笑声に泣き出しそうな響きを感知してもいた。
逆に、智樹の異変について鈍感なのは、遥花であった。新たな家族を得た彼女は、やや憑き物が落ちたような風情で、母親としてまたイニシアル社、いろはグループ、天元財団と支援先の新興企業群を束ねるオフィサーとして活動している。今日のこの場では、ひときわ明るい存在感で出席者と交流を深めていた。
ベンチで一休みをしていた智樹のところに歩み寄ったのは、中央競馬の新田理事長だった。招待こそしたものの、まさか参加するとは思っていなかったというのが智樹の本音である。一方で、招待された側は見過ごせないなにかを感じ取っていたのだった。
智樹が立ち上がって一礼を投げる。
「新田さん、お運びいただきありがとうございます」
「いや、盛大な宴で、楽しませてもらっている。それに、力技での長距離振興策には感服している」
「弱者の選択の結果に過ぎません。……それでも、競馬の幅を広げる一翼を担えたのならなによりです」
「正直な話、長距離をどう扱うかは、議論の俎上に上がりがちなところだった。ただ、こうして活性化しているからには、廃止論は影を潜めるだろう」
長距離に特化した馬作りが広まれば、三冠馬が誕生しづらくなる。三冠馬が出たからといって、さほど馬券の売り上げが伸びるわけではないにしても、盛り上がり度合いは無視できない面がある。そこを、海外の長距離レースへの挑戦で埋められるかどうかは、微妙なところだった。
「ところで、爛柯牧場の牝馬たちへのディープインパクツの種付けは、うちでも話題になっていたよ。歴史的雪解けだと」
「いや、敵対していたわけではないのですけどね。今年は一頭だけしかつけられませんでした。来年以降に期待です」
「それが……、病状が思わしくないようでな」
「なんですと……」
「この同じ時刻に、手術が行われていると聞いている。成功率は高い術式のようだから、回復してくれるとは思うが」
二人は、競馬界で大きな存在感を占める存在に思いを馳せた。
しばらくの躊躇の末に、智樹は口を開いた。
「新田さん。いえ、新田理事長。……春日巽という、かつての騎手候補生をご存知でしょうか」
「ああ、有望な候補生だったのに、入学直後に怪我をしてしまった人物だな。惜しいことをした。……騎手としての未来ももちろんだが、それを苦にして塞ぎ込んでしまったようでな」
悔やんでいる様子を改めて見やって、智樹が微笑を浮かべた。
「その者には、姪っ子がいて、騎手を目指しているものの、父親の借金を抱えて苦境にあるようです。気にかけてやってもらえないでしょうか」
「やっぱり、君は巽くんの……」
智樹の人差し指が、自身の唇に触れた。
「素性を探るのは、今日のところはなしにしてください。……ただ、希望を聞いていただけても、お返しとして提供できるものはなにもありませんが」
「いや、充分に受け取っている」
「そう思ってくださるのでしたら、若者の道を閉ざさずにいただければ」
「承知した」
握手が交わされた二人の間を、柔らかな風が駆け抜けていった。
中央競馬のメインレースが終わる刻限、智樹は妻と子とともに牧場内の散策を始めていた。
家族での思い出を含め、多くの記憶が刻まれた施設を巡りながら、他愛のない会話が展開されていく。
この日の新潟の最終レースの出走馬には、ミントスムージー、ペペロンチーノ、トマトソースの名があった。爛柯牧場の活動によって、既に競馬の結果は智樹の前世の記憶とでは齟齬が大きくなってきていたのだが、この三頭にはその影響は及ばなかったようだ。
仮にこの三頭が出走表に名を連ねていなくても、智樹は世を去ることを免れ得るとは考えなかっただろう。この世界での春日巽がどうなったとしても、前世でトラックと衝突した時刻までが自分に与えられた期間の最後だとの理解は、智樹の胸中にあった。残された時間は、それほど多くない。
三人が抱きしめ合う姿には、宴会の出席者から柔らかな視線が向けられていた。
感謝の言葉が口にされたタイミングで、智樹の身体から光の粒がこぼれだした。少し困ったような笑顔が、キラキラと輝く。
やがて、煌めく粒子が渦になったとき、光が矢のように天へと駆け上がっていった。
感嘆の声が上がる中に、幾人かのすすり泣きの声が混ざる。二人を心配して最初に駆けつけたのは、血縁である暮空太郎だった。
美冬と美春は、寄り添って天を見上げている。親しみ深い波動を、全身で感じ取りながら。
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次回、最終話になります。
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