【平成二十四年(2012年)早春】
【平成二十四年(2012年)一月】
遥花さんとそのご夫君が二日の夜になって顔を見せてくれて、その年の正月はにぎやかなものとなった。金杯開催が済んで来客を送り出し、一息ついたタイミングで、不穏なメッセージがスマホに入ってきた。
この頃は、いわゆるガラケー全盛の時代から、新しもの好きがスマートフォンを導入し始めた頃合いとなる。爛柯牧場やひふみ企画周辺では、社用携帯としてiPhone4Sを一斉に導入して、貸与する形を取っている。
日本では、徐々にiPhone比率が上がって、一時はかつてのMECのパソコン、98並かそれ以上のシェアになる。前世での俺はアンドロイドで通したのだが、拘る必要もない。この時点では社用携帯はiPhone、私用はガラケーとしておいて、そこから先は各自に任せるとしよう。機種を共通にすることで慣れない人を周囲がケアできるようにとの思惑の他に、災害時向けの対策として複数のキャリアが使えた方がいいとの事情もあった。
災害対策も大切だが、もたらされたメッセージは美冬からのものだった。お前の家族は預かった、というのはいかにも不穏である。
美冬がイタズラ好きであるなら、苦笑しながら対応すればいい案件なのだが、妻となった人物の中にそういう気質を見出した記憶はまったくない。堅いだけのキャラでもないのだが。……いかん、思考がおかしくなっている。
返信して目的を問うてみたら、場所が指定された。誰にも知らせずに徒歩で来いというのだが……、そこそこの距離である。どうやら廃牧場であるようだった。
行程は難儀だが、身重の美冬の安全以上に優先すべきことは俺にはない。かといって、俺がそこで変事にあって、美冬がそのままというのが最悪の事態なので、事務所の机に書き置きは残しておいた。
街道をやや難儀しながら踏破して、指定された牧場跡の敷地に入る。車が出入りした様子はあるが、姿はなかった。
「ごめんくださーい」
応答はないので母屋の玄関に手をかける。廃牧場とはいえ、一定の手入れはされてきたようで、室内が荒れ果てているわけではなかった。
雪を払っていると、階段から降りてくる気配がした。姿を表したのは、タロエモンの名でかつてメディアによく登場していた、暮空太郎氏……、今となっては俺の義父にあたる人物だった。
「要求に従わなければ、あいつの身に危害が及ぶだろう」
一応は父親のはずなのだが、娘とそのお腹にいる孫を人質に取るとはどういう料簡なのか。……ただ、かつて上田競馬場に美冬を置き去りにした経緯や、借金取りの襲来を受けると妻子を置いて逃げ出した件に、旧ひふみ、ワンツースリーで遥歌さんから経営権を奪ったやり口、会社の危機でまた逃げ出し、落ち着くと奪い返しに来た流れなどを考え合わせると、行動律から外れているとは言えない。我が義父ながら、なんて人なのだろうか。
「なにが望みなのです」
「お前が得ている総てを寄越せ」
「総て……とは?」
「資産の総てだ」
「わかりました」
「従わなければ……、なんだって?」
なんだかコントのようなやり取りになってしまっているが、少なくとも俺の方は大まじめである。
「承知した、と言いました。念書でも書けばよいですか? 個人の口座にある額は、すぐに振り込みましょう。いくらあるかは、ちょっとわからないけど」
「総てを譲る、と言うのか?」
「金融資産はもちろん、会社絡みのすべての権利も。妻子の安全のためとあらば、致し方ありません」
「バカにしやがって。……お前もそうなんだろ?」
「はい?」
「お前も転生者なんだろ?」
「なんですとぉー?」
思わず、姉の口癖がこぼれだしてしまった。
「元の知識を持ち込んで、それでうまくやっているんだろ? なんて不公平なんだ。俺は、ほぼ記憶を抹消されたっていうのに」
「……どうして抹消されたんだ?」
「馬券を買いすぎたんだ」
「なんだって?」
俺はやや途方に暮れる思いで問い返していた。対して、タロエモンはなにやら自分の世界に入っているようでもある。
「あの三頭で決まれば、一発逆転できたはずだったんだ。それを、ちょっと賭け過ぎたなんて理由で台無しにしやがって」
「三頭……、まさか、ミントスムージーとペペロンチーノと……」
「トマトソースだ。くそっ、そんなとことばかりはっきりと思い出せるなんて」
「……あのレースがその三頭で決まって、十万馬券になると事前に知っていたってことか?」
転生者同士という感覚からなのか、口調がぞんざいになるのを止められずにいた。まあ、どうやら本人の思考は自分自身のことに終止しているようなので、問題もなかろう。俺の言葉が届いているのは、次の反応で明らかだった。
「ああ。あれは印象的だったから、覚えていたんだ。その三頭が競走中止になっただろう? あれは、結果を知っていた俺が買っていたからだ」
「あんたが馬券を……、だが、それならばあんただけ抹消すればよかったはずだろうに。馬に危害を加える必要はない」
「さあなあ。借金のカタに馬券を預けていたからかもな」
「そうか……、あんたが原因だったのか」
あのまま三頭で決まっていたら……。姪っ子が亡き父から引き継いだ借金はその配当で完済され、騎手になる彼女を見守れていたはずだ。
「あの馬券が紙屑になったことで、元の人生での寿命まで、死ぬにも死ねない生き地獄だったんだ。それなのにこんな……。バカにしやがって」
それは自業自得というものだろうに。俺の胸の中に恨む気持ちは湧いていたが……、こうして期間限定にしても生き直しの機会が得られたのだと考えると、悪いことばかりではなかったのかもしれない。転生後の想い出をかき集めて、俺は息を吐き出した。
「まあ、転生前の残り時間と、転生後のこれまでを考えれば、良しとすべきなんだろうな。全財産を渡すから、美冬を返してくれ」
「どこまでもバカにしやがって」
持ち出されたナイフは、そのまま俺の脇腹に吸い込まれた。世界はゆっくりと暗転した。なんでだ……。
次に意識が呼び起こされたのは、耳障りな乾いた打撃音によってだった。目を開くと、ヤスさんがタロエモンを無言でぼこぼこにしていた。
義理のお父さんなんだから、手加減してあげた方がよいのでは、とはちらっと思ったのだが、正直なところどうでもいい。
脇腹を確認したところ、血は出ていたものの致命傷ではなさそうなので、俺は階段から二階を目指した。
階段を上がると、固まりかけていた傷から血が流れ出て、またくらくらしてきたが、現状を考えれば些事でしかない。
二階の廊下には少しホコリが積もっていて、人の動きの跡がはっきりとわかる。俺は、迷わず一室の扉を開いた。
あたたかな空気が、廊下へと滑り込んできた。そして、耳に馴染んだ声が追いかけてきた。
「智樹っ。無事だったの? 事故に遭ったと聞いていたのだけれど」
安定期に入っているとはいえ、母体の安全に気を使うべき時期である。室内に置かれたベッドは、清浄そのものというわけではないが、汚れている感じではない。
どうやら無事らしい様子に、俺は安心してへたり込んだ。
「ああ、そうなんだ。脇腹をちょっと怪我しちゃってな」
「あら……、ホント。けっこう血が出ちゃってるのね。早めに消毒しないと。病院へはまだ行ってないの?」
「そうなんだ。これから行ってくるよ。……美冬はだいじょうぶか?」
「うん、私もこの子も」
お腹をさする様子に危機感は浮かんでいない。だいじょうぶじゃないのは、その子の祖父なような気がする。
美冬の手持ちのタオルを包帯代わりに応急手当をした状態で、俺は階段から顔を覗かせた。
「ヤスさーん、美冬は無事だったのでほどほどにねー」
「そうはいくか」
どうも、まだ折檻は続いていたらしい。頼もしいのだけれど、ちょっとなあ。
階下に降りてみると、遥歌さんの姿があった。
「我が義兄はなかなかに凶暴だねえ」
ジロリと俺の腹の紅い布を見やってから、義姉は吐き捨てた。
「しょうがないでしょ。元若頭なんだから」
殴られている方への親近感は、口調からは感じられない。美冬が現状で父親にある程度の信用をしているのとは好対照だった。
「あれ? ヤスさんは若頭のふりをしてただけで、本業は競馬記者で堅気だったんじゃ?」
「そんなわけないでしょ。泣く泣く創始会からは抜けたけど、本来はオヤジさんの近くにいたかったはず」
「そうなのか。子どもの頃の話を引き継いじゃっているにしても、すっかり騙されてたな。……遥歌さんは、その関係でイニシアルになってからは、表に出なかったってこと?」
「まあ、その影響は否めないわね。内縁にしても、夫が任侠出身じゃ、いつか騒ぎになりかねない。……でも、いいの。充分に幸せだから」
それはなによりである。暮空家のこれまでの災難には、俺の存在が影響した可能性が大きい。まあ、ノミ屋からの借金の話がなくても、タロエモンはいずれ破滅していた気はするが、遥歌さんは無事に社会生活を送れていた可能性も高いのだった。
ただ、遥歌さん視点からすれば、俺が責任を感じるのは筋近いでしかないだろう。
「ほら、美冬が心配するわよ。こっちはいいから」
「わかった。……命までは取らないよね?」
「どうかしら」
ふっと笑ったあたり、夫の影響を受けているようでもあった。
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