【平成九年(1997年)晩春 東京競馬場】
【平成九年(1997年)晩春 東京競馬場】
天元のじっちゃん……、いや、天元護久氏は、孫の顔を見に来るためだけに本州を訪れたわけではなく、ダービー観戦も兼ねていたらしい。
遥歌さんの会社で一口馬主として出資しているキヌノジャスティスも出走するんだとの話から、一緒に行こうかと転がるのは自然なことだったのだろう。
ゲーム系のグラフィック職人とプログラマーを手に入れたひふみ企画は軌道に乗り始め、東京に事務所を設置していた。府中の北に位置する小金井市の武蔵小金井駅ごく近くにある小さな三階建て貸しビルの二階が新たなアジトである。遥歌さんが学生時代に住んでいた寮が近くて、土地勘があるのが決め手となった。
小金井名所として名高い、朝夕のラッシュ時には一時間に数分しか開かないという開かずの踏切を一望できる立地で、この建物は中央線が高架になっても生き残るはずである。ここを維持していけるだけの利潤を確保したいところではあった。
広告系に重心を置くとなると、俺の依頼による馬絡みの部分は余計なのかもしれないが、現時点だけを見れば、一口馬主からの収入は貴重なはずだ。
天元のじっちゃんに続いて馬主席に入るところで、黒づくめの少女とすれ違った。こぼれた金髪に記憶が刺激されて視線を送ると、胡乱げな表情で見据えられた。そこで、はたと気がついたようだ。
「アレサイクロンとプルミエプリンスで一点勝負してた、あのイカれた馬券師か」
明らかに異国風の顔立ちだが、言葉は流暢である。
「失礼な。……色々と事情があるんだって」
「ふーん。ダービーはなにから?」
「シャインブライアンから」
苦笑を残して、金髪の少女は去っていった。雰囲気のある容姿でだいぶ大人びて見えるが、実際には同い年くらいだろうか。
なぜか美冬に睨まれながら馬主席フロアに入ると、色とりどりの競馬新聞にぎょっとさせられた。すっかりいろは馬の落ち着いた色合いの紙面に慣れていたんだなあと、改めて実感する。
中学生は、馬券を買うことはできない。よだれを流しそうに見えたのか、天元のじっちゃんが苦笑混じりの声を投げてきた。
「代わりに買ってやろう。いや、昨今ではそれはまずいのか。……まあ、話を聞いた上で好きに買って、当たったら小遣いをやろう、ということだな」
「助かるよ。じゃあ、シャインブライアン、キヌノジャスティスの馬連一点勝負に、俺の手持ちのほぼ全額五万円。あと、小銭でシャインブライアンっ」
「なんでよ! そこはジャスティスの応援馬券でしょうよ!」
「いや、その……」
抗議の声を上げた遥歌嬢に、俺はささやき声で依頼を投げた。
「天元のじっちゃんには、マーチステークスでの馬券のことは内緒にしてほしいんだ」
「どうしてよ」
「化け物だと思われる」
「そんなことないと思うけどな。ねえ、美冬」
「いや、美冬だって、変なやつだと思ってるんじゃないのか?」
「なにをいまさら。……どれだけ一緒に過ごしたと思ってるのよ」
ささやくような声での後半の言葉は、俺の耳で拾うことはできなかった。
観戦中に、話題は牧場の移譲についても及んだ。
「一人娘はあんな風だし、お前たち孫娘に押し付けるわけにもいかないしな」
「牧場は楽しそうね。……わたしには、とてもじゃないけど無理そうだなあ」
「いや、なにも牧場仕事を一人でやってくれという話じゃないんだぞ。……番頭に任せつつ、どこかの時点で畳もうかと思っていたんだが、継続を視野に入れるとなると、相続との絡みで頭が痛い」
「法人化するとか?」
「少年にもそう言われたが、考えてみている。遥歌、お前も経営者なのだな」
「そうなの。悪い友人に唆されてね」
ジト目を向けられても、俺には知らんぷりをするしかなかった。
ダービー前には、競馬場全体を特殊な空気感が包み込む。楽しむモードの中に、幾人かそわそわしている人物が見受けられた。十八頭の出走馬には、どれだけの関係者がいるのだろうか。
いつか、前世での姪っ子の風香がダービーで手綱を握る日が来るのを想像してみる。けれど、はらはらしながら見守る未来は、俺には訪れないはずだ。遠い目をしていると、美冬が不審げな視線を向けてきた。まあ、本来は期待感に満ち溢れているべき局面である。
そうこうしているうちに、発走時間が近づいてきた。
一番人気に推されていたメグロブライトが追い上げるも、大逃げを打ったシャインブライアン、先に抜け出していたキヌノジャスティスに続く三着に留まった。
キヌノジャスティスの二着に姉妹が狂喜し、俺の一点勝負的中に天元老人が目をみはっている。周囲でも、悲喜こもごもの声が湧き起こっていた。総てが活き活きとして見えるのは、ダービーウィークの華やかさもあってのことだろうか。
この年のダービー二着の本賞金は5300万円となる。キヌノジャスティス単独では、プラス収支に持ち込めた状態だった。そして、ジャスティスにはこの年末に大仕事の期待がかかるのだった。
遥歌さんと二人になったタイミングで、天元のじっちゃんから借金についてヒアリングを受けたと聞かされた。
「なんとかなったらしい、と応じたら、あいつがどうにかしたのかと意外そうだった」
この場合のあいつとは、姉妹の父親である暮空太郎氏のことだろう。沈黙を守っていると、やや困ったようにひふみ企画のオーナー経営者が口を開いた。
「父さんのためと思って、そうしたわけじゃないの。智樹くんには、自分の手柄だと明かすつもりはなかったみたいだから」
やや歯切れが悪いようでもあったが、父娘でそうそう割りきれるものでもないだろう。前世での姪の風香と構図は似ているようだが、主に父親側の心根がだいぶ違うようではある。我が姉の夫は有能ではなかったが、娘に苦しみを与えて平気でいられるような人物ではなかった。
美冬とじゃれあいながら戻ってきた天元のじっちゃんは、懐を叩いて問うてきた。
「この馬券の金はどうする」
「牧場のみんなとおいしいものでも食べてよ」
「豪儀じゃな。なら、坊主が望んでいた馬作りのために使うか」
「二百五十万じゃ、種付け一頭分にもならないんじゃ?」
「なんの、やりようはあるさ」
ニヤリと笑うからには、きっとそうなのだろう。
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