【平成二十三年(2011年)】


【平成二十三年(2011年)早春】


 留学から戻ってきた薙野孝志郎の隣には、婚約者だという女性の姿があった。話を聞くと、なんと給付型奨学金の獲得を争い、持っていかれた当の相手なのだという。押原樹理という名のその人物とは今回の留学先が同じで、意気投合したのだそうだ。


 なごやかに迎えるつもりだったのだが、孝志郎の連れ合いから、強烈な視線が飛んできた。


「なんなの、お宅の配合は」


 あいさつもそこそこに発せられた問い掛けには、明らかな棘があった。


「いや、確かに主流の血統を無視しているけど、それには理由があってだな」


「そこには文句はないの。零細血統を使うにしても、なんでどれも行きあたりばったりなのよ」


「いや、それは……」


 正直なところ、心当たりはある。長距離系統の馬を掛け合わせるのが優先で、いわゆる配合理論はあまり重視していないし、先を見た配合を出来ているかと言われれば……。


「それに、ステディゴールドとメグロマックイーン牝馬はないでしょうよ。気性的にも、まっとうな馬が出る可能性は低いのに」


「いや、でもドリームトラベルとか……」


「あの馬もねえ。競争能力自体はいいんでしょうけど、ノーザントーストの3×4によって、父母両方の気性難をストレートに出している気がするし」


「あれ、そっか……、ノーザントーストの奇跡の血量なのか」


 3代前と4代前に同じ馬がいる場合、18.75%がその馬から引き継がれていることになる。その状態が、奇跡の血量と表現されている。


 ステディゴールドは4代前にノーザントーストがいて、メグロマックイーンにはその血は入っていない。ドリームトラベルと、その全弟であるオルフェーヴルリは、母系の三代前にノーザントーストがいるため、3×4が成立しているのだった。


「ノーザントーストは母系の良さを引き出す性質があったから、その影響があるのかも。でも、気性難がきつく出ちゃったら、とても扱えない馬になりかねない」


「なるほどなあ。……ステディゴールドとメグロマックイーン牝馬の配合は、この牧場の基幹馬とするためのものではなくて、売るための配合なんだが、真摯さが足りなかったと言われればそうかもしれない」


 美冬とエスファの相馬眼があれば、この配合に頼らずともやっていけた可能性が高い。まあ、俺が他のステマ配合だとどうなるのか見てみたかったのもあるが……。せめて、馴致と基礎調教を春待先輩に手厚くしてもらって、緩和を目指すとしよう。


「指摘はもっともだ。理論はうちの弱いところでね。よければ、ご教示願えるかな」


「……もっと抵抗するかと思っていたのに。なんにでもサンデーサイレントやディープインパクツをつけるのが、日本の馬産界の潮流なんでしょ」


「そうだなあ。圧倒的トップの譜代牧場の現総帥が、いい馬にいい馬をつけるのが常道だと公言してるもんでな。我が爛柯牧場は、彼らの眼中にない芝の長距離とダートを主戦場にして、特に芝馬について、いずれ来るかもしれない血の飽和を避けるために、消え去りそうな血統を残そうとしている。……ただ、配合は感覚だというのが、前場長からの方針でね。理論というのは結局のところ、実践の積み重ねから導き出されるものかとも考えていたし」


「それはもちろんそうなんだけど、過去の知見を無視する必要はないでしょ?」


「至極ごもっとも。ぜひアドバイスを欲しい。……ところで、孝志郎も含めてだけど、ひふみ企画かイニシアルの手助けをする気はないかい?」


 競馬は必ずしも詳しくないため、おとなしかった孝志郎が口を開いた。


「暮空の姉さんのところは、復活してるのか?」


「ああ。タロエモンとは決別して、新たにイニシアルという企業を旗揚げしている。本人は前面に立たないらしいが、彼女の手になる会社なのは間違いない。一方で、競馬方面の企画やサイト制作を手掛けるひふみ企画は、最初のまま健在だ。……数学系の知識は重要だし、馬券の自動投票システムなんかも、ありなんだが」


 前世の記憶によれば、出走馬の情報を自動で分析して、投票までも自動化し、大量の資金を運用して収益を上げるシステムを作っている人物がいたそうだ。なぜそれが明らかになったかというと、馬券の損失分が経費として認められず、当たった分だけを一時所得として計算しての追徴課税が行われ、裁判に至ったためとなる。


 税務当局によって摘発された側の主張は、税金を申告していなかったのは認めるが、反復して購入していたのだから、年間を通じての利益分のみに課税するべきだ、という、もっともなものだった。


 ただ、税務当局側がこの主張を認めてしまうと、一般の馬券購入者が高額配当を得た時に、年間トータルで負けているのだからと、税を払わずに済むことになりかねない。これは、今までの在りようと離れる、という発想からの追徴だったと思われる。


 最終的に確定した判決は、システム化して反復して購入した場合は経費と認める、との内容だった。


 これを踏まえると、法人として反復購入をシステム化して、税務申告をした状態で利潤を上げられるようにすれば、資金運用として有効になるだろう。その利潤を天元財団に投入していければ、とまで話したところで、孝志郎が乗り気になった。


 俺の前世で培った馬券術と、統計分析的手法が合わされば、いけるのではないか。まあ、ダメで元々ではある。


 中央競馬、地方競馬の各場のどこかで有効な手法が確立させられれば、横展開も考えられる。もっとも、地方競馬では総額が小さいので、やはり中央競馬が望ましい。


 かくて、配合分析と馬券自動購入システムの構築検討が並行して行われる流れとなったのだった。同時にイニシアルでは、より専門的な方向性での活動を期待したいが……、まあ、引く手あまただろうからそこは好きにしてくれればいいのだけれど。



【平成二十三年(2011年)春】


 震災は、ほぼ前世の記憶通りに展開した。津波被害と原発事故について、また、テレビでの代替コマーシャルの中毒性関連の詳述は避けて、競馬中心に触れていくことにしよう。


 震災直後の週末である3月12日、13日の中央競馬の開催は中山、阪神、小倉の全場で中止となった。中央の競馬場での施設の被害は、中山競馬場と福島競馬場が激しかった。福島競馬場では、観覧席の天井が落ちたそうだ。観客が入っていれば、人的被害が出ていたかもしれない。


 南関東では大井が、北関東では宇都宮が開催中だったが、レース打ち切りとなり、首都圏競馬の各場は一斉に休止に入った。


 東京電力管内の計画停電、交通網の乱れ、原発事故の影響が不透明であったことなどから、翌週の中山競馬の開催は見送られた。一方で、阪神、小倉は翌週から、二週間にわたる被災地支援として再開されている。


 地方競馬は対応が分かれた。東京電力管内か否かで、状況が大きく違っていたためである。上田、高崎、宇都宮の連携三場のうち、上田競馬だけは中部電力の担当域だったが、連携優先で早期再開は避ける形となった。




 3月26日に開催されたドバイワールドカップを、ニューユニヴァースの子で、サンデーサイレントの孫にあたるヴィクトリーピザが日本馬として初めて制覇し、暗く沈んでいた競馬界に光明をもたらすことになった。しかも、トランセンディングとの日本馬ワンツーだった。


 関東での中央競馬の再開は、4月23日となった。東京競馬場で翌日に行われた皐月賞では、オルフェーヴルリが制覇した。揺らぎがなければ、ステディゴールドを父に、メグロマックイーンを母の父に持つ、ドリームトラベルの全弟であるこの馬は、三冠を達成することになる。


 上田、高崎、宇都宮も、中央競馬と南関東の再開を受けて、開催を決断した。競馬界では弱小勢力なだけに、目立つのを避けた面はある。五月末までを復興競馬としたのも、その方向性からとなる。


 同じ四月にメグロ牧場が解散したのには、東日本大震災の影響はどれだけあったのだろうか。長距離戦線で存在感を示してきたのも確かだが、三歳クラシックを含めた主流路線を志向していた状態である。爛柯牧場が長距離特化でなんとかやっていけているのは、そもそもが地方馬主相手の商いをしていて、上田競馬というダートながらも長距離馬の逃げ道があり、中央長距離で稼いできてくれたら余禄として捉えられる状態だったからなのだった。


 この前年にキングオブクールが……、メグロアサマ、メグロティターン、メグロマックイーンと続くメグロ牧場由来の血統の馬が菊花賞を制覇していれば、また違っていたのだろうか。ただ、他者の運命を変えられていたかもなんて思い上がりは、避けた方がよいのだろう。




 牧場には、いや、俺の身辺には大きな変化があった。牧場としても、馬主さんの事情で配合方針が大きく書き換えられ、てんやわんやであるのだが……。


 美冬とは、幼馴染のきょうだいのような関係性で、同時に天元場長の遺志を継ぐ同志として、生きていくのだと思っていた。


 俺の側からすれば、自分の寿命が前世での死の瞬間までと限られているから、というのが大きい。同時に彼女の方も、生来の身体の弱さから子を成せないと考えていて、そのために結婚は、だれかと連れ合いになるのは考えづらい状態だったようだ。


 ただ、震災がその状況を変転させた。多くの人が人生を強制的に途絶させられたことで、美冬の人生観が揺らいだのだ。かつてのアメリカ同時多発テロの夜と同様に、二人で震災のニュースを寄り添って見る時間が多くなったのも、影響したのかもしれない。


 自分の身と引き換えにしてでも家族が欲しいと言われて、俺は自分の死期を把握していると白状せざるを得なかった。


 2019年……、平成最後の年にして、令和元年となる年の半ばに、俺はこの世界から消滅するだろう。美冬には時期こそ明言しなかったが、あと十年も生きられないことは告白した。


 美冬に万一のことがあれば、二人で子を成したとして、その子は早い時期に両親を失うかもしれない。俺よりももっと早く。


 そう告げたとき、美冬は少し安堵したような表情で頷いたのだった。


 それでもいいの。きっと、みんなが見守ってくれる。


 親しい存在の言葉に、俺はエスファと遥歌さんに、春待先輩、西秋父子、弟の雅也らの顔を思い浮かべた。頼るに足る、愛すべき人たちである。その他にも、父さんと母さん、ヤスさん、ザクくんと雪代さんの夫妻にヤマアラシ先輩、ことねん、他にも多くの人と触れあってきた。今生との関わりは、深いものとなっている。


 そうして、俺は彼女を受け容れた。二人は家族になる約束を交わした。



【平成二十三年(2011年)初夏】


 親族の不幸があったとのことで、故郷に戻っていたままだったエスファが久しぶりに顔を出した。それまでは出産シーズンにはなるべく滞在するようにしてくれていたらしい。


 今年生まれた幼駒の一頭を目にしたとき、彼女の端整な顔に驚きの表情が走った。


「こいつは……、なかなかよさそうだぞ」


「ディープインパクツ級? それとも、去年のキングオブクールくらい?」


 目線の先にいたのは、カイトウテイオーの牡馬で、美冬の強めの光認定が得られている馬である。母親は、ランカモンブラン。ライブラマウントの娘である。


「ディープ級からは遠いな。キングオブクールとは、同じくらいか……」


「GI級ってことか」


 ダートだとしても、シンボルルドルフの孫にして、アイドルホース的存在だったカイトウテイオー産駒が活躍を見せれば、人気となるだろう。


 エスファの評価を聞いたから、というわけではないのだが、すっきりとした馬体からは利発そうな雰囲気が漂っていた。


 気が早いが、できればなにかの三冠を取らせたい。ダートで三冠と言えば、上田か大井か、はたまた別の競馬場か。


 米国三冠は、さすがに夢を見過ぎだろうが、無事に競争生活を過ごしてくれれば、血統を繋げられそうというのは良い状況である。前年のメグロマックイーンの息子、キングオブクールと共にがんばって、そして無事に帰ってきてほしいものだ。




【平成二十三年(2011年)秋】


 美冬のお腹の中に、新たな命が授かっていることが判明した。


 そうであるなら、また話は変わってくる。姪っ子に騎乗馬を確保するという当初の目的と同じくらいに重く、また困難な目標が設定されたのだった。


 生まれてくる小さき者の行く道を、穏やかで実り多いものに。いずれ自ら飛び出したとしても、戻ってこられる場を用意するために。



 そして、この頃になって、急に周囲の恋愛事情が活発になってきた。当初は震災の影響かと思っていたのだが、実際はそうではなく、美冬と俺の仲が露見したことで、取り立てて伝えていなかった件がオープンになった、という状況らしい。


 距離的に近いところでは、エスファと春待先輩が恋仲であるらしい。この件については、美冬に知らなかったのかと唖然とされてしまったが……、いや、だって、そんなこと想像もできないじゃないか。


 もっと近いところでは、若番頭の西秋隆が幼馴染との結婚を決めたらしい。遥歌さんに寄せていた想いを断ち切ったら、待たれていたのに気づいて愕然としたそうだ。まったく、にぶちんは度し難いものである。


 その遥歌さんは、もうしばらく前から、いろは系企業を束ねるヤスさんといい仲なのだそうだ。そう聞くと、確かに業務的な必要以上に行動を共にしていたようにも思えてくる。まあ、頼れる人物なのは間違いないのだが……、義理の兄だと考えると、戸惑いが皆無と言えば嘘になる。


 そして、我が弟の雅也は、なんとことねん、三浦琴音嬢と結婚を前提に交際中だそうだ。二十歳の雅也に対して、一回り上となるので、なかなかの姉さん女房ということになるが、なんだか熱々らしく、祝福するしかなさそうだ。


 どちらも悪い人ではないとは思うものの、ヤスさんが義兄で、ことねんが義姉……いや、義妹となると、やはり複雑な想いは増強されるのだった。


 周囲が連れ合いばかりになる中で、ヤマアラシ先輩だけは春待先輩に寄せていた想いが行き場をなくし、騎乗に邁進しているらしい。成績には結びついているので、それもありなのだろう。




 半年あまりの休養を終えて復帰したキングオブクールは、降級の関係から再びの1000万下とオープンの長距離戦を勝利し、ステイヤーズステークスで三着と好走した。


 いずれのレースも、鞍上は高瀬巧騎手である。仁科厩舎の主戦騎手となっている彼には、長距離ならばとの評判が立ち始めていた。



 来年の期待馬としては、ダートが向きそうということで上田に入厩して、二歳戦線で活躍しているランカリアリティの娘、ランカシュヴァルツが挙げられる。


 隙間産業という意味では、マチカゼフクキタル産駒のランカフェリクスが中距離からクラシックのオープン、GⅢで好走している。このあたりの仁科調教師の見る目は確かで、無理めなところを挑戦するよりも、堅実なところを狙う傾向にある。それでいて、攻めるときには攻めつつ、その根拠も言語化してくれるので頼りになるのだった。


 このランカフェリクスも、種牡馬入りさせる計画を進めている。長距離血統の保全は、爛柯牧場にとっては生命線で、抜群の競争能力を持つ馬だけに限定している余裕はなかった。仮にその馬自身の能力の低さから、血脈に伝わる能力を引き継げなかったとしても、主流血統から外れた馬であるというだけで、一定の意味はあるのだった。



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