【平成二十四年(2012年)春】



【平成二十四年(2012年)四月】


 爛柯牧場での出産シーズンが佳境を迎える中で、美冬が難産の末に娘を産み落とした。


 美春と名付けられた赤子は、俺の腕の中で穏やかな寝息を立てている。厳重な警戒モードの中で孫娘に引き合わされたタロエモン……、いや、我が義父は、はらはらと涙を流し、末娘の苦笑を誘っていた。一定の距離を取って、触れたいとは求めないあたり、さすがにわきまえさせられたところがあるのだろうか。


 かつてワンツースリーだった、循環取引の駒となった上で、今では名前も何度か変わった企業の残骸は、アダルト系の動画配信やゲーム、雑誌などの通販中心の商いをしていたそうだ。その分野の第一人者で、アダルトを起点にして後に競馬関係にも進出するDWW社が成長したことで、ヤバめの作品の扱いを控えるようになった間隙をついて、勢力を広げたらしい。当然のように裏勢力から狙われ、タロエモンが思い詰めるくらいに、なかなかのっぴきならない状態に陥っていた。これはもう、創始会方面に相談するしかなかった。


 既に引退していたはずのかつての親分は、最後の仕事じゃなと呵呵と笑って受けてくれた。まったくもって元気に見えるのだが、天元のじっちゃんも倒れるまではそんな素振りはまるでなかったわけだし、油断はできない。


 坊主の身内じゃ仕方ないと言われてしまうと、本当に頭が上がらない。




 今年の生産馬からは、有望級、抜群級の馬は現れていない。このところ、2007年のキングオブクール、2009年のランカシュヴァルツ、ルンルンマモリフダ、2011年のカイトウテイオーの後継候補と、一年おきに期待馬が現れている感はあり、その流れを引き継げば、今年はハズレ的な年なのかもしれない。


 2011年生まれの期待されるカイトウテイオー産駒の牡馬は、カエサルと名付けられている。ジュリアス・シーザーのラテン語読み、ユリウス・カエサルからとなる。


 当初は体型からもダート馬と見られていたのだが、春待先輩の見立ては、コース適性は芝とダートどちらもで、やや芝向きではないかとの話だった。特に歩様からそう感じるらしい。


 そうなると……、むしろ中央で芝の三冠路線を狙うべきだろうか? 2011年産駒ということは、クラシックシーズンは2014年。その年の三冠路線は……、皐月賞はフジミラクル産駒のイスラグアパ、ダービー馬はハートクライ産駒のワンオブアカインド、菊花賞はゴ―ジャスウィーク産駒のホートウジャッカルが制している。優勝馬の父親は、いずれもサンデーサイレント産駒となる。


 ワンチャン……、そのうちのどれかを制覇するチャンスを見出だせないだろうか。それもまあ、今後の育成次第ではある。


 2009年生まれの二頭の牝馬のうちのランカシュヴァルツは、シルバーチャーミー産駒でランカリアライズの娘である。ランカリアリティとランカヴェニスという新体制爛柯牧場の初期からの流れを牝系に持つだけに、活躍してほしいものである。こちらは、3月のお祭り的開催での上田牝馬三冠の最初のレース、梅姫賞を制して元気いっぱいらしい。


 ルンルンマモリフダは、牝馬を選り好みするファイトエンブレムと、そのお眼鏡にかなったらしいランカヤマブキの娘で、きれいな栃栗毛に出た馬となる。


 金髪っぽい容姿に惹かれたのか、ルンルンの馬主さんに是非にと望まれたので売却を即決して、隆に怒られた経緯があるのだが……。初期から買ってくれて、活躍した馬は牧場に戻してくれて、期待値の低い馬を無理やり引き取ってくれとか言わない馬主さんには、最大限の便宜を図るべきではないだろうか。


 ルンルンの馬主さんは、天元のじっちゃんの香典代わりに種付けしたステディゴールド産駒三頭のうちの、美冬が光を見いださなかった牡馬を買ってくれた人物である。安値で売ろうとしたらまじめにやれと叱られたのはいい思い出である。……なんか、叱られてばかりのようにも思えてきたが、きっと気のせいだ。


 ただ、ルンルン系は、付き合いの関係で必ずしも爛柯牧場の友好厩舎に入るとは限らないため、隆の危惧もわからないでもない。牧場での馴致、春待先輩一派の育成、地方なら朱雀野厩舎での雪代さんとヤマアラシ先輩のしつけ、中央なら仁科先生と優秀なスタッフと巧による調教といった要素が揃ってこそ、実力が発揮できているのも確かだと思われる。中央入厩する馬でもいったん上田に向かわせて、朱雀野厩舎と春待一派の別チームが共同で導入教育をするケースも増えてきていた。


 そうは言っても、爛柯牧場は成り立ち的に純然たるオーナーブリーダーではない。先代の頃から支えてくれた馬主さんたちを無下にするのが、この牧場のあるべきやり方とは思えなかった。


 ルンルンマモリフダは、岩手競馬で頭角を現してきているようだ。芝もこなせそうとの春待先輩推定が出ているが、盛岡には芝コースもある。今後に期待するとしよう。


 そして、2007年産駒がキングオブクールである。


 去年の秋に復帰したメグロマックイーンとランカキラメキの息子は、1000万下条件と格上挑戦のオープン特別を連勝し、ステイヤーズステークスで3着に入った。春にはダイヤモンドステークスで初重賞タイトルを手にした後、天皇賞・春への出走を決めていた。


 テレビ観戦のつもりだった俺に、調教場で翻意を促してきたのエスファだった。仁王立ちになって金髪を風になびかせる様は、洋物RPGのスチル画のようでもある。


「行ってくるべきじゃないのか」


「美冬を置いてひとりでは行けないって」


「三人で行って来ればいいだろうに」


「新生児を連れてか?」


「口取りで、赤子を抱いて記念写真を撮ってこい。キングオブクールならだいじょうぶだ」


 春待先輩もうんうんと頷いている。その穏やかな人格には、エスファからの押しの強さが染み込みつつあるようだった。


 春待先輩のところでは最近、調教要員をよそに向かわせる関係から、免許をとって人材派遣業を始めていて、牧場スタッフについても引き合いが来ているらしい。頼もしい話ではある。


「それはつまり……、キングなら勝てるって?」


「いや、暴れないって意味だ。勝てるかどうかはしらん。四代制覇の次は、五代制覇だぞ。今のうちから、見せておいた方がいい」


「五代制覇は……、この子が継いでくれるなら、期待できるんだが」


「そんな年でもないだろうに」


 明るく応じる春待先輩の隣で、エスファが目線を落とす。いい機会なので、それとなく伝えておくとしようか。


「俺は、この牧場や美春の行く末をずっとは見守れないかもしれない。そんな予感がするんだ。もしもの場合には、ちょっとでいい。彼女のことを気にかけてやってくれないか」


「もちろん、任せてくれ。……だが、そういうセリフを吐く人物は、長生きすると相場が決まっているがな」


「そうかもしれない」


 俺は、天元のじっちゃんに同じような言葉を掛けた日のことを思い返していた。じっちゃんは、死期を悟っていたのだろうか。そうであるなら、せつない思いをさせてしまったのかもしれない。


 天元のじっちゃんにとっては、夫婦での想い出の競馬場は府中だったわけだが、俺と美冬と美春にとっては、淀の競馬場がそうなるのだろうか。そんな想いもあって、俺の心は応援に赴く方向に傾いていた。


 今年が駄目でも、元気で回ってきてさえくれれば、来年も再来年もあるわけだし、気楽に考えるとしよう。



【平成二十四年(2012年)四月二十九日】 


 パドックの控室で、俺は同い年の騎手……、高瀬巧と初めて顔を合わせていた。今生では、との限定はつくのだけれど。


 競馬学校で短期間にしても同じ時を過ごして、それ以降はテレビでたまに顔を見る程度だったわけだが、やはりなつかしく感じてしまう。


 牧場やひふみ企画の持ち馬で、だいぶ騎乗依頼を重ねてきていたはずで、本来ならこれまでに会っていてもおかしくない。正直なところ、前世での知り合いに影響を意図的に及ぼす形になって、女神の禁忌に触れることを恐れていたのだが、この流れでは会わない方がむしろ不自然だろう。


「はじめまして、高瀬巧と申します。これまでも、今回も起用してくださって、ありがとうございます。ただ……、どうして僕に依頼をいただけていたのでしょうか」


「これまでも、特に長距離で幾頭もの馬を、勝利に導いてくれていると聞いています。騎乗の依頼先は、調教師の先生に任せてきました」


「ですが、福島の条件戦ならともかく、春の天皇賞でも変わらずとは……」


「自信が持てませんか?」


「いえ、僕さえキングオブクールの足を引っ張らなければ、おそらくだいじょうぶかと。ただ、より経験のある騎手に切り替えて、失敗の可能性を削ぐべきかも、と思わないわけではないです」


 確かに、重賞の騎乗は数えるほどなのだろうが……。このバカ正直さは、美徳かもしれないが、弱気と捉える関係者も多いだろう。


「馬をきちんと導いてくれる。そう信じたからです」


「全力を尽くします。……ところで、春日巽という人物をご存じではないですか」


 不意打ちのように前世での自分の名前が出てきて、俺はやや動揺してしまった。小さく息を吐いて応じる。


「いや、会った記憶はないですね。どなたですか?」


「騎手学校時代の友人です。無事ならば、キングオブクールの手綱を任せたいと、こちらからお願いしていたかもしれません。……そうですか、巽の関係でもなかったんですね」


 こいつは、ホントに騎手には向いていないのだろう。騎乗技術ではなくて、営業が必須な個人事業主として。


 やがて騎乗命令がかかると、一礼をして去っていった。キングオブクールに近づく足取りは素軽い。


 笑みを含んで、仁科調教師が近づいてきた


「あの調子ですからね。なかなか騎乗馬は集まらないようです」


「なんとまあ」


 それだけ言って絶句する俺に、若手とされながらも風格を備えつつある人物が続けた。


「ペース配分だけでなく、騎乗技術は全般に高く、馬の状況把握も的確です。信頼して重用する調教師も幾人か。ただ……」


「あの物言い以外にも、なにか欠点があると?」


「路線選択や休養方針について、感じたことをそのまま口にするのです。馬主さんの前でも、変わらずに。そうなれば、体面を潰されたと捉える調教師も多いようで、悪評が立っていますな」


「……エージェント制は、導入済みでしたかね」


「ええ。現状だと、メディアの人間が多いようですよ」


「どこかの新聞社の若手にでも頼めませんか」


「それがよいかもしれません。……ただ、なぜそこまで?」


「才能を持つ者が実力を発揮できない状態は、苛立ちを感じてしまうのです」


「なるほど。マックイーンやノーザントーストに対するのと同じようなものですか」


「そういうわけでは……、いや、そうなのかも」


 ふっと雰囲気を柔らかくした仁科師が続ける。


「上田競馬の嵐山くんも、なかなかの乗り手ですな」


「ですよね。実は高校の先輩なのです。機会があればいい馬を回してあげてください」


「承知しました。……その若さで衒いなく縁故を推せるのはよいことです」


「潔癖さには欠けているかもしれません。まあ、清すぎても」


 出走馬達が一巡りしたところで、赤子をあやしながら、美冬が出てきた。


「あー、間に合わなかったか。高瀬騎手とはあいさつしておきたかったのに」


「なあに、三十分もしないで、本馬場で会えるさ。もっとも会話が成立する状態かどうかはわからないけど」


 美春のほっぺたをつつきながらも、俺の胸には確信があった。既にGIの結果を変えることへの抵抗は溶け去っていた。


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