【平成二十九年(2017年)】

【平成二十九年(2017年)春】


 生産シーズンが進んだある日、エスファが執務室に駆け込んできた。


 腕を取って連れ去られた先は、ルンルンマモリフダが入っている馬房である。


「見ろ、この馬を」


 大仰な身振りは、やはり洋物ゲームの美麗映像のようである。その先には、ルンルンマモリフダと生まれたばかりらしい幼駒がいた。


「母親譲りの見事な金髪だねえ。栗毛と栃栗毛からだから、まあ、その可能性はあるか」


「違う、オーラの話だ」


「いや、それは俺には見えないんだって……」


「なにもささやくものはないのか?」


「自家生産馬にはささやきは無効だって言ってなかったっけか」


「あー、もういい。あのセレクトセール並みだ」


「は……?」


 ここにいるのは、ルンルンの馬主さんへの最後の贈り物向けの、能力度外視のルンルン配合の仔馬のはずである。


「例のあの馬並みだって言ってるんだ」


「そんな、名前を言ってはいけないヴォルデモート卿みたいに言わなくても……。虹色ってことか」


 うんうんと頷くエスファに余裕はなさそうだ。


「あたしにも、いつもよりも強い光に見える。こんなの初めてなんだけど」


 美冬も戸惑っているようだ。まさかの展開に、慌ただしくなりそうだった。




 ルンルンの孫娘さんに連絡を取ったところ、意外な展開にとても喜んでくれた。


 何度かのやり取りの中で、馬名候補を挙げてほしいとの先方からの伝言を、相談役からも引退しつつある健司さんが預かってきた。


「ルンルン配合の結晶なんだから、こちらが口を出す必要はない気がするんですけど」


「ぜひ、智樹さんの考えを聞きたいとのご希望です。応じないのはいかがなものかと」


「なら、ネタに走るか……」


 皇帝ルドルフからカイトウテイオーへと続く帝王の系譜となるからには、そちら方面の名付けであるべきなのだろう。見事な金髪で、父親は爵位のないナイト……。その父親とは似ても似つかない息子。そして、皇帝位を継ぐべき存在。


「キンパツノコゾウ、でいいいかな。クタバラナイカイザーとか……、いや、十文字になっちゃうか」


 俺がイメージしたのは、昭和の末期から平成の初期にかけてアニメ化され、平成の末期に再アニメ化される作品に登場する金髪の主人公である。いや、主人公はペテン師、もとい、魔術師の方なのか。なんにしても、金髪の皇帝となると、どうしてもその人物が思い浮かぶ。


 そのキャラクター、そのものズバリの名付けをされた馬が、前世には存在していた。プラチナアリュール産駒で期待されていたのだが、その馬が出走することも叶わずに亡くなったとのニュースを目にしたのは、平成最後のクリスマス……、来年の冬のことだった。


「では、渡してきます」


「その冗談、通じるかなあ?」


「そのはずです」


 にっこりと笑って、健司さんは部屋を出ていった。




 その日の夕方に、一枚の紙が持ち帰られた。そこには、「命名 ランカラインハルト」と書かれていた。


「どういうことです? リクエストを受けてのルンルン馬同士の配合を、ルンルンが所有しないなんてありえません」


「それは……」


「こちらからのリクエストは、なかったというお話じゃありませんでしたか」


 廊下からの声には聞き覚えがあった。登場したのは、ルンルンの総帥だった。ぐっと詰まってしまったが、なんとか態勢を立て直す。


「実は、お孫さんからのサプライズプレゼントだったのです。サプライズでしたから、口外できませんでした」


「当人に露見してもなお、でしょうかな」


「ええ、そこは堅めに考えませんと。……それはそれとしまして、ルンルン配合を爛柯牧場が持つのはありえません」


「そうでしょうか。ルンルンナイトもルンルンマモリフダも、正式な手続きを踏んで売却済みです。こちらには何の権限も残っていないはずですが」


「契約の話はしておりません。あるべき姿の話をしています」


「あるべき姿だというのなら……、マモリフダを所望したのが間違いでした。つい、恩人的な調教師さんの引退時期にいい馬を、などと考えてしまって、先方にも馬にも悪いことをしてしまって」


「いえ、それは決して……」


 決して、どうなんだろう? ここで嘘をつくべきではないのだが、悪気はなかったわけだし、なんて言葉が長年経営の陣頭にいた人物に響くとは思えない。


 ふっと笑った交渉相手からは、変わっていませんなとの心の声が聞こえてきた。


「同じ轍を踏むわけにはいきません。ルンルンの馬にしてしまっては、朱雀野先生に預けたとしても、能力を十全には引き出せないでしょう」


「そんなことも……」


「活躍を見せてもらえれば充分です。マモリフダの調教師さんも、応援してくれると言っていました」


「もう、馬は持っていただけませんか」


「充分に楽しみました。そして、最後にいい夢までも。……孫娘は、おそらく馬主にはならないでしょう。引き際はきっちりしませんと」


 そこについては同感である。であるならば……。


「承知しました。爛柯牧場の全力をもって能力を引き出します」


 俺の言葉に反応して、ルンルンの総帥の瞳が煌めいたように見えたが、向けられてきた視線は穏やかなものだった。

 


【平成二十九年(2017年)初夏】


 ランカユキタカは二歳になり、順調に成長を遂げてくれているようだ。ひふみレーシングクラブでは、一口馬主の募集も始まっていた。


 ただ、真田幸隆の名にちなんだこの馬のデビューを楽しみにしてくれていた二人が、相次いで命を落とした。恩人二人の葬儀のために、俺ら一家は上田を訪れていた。


 上田競馬組合を長年引っ張った、まだ小学生だった俺の話をまじめに検討してくれた元顔役の葬儀は、なんの問題もなく悼むことができた。そもそも葬儀委員長が父さんだったし、息子さんと奥さん、お孫さんとも面識がある。


 松代の高校で教鞭をとっている息子さんからは、最初は競馬なんて無くすべきだと言っていたとの打ち明け話を聞かせてもらった。父さんは、その意味でもいい後継者だったのだろう。


 対して、創始会の元親分の方は……。暴力団排除の絡みで、葬儀を請け負うことすら本来はご法度となる。本人からの葬儀無用との遺言もあり、当初はどう見送るのかで紛糾したようなのだが、かつて世話になったからと侠気を見せた葬儀屋によって、手厚く準備が整えられた。


 構成員個人としてならやりようはあるらしいが、元親分となるとそうもいかない。しかも、なかなかの歴史を持つ組織が、この元親分の死を契機に任侠としての活動を停止するとなると、県の内外からその筋の大物が訪れる流れとなった。


 警察が周囲を固めての葬儀では、もう立場のある人物は参加できない。それでも、引退済みの元市長は焼香だけにしても参加したし、現市長も近くまで来て頭を下げていったらしい。


 俺自身は、どこの組織の代表者でもないので、家族で参列させてもらった。そういう意味では、爛柯牧場の代表である美冬の参列は本来ならまずいのだが、小学校時代の同級生の祖父でもあり、父親の窮地を救ってもらった恩もあるからには、欠席という選択肢はなかったようだ。


 俺たち親子三人は場違いだったかもしれないが、孝志郎と樹理が近くに呼び寄せてくれたので、それほど目立ちはしなかっただろう。参列者席では、様々な因縁からのあれこれがあったらしいが、正直なところあまり興味はない。


 死に顔は、前日に見た競馬組合の元顔役と同様に、穏やかなものだった。冥福を祈るとしよう。……俺は、死後はどうなるのだろう? 彼らと同じ場所に行けるのだろうか。女神と会ったことはあるが、どうもイレギュラー対応だったようにも思える。


 そして、辛い立場となったのは、ヤスさんだった。いろは馬、いろはフーズといったグループ企業を束ねる身としては、創始会との関係を絶ったことを示さなくてはならない。けれど、別れの席にまったく立ち会わないのはありえない。


 葬儀場の出口で合流しての、棺桶を担ぐ場面だけの参加というのが、かつての若頭の選択だった。


 その週の開催時には、上田競馬場では半旗が掲げられた。メインレースの後の黙祷は、表向きは競馬組合の亡き長老にだけ向けられたものとなった。




「いやぁ、場内から上田競馬を見るってのは新鮮なもんだなあ」


 観覧席に腰を据えた産休中の女性騎手のコメントは、のんびりモードの響きとなっている。月曜日の今日は、昼には宇都宮競馬、夜は川崎競馬の場外発売が行われている。


「ヤマアラシ先輩がまともな発言をしている……。なんてこった」


 俺の対応に、相手は針を立て始めた。


「お前……、本当にあたしをなんだと思ってるんだ。この腹を見ろ。ちゃんと人間だろ?」


「連れ合いを得たというのが、どうにも信じられなくって。……単性生殖じゃないでしょうね」


 むきーっと威嚇してくる高校時代の先輩の傍らには、前世での騎手学校での同級生の姿があった。


「高瀬騎手。本当に、こんなのが相手でよかったのかい?」


 どういう意味だ、との詰問をよそに、巧は照れた笑いを浮かべていた。


「得難い存在だと思っています。騎手としても、人生の伴侶としても」


 頬を赤らめるヤマアラシ先輩というのも、レアな存在である。かつて春待先輩に襲いかかりそうな目をしていたのと同一人物だとは思えない。


「時雨里、また失礼なことを考えているな」


「わかります? 実は、先輩に対しては、大抵そうなんですけどね」


「お前なあ……。まあ、あたしは今、すべてを許せる気分だから、特別に勘弁してやろう」


 そう言ってお腹をさする様子は、なかなかの貫禄である。


「それにしても、こんなに競馬から離れるのは、初めてなんじゃ?」


「そうなんだよ。いや、これがまた本当に見方が変わってなあ」


「どう変わったんですか?」


「俯瞰というとオーバーなんだが……、これまでもレースの時の隊列は全体を把握しようとしてたし、映像を見ることもあったんだけど、やっぱり騎乗者の視点だったんだな。だけど、月単位で離れたことで、別の視点が加わったというか……」


「予想屋として身を立てたくなった感じ?」


「誰がじゃ」


 予想屋とは、公営競技の開催場で許可を得て、生講釈をして買い目を売る存在である。この時期には、予想会社としてネットに移行している場合がほとんどだろう。


 さらにふざけあっていると、美冬と巧に生暖かい目で見守られていた。そろそろ潮時のようだ。その辺の察知力は高い嵐山騎手が、腹を撫でながら問いを放ってきた。


「それで、厩舎には寄れるのか?」


「もちろん」


 今晩は、朱雀野厩舎に招かれているのだった。俺の答えに、妊婦さんは満足げな笑みを浮かべたのだった。




 朱雀野厩舎での宴会は、なかなか大規模なものだった。ホスト役のザクくん、雪代さんが忙しく動き回っているなかで、子連れ組の対応は小学五年生の娘さん、孝子ちゃんが担当していた。牧場と同様に来客が多いために、自然と慣れてしまっているようだ。周囲に自然な笑みをもたらすあたり、どこか遥歌さんに近しいところもありそうだ。


 子供世代は年の頃がばらばらではあるが、それぞれに楽しんでくれているようだ。そして、妊婦であるヤマアラシ先輩が場の最上位者として丁重に扱われていた。後でちょっとからかってくるとしよう。


 ここには、亡き競馬組合の長老と創始会の元親分の遺族も参加しており、二人の遺影にお供えと献杯が行われていた。


 手を合わせた俺に、ザクくんが声をかけてきた。


「ようやく、おおっぴらに並んでもらえるよ。厳密には、まだまずいのかもしれないが」


「そこは割りきりだよね」


「違いない」


 ほにゃっと笑ったザクくんは、仮に問題視されても気にしないとの腹を固めているようだ。


「でも、この二人の仲は、実際のところはどうだったんだろう」


「長老級の先達によれば、若い頃にはバチバチにやりあってたらしい。シノギの場として考える創始会側と、防戦する競馬組合とでな。それぞれ、上の世代の思惑もあって、刃傷沙汰も幾度かあったらしいぞ」


「ははあ」


 俺は、分別のついた時代の二人しか知らないわけだが、当然ながら若造だった時分があったわけか。


「それもだいぶ落ち着いて、バブルが去って、廃止となりそうな空気の中で現れたのが智樹だったわけだ。仇敵が同じ方向へと歩く局面は、古い世代には強烈な違和感があったようだぞ」


「二人の協調がなければ、今の上田競馬の復活はあり得なかったと思う」


「ホントにな。そんなわけで、智樹には感謝している」


「でも、俺は……」


 俺が関与したのは、実際のところは父親が巻き込まれたからに過ぎない。気のいい身内が、希望をちらつかせた上でのリストラを重ねてから引導を渡し、恨まれる展開を見たくなかった。ほぼ私情でしかない。


 ここに集まっている人たちは、自分の運命をねじ曲げられたとは認識していないはずだ。明るく盛り上がる面々は、そうと知っても恨みはしないかもしれない。けれど、本来の流れよりも、悪い状況に変わった人たちもいるはずだ。


 転生なんて特殊な事情が介在しなくとも、人が生きるというのはそういうことなのかもしれない。あまり捕らわれると、本質を見失ってしまいそうでもある。


 と、そこにザクくんの娘、孝子ちゃんが声をかけてきた。


「智樹さんはそろそろデザートの頃合いですよね。お手製のチョコケーキがお口に合うかどうかわかりませんが」


「孝子ちゃんの作るお菓子はどれもおいしいから、楽しみにしてるんだ。うちのちびさんも含めて、遊んでくれてありがとう」


「大人同士の話もあるでしょうから。少しはお役に立てているとよいのですけれど」


 すっかり大人びた視点で、将来が本当に楽しみである。ザクくんの目尻も下がっていた。




 夜明け前に、俺は上田競馬場を訪れていた。調教の都合があるので、厩舎側からはわりと緩めに出入り可能となっている。


 メインスタンド側に出ると、場内がほんのりと明るくなってきた。朝の光の中で輝く競馬場は、新鮮な情景だった。


「智樹……?」


「父さん。どうしたの、こんなに朝早く」


「それはこっちのセリフだ。……朱雀野厩舎に泊まっていたのか」


 ふっと笑う表情は変わらないが、正直なところだいぶ老けてきている。苦境にあった上田競馬場を支え続けたからには、並大抵の苦労ではなかっただろう。俺の前世知識を使ったずるい働きかけも、父さんとその同志の献身的な努力がなければ、実を結ぶことはありえなかった。


 改修が繰り返されてきたメインスタンドは、建て直しの計画が進んでいる。まだ設計段階だそうで、完成は平成三十四年が見込まれている。この段階では、既に改元の話は出ているが、新元号が令和となるのは直近の発表であるため、平成が続く前提で物事が進んでいる。


 実際には、令和四年ということになるわけだが、もちろん俺はその新スタンドを見ることはかなわない。それでも、消え去るはずだったこの競馬場の存続は、俺の心に穏やかな感情をもたらしてくれている。

 ダートの長距離、超長距離を売りにするというのは、正直なところ乱暴な施策だっただろう。それでも、ないがしろにされがちな中央の長距離に挑戦する馬たちの裾野を広げる効果はあったと思われる。


 ただ……、長距離は本当ならば切り捨てられるべき路線なのかもしれない。菊花賞と天皇賞が2500m程度になれば、流れは大きく変わっていたはずだ。


 そして、地方競馬全体でも、上田と高崎、宇都宮が存続したことで、他の競馬場の伸び代を奪った可能性もある。


「なあ、父さん。上田競馬場は……、本当に存続させるべきだったのかな」


 陽光に包まれた父さんは、虚を衝かれたような表情になり、次いで苦笑が漏れた。


「お前がそれを言うのか……。いや、そもそも私が相談しなければ、父親の立場が左右される状況でなければ、関与することなどなかったんだな」


 父さんの脳裏にも、俺がまだ年端のいかぬ子どもだった頃の対話の様子が浮かんでいるのだろう。


「競馬場の存続、廃止自体は、直接関わる人への影響を除けば、それほどの意味はなかったのかもしれない。だが、存続させるための諸々の施策は、上田にも長野全域にも多くの影響を与えている」


「でも、それもよその地域の需要を奪っただけなのかも」


「それはそうかもしれんが……。どうした? 虚無にでも捕らわれているのか? お前らしくもない」


 俺を見つめて、今世での父親が首を傾げた。


「いや、そういえば智樹には、思春期的な時期がなかったからな。能力の高さの影響か、だいぶ大人びていたから。雅也は、わりと大変だったんだぞ。どうしてもお前と自分を比べてしまったんだろう」


「初耳だよ」


「北海道で足場を固めていた時期だったからな。母さんは、逆に荒れる気配がないお前のことをこそ心配してたぞ。まあ、立ち止まって考える時期も大切かもしれない。だけど……」


 そこで、上田競馬組合の次代の顔役的存在は、照れたように顔を背けて、諦めたように言葉を続けた


「お前は、俺の自慢の息子だ。心から誇りに思っている。雅也ももちろんそうなんだが、別物ではある」


「俺も、父さんの息子でよかったよ」


 ここまで、どこかで今世での父親役として、限定的な認識をしていた面もあったのかもしれない。けれど、血が繋がっていなくても絆の深い親子がいるように、精神的基盤を別の家庭で培ったのだとしても、壁を築く必要などなかったのだろう。今更ではあるが、それでも気づけてよかった。


「おいおい、若者がなにを湿っぽいことを。上田競馬はこれからだぞ。レースを充実させ、さらなる上田市への還元をしなくては。椎野さんは、それを有効に使うだろうからな」


「そうだね。まあ、後は流れに任せても……」


「いや、さらに上を目指せるはずだ。こないだ智樹が示唆していた直線の試走コースの件、あれを進めて芝レースができないかとの話も動いている。ダートでは、上田の3歳三冠戦とは別に、よその馬に開放したアメリカ式の三冠を、牡牝ともに作ろうかとの話も、とりあえず設定してしまう方向で調整中だ。中央競馬の本格的な外厩併設話も検討チームが立ち上がっているし……。もっとも、智樹に頼りきりじゃいかんのだろうがなあ」


 とっくに廃止されているはずの上田競馬を完全に建て直したからには、のんびり推移を眺めてもいいはずだ。けれど、父さんの目にも、不足している部分が見えるようになっているのだと思われた。その中には、俺が前世知識との兼ね合いで、無意識に、あるいは意図的にブレーキをかけていた分野も含まれていそうだ。


 もう、俺がレールを敷く必要はなく、むしろ邪魔になってしまうだろう。俺の胸中で誇らしさと寂しさがないまぜになっていた。


「雅也もいるし、次の世代だって」


「その下か……。気が早いが、孫の誰かが関わってくれたら、それはそれで楽しみだな」


 ただ、残り時間は俺よりも両親の方が多そうで、そこをどう伝えていくかは悩ましいところである。


 いずれにしても、母さんにもきちんと感謝の念を伝えるとしよう。それこそ、何事かと心配されそうではあるが。





【平成二十九年(2017年)夏】


 前触れは美春と戯れながらの夫婦での会話からだった。


「千佳ちゃんがいうには、隆さんがことねんと揉めてるらしいのよ」


 美冬が口にした千佳ちゃんというのは、メグロマックイーン牝馬の売却の際に、独自指標を持ち出して安定した馬を残すように進言してきた、牧場スタッフの千佳子嬢である。若番頭の幼なじみで、今では奥さまとして美冬の子育て仲間となっている。


「あの二人に揉める要素ってあったっけ。動画配信の方針とかかな」


 ことねんは、以前ほどではないにしても動画配信界隈では人気を保っている。競馬関連も扱っているが、デビュー後の馬が中心のはずだ。一方の爛柯牧場には、動画で名を売る必要性は本来的には乏しく、隆の趣味の範疇での対応となる場合が多い。それにしても、その取り合わせの関わりはなかったように思うのだが……。


「まあ、深刻なら話がくるだろう。なあ、みはる」


「はぁい」


 現状での俺にとっては、動画配信事情よりも妻子と過ごす時間の方が比べるまでもなく重要だった。……そう思っていたのだが、後回しにしたことを後悔するはめになるのだった。




 三週間ほど経過したある日、現れたのはいつもよりも表情のきつさが二割増しのことねんと、ひふみ企画の競馬方面を束ねる片瀬さんだった。片瀬さんは引き続き年齢不詳な風体で、やや妖しい魅力を醸し出している。


 俺としては嫌々ながら誰にともなく声をかけざるを得ない。


「なにごとだい」


「今日は、隆さんにお願いごとがありまして」


「直談判なのです」


 なにやら剣呑である。仕事にかこつけて遊びに来たとかならいいのだが、そういう雰囲気ではなさそうである。もっとも、ことねんの怒気はそこまで強いものではなく、演技の度合いも含まれていそうだ。


 呼び出された隆は、押し掛けてきやがってとか毒づいているが、まあ、それも含めてじゃれ合いの範疇なのかもしれない。そういうことにしておこう。


「じゃあ、俺はちょっと美春と散歩に……」


「智樹さんにも同席をお願いしたいのですが」


「ああ、言ってやってくれよ」


「責任を放棄するパパは、娘に嫌われますよ」


 救いを求めて、愛娘の方を見やる。


「でも、娘との約束が……」


「いいんでしゅ。おしごとがむばってくだしゃい」


 そう手を振られてしまうと、もはや逃げ道は残されていなかった。



 

「で、何がどうしたって?」


 配合方針の話だというので、樹理をテレビ会議システムの向こう側に呼び出している。


「どこまで話が通ってるんです?」


「隆とことねんが揉めてるってとこまでが把握のすべてだな」


「ホントに、なんにも聞いてないの?」


 頷いてみせると、ことねんが若番頭を睨みつけた。報告済みであるはずだったのだろうか。


 ごほんと咳払いをして、主張が始められた。


「動画でひふみレーシングクラブでの募集馬紹介をしたら、自己満足配合のガラパゴスだとか、懐古主義の老害の被害馬達やら、旧時代の遺物だの、零細血統の墓場だなんて揶揄する声に混じって、爛柯牧場の血統にディープインパクツをつけろとの声が一定数ありました」


 えらい言われようである。まあ、サンデーサイレント以降に、旧来の血統は不要だとする考えがまったく間違っているとは言えない。血が濃くなれば、外国から移入すればいいのだから。辺境であり続ける前提なら、という限定はつくが。


「その件をテーマに生配信をしたら、直コールが入ったのです」


 再生された動画の中で、機械的に声を変えた人物がなにやら熱く語っている。


「これ、どこぞの大きい牧場の中の人かもと思うんですが」


「詳しい人は多いから、どうだろうな。それにしても、熱いなあ。……でも、ディープインパクツの配合相手の血統が偏ってると言われても、そりゃ種付け料三千万じゃそうなるよなあ」


「この話のあとで、爛柯牧場の牝馬にディープをつけろとの声が殺到したのです。確かに、地方中心の既存の馬主さん相手の商売にはならないでしょう。でも、クラブ募集なら夢が追える、……そう思うんだけど、そちらのバカ番頭様が難色を示してですね」


「若番頭だっ。……ボス、聞いてくれよ。牧場の方針で主流血統の高額馬をつけないって言ってるのに、つけろつけろの一点張りでさあ」


「ディープインパクツ、いいんじゃないか」


「だよなあ、ありえないよなあ。……って、なんだって?」


「それは、言質をいただいたということでいいのかしら」


 答えようとしたのだが、隆の剣幕に遮られた。


「牧場の伝統を崩すのか? 府中の旧スタンドでの誓いを忘れたのか」


 さらには、テレビ会議システムのスピーカーから、高額馬をつけるなというから苦労していたのに、という言葉がぼそりと聞こえた。


「忘れてないけど、あの時の前提は、地方馬主さんに支えてもらっていた爛柯牧場だったろう? その後、中央の馬主さんからも買ってもらえるようになって、自家所有も増えたけど、方向性の大筋は変えてこなかった。でも、新たな買い主が現れたのなら、確かに話は別だ。しかも、たぶん今後の募集にあたっての目玉を求めてるんだよな」


 片瀬さんが力強く頷く。ひふみレーシングの代表も務めてもらっているので、深刻に受け止めているのだろう。


「まあ、配合的には本来なら、SS系を取り入れるにしても、もうちょっと下の世代がいいんだよな? 既にステディゴールドによって、ある程度は入ってきているし。……だけど、芝の長距離に強いサンデーサイレント系と言ったら、ディープインパクツ一択だろう。スピードも期待できるわけだから」


「けどよぉ、血の飽和対策はどうするんだ」


「なにも、全面的に切り替えるわけじゃなし。……ディープインパクツから長距離系が派生したとして、そこと掛け合わせていくだけの長距離系は何筋か確保できてるだろ? サンデー系を入れない配合は、樹理が考えてくれるだろうし」


 モニターの向こうに話を振ると、樹理が口を尖らせた。


「私がやっているのは、せいぜい次の世代までの配合であって、そんな先までは……。牡牝どちらに出るかわからないし、走るかどうかもあれば、事故死の可能性だって」


「それでも、その場だけで判断するのと、先々のことも頭のどこかに置いておくのとでは、きっと違ってくるはずだって」


「なんで他人事なのよ」


「事情があってな。……ところで、琴音さんや。さっきから気になってたんだけど、そのカメラはなにかな」


 いつの間にか、ことねんの手元に、ビデオカメラらしきものが置かれている。


「安心して、生配信まではしてないから」


 動画としては使うってことか。


「勘弁してくれないか」


「貴重な映像提供に感謝します。……あとは、その辺で転がってるタロエモン独占インタビューとかも是非」


「やめて差し上げてくれ。まだ完全にいろんな意味で時効にはなってないから」


 明確な犯罪こそ知覚していないが、特にヤバイ筋がどう捉えているか、いまいち確証が持てていない。


「じゃあ、そちらは我慢しますね」


 苦笑した俺を見つめてきたのは、信頼する番頭役だった。


「智樹、わかってるのか、三千万だぞ」


「まあ、高いけどなあ」


 とはいえ、資金的な余裕は、少なくともひふみ企画にはある。


 ひふみ企画と天元財団は、時間経過とともに金融ファンド的な性格を強めている。


 国内外の成長企業に投資してきたのに加えて、イニシアルの上場益も大きかったが、最近ではエンジェル投資的な動きにもつながっていた。


 天元財団の給付型奨学金は、関連地域の家計の苦しい家庭向けの進学費用だけでなく、孝志郎のような優秀な人材の留学費用や大学院進学辺りも積極的に手掛けている。よその給付型で泣く泣く審査落ちとされた事案が、暗黙の連携で天元財団が紹介され、給付に至る場合が多かった。


 奨学金を給付した若者たちからは、社会に出た後に恩返し的に寄付してくることもあれば、起業の際に出資を仰がれる場合もある。もちろん、成功する起業者ばかりではないが、上場事例も出始めている。


 孝志郎のところもそれを狙って会社を作って上場しようかなんて言い出したので、合わないことはやめとけと説得した状態だった。なにかのアイデアからの事業が生まれて、それを世界に広げるための上場ならともかく、利他目的だとしても、金目当ての上場は避けてほしいと思う。


 まあ、ワンツースリー……旧ひふみと、イニシアル社の上場による恩恵を激しく受けている俺が言うなという話でもあるが。


 一方で、起業をすると心を決めた奨学金受給者については、積極的に支援を行うようにしていて、上田と武蔵小金井と静内にインキュベーション施設を設置している。支援する起業は、なにも上場案件限定なわけではなく、士業の事務所や、個人経営の料理店などももちろん対象だった。


 資金は無尽蔵ではないが、関連地域の家計の苦しい家庭向け進学費用プラス他の支援機関からの事実上の紹介を中心としているため、今のところ破綻の影は見えず、どちらかと言えば資産が積み上がる傾向にある。単純な株式にしても、いわゆるGAFAやら国内外の成長産業への投資は既に済ませてある。


 家計の苦しい家庭向け奨学金についての地域的な縛りをなくすという手もあるのだが、それはもう国家レベルの話に思える。


 ……ただ、資金的に問題がないとしても、野放図な支出に繋がるような種付けは避けるべきだろう。その意味でも、一口馬主クラブへの供給というルートがあるのならある程度は許容してよいような気もしている。


「種付け相手の想定はあるのかな」


「ディープインパクツについては、さっきの生配信に連絡してきた人の指名で、ランカシュヴァルツとランカリアライズとランカエカテリーナ、あとはサクサクギンノスズとマックイーン牝馬がご所望みたい」


 指名が渋く、SS系の血を引く馬がきっちり外されている。もしかして、本当に中の人なのだろうか。ただ、シュヴァルツはさすがに……。


「でも、クラブで募集するなら、せめて有望評価でないとなあ」


「そこそこ以上でいいでしょ。全部が当たりくじじゃつまらないって」


 言われてみると、そういうものかもしれない。


 ディープインパクツは、今年で15歳となる。まだ、種牡馬生活は少なくとも六、七年は続くだろう。何頭かずつなら試してみてもいいように思えた。とはいえ、せっかくつけるのなら、いい馬が出てほしいものだ。



 隆はまだぶつぶつ言っていたが、確かにこれまでの流れからして、折り合いはつけづらいかもしれない。後でフォローを入れておくとしようか。


 爛柯牧場の血筋とSS系を掛け合わせるのは、もうしばらく先の話とするように申し送りをするつもりだった。ただ、いつの間にかなにを目的としていたかが忘れ去られてしまう危険も考えられる。そう考えると、ここで実施しておくのもありだろう。


 ともあれ、今は美春の顔を見に行く方が優先だ。テレビ会議システムの画面越しに話し込み始めた面々を置いて、俺は打ち合わせスペースを後にしたのだった。

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