第二章⑥

「お嬢様」

 相変わらず、雨は降り続いている。小雨に変わりかけていたが、またいつ本降りになるか――帝都の雨は、気まぐれなことで有名だ。

 使用人の運転するユリンカを乗せた蒸気駆動車は、セルトワ邸へ車輪を走らせていた。ルフェルト・セルトワ邸からニコラ少年が搬送されていた医療施設に寄り、事態が何ら動いていないことに落胆した、その帰り道だ。

 医院からセルトワ本邸までは少し距離があり、周囲はろくに舗装されていない畦道だ。曇り空の下に浮かぶアーチ状の橋は、シェルレスタ北の門へ通じる橋だ。あの橋を昇り、少し行ったところにイェレ区セルトワ本邸がある。

「セシエレとヴィニが戻ってきていればいいのだけれど。ニコラは悪化した様子ではなかったけれど、何かが変わったわけではないわ――ミハイル、どうかした?」

 一人で思案を口に出していたところに呼びかけられ、ユリンカは視線をハンドルを握っている従者に向けた。

「お嬢様は――覚えておいでですか?」

 窓ガラスを雫が密やかに叩く音は遮断され、車内のユリンカには届かない。ただ、若い使用人の問いかけだけが、車中に響く。

「何を?」

 ミハイルは目を閉じ、厳かに息を吐いた。

「もう……七年も前になりますか、お嬢様がまだ十かそこらのお年の頃にございます。お嬢様とスタニスラス様をこうして車にお乗せしたことが昨日のことのように、思い出されます。多くはこのように雨の降る時分でした――快晴の時は、馬車をよくご所望でした」

 その口調は、昔を懐かしむものだった。

ユリンカは、何故今この時にミハイルが昔話を切り出したのかわからなかったが、相槌を打つ。車中鏡に映ったミハイルの表情は、とても穏やかで邪魔したくなかった。

「そうね……あの頃、お爺様はすぐ傍におられていつでもいて下さると思っていた。あのようなことがなければ、きっとお爺様は今でもご健在だったと思うわ。けれど、お爺様はもういない。だからこそ、わたくしはお爺様のご遺志を継ぎたいの。わたくしは未熟、お爺様のようにはとてもいかない。……お兄様にすら伝わらないくらいに」

 ユリンカは流れ落とすようにして、独白した。ミハイルはそれを邪魔立てしようとせず、黙したまま聞いている。

「――そういえば、ミハイル?」

「はい、お嬢様?」

「シェスタさんの具合はどうだったの? セシエレから聞いたわ、お見舞いに行ってきたのよね?」

 ユリンカにとっては、何気ない問いかけ。部下の親族を気にかけて罰せられる法などない。だが、ミハイルは下唇を噛み締めるようにして、沈黙した。

「ミハイル? そ、そんなに悪いの?」

 ユリンカは慌てたように腰を浮かした。沈痛なミハイルの様子に、胸がざわつく。

それに気付いた彼は、被りを振った。

「いえいえ、そういうわけではございません。申し訳ございません、驚かせてしまいましたね。医者の見立てですと、少しずつですが順調に快復していっていますよ」

「そう、なら良かった。でも、妹さんは何のご病気?」

「生まれつき胸が弱くて、八年ほど医者の世話になっております。普段は病気だということを忘れてしまうくらい元気なのですけれどね」

「そういえば、ミハイルがうちに来たのはそれくらいの時だったわね。妹さんは確か……わたくしと同じくらいの年だったかしら?」

「覚えておいて下さったのですか、ええ、お嬢様と同じ年でございますね。シェスタもきっと喜びます」

 ユリンカは顎に指を添え、微笑んだ。

「だってわたくし、シェスタさんにきちんとお会いしたいもの。お爺様がまだ生きておられた時に会いたいってごねたの思い出したわ。お爺様に迷惑をかけるなって怒鳴られたことも昨日のよう」

「そのようなことも……ありましたね」

「でもね、ミハイル。わたくし一度だけシェスタさんを見たことがあるの。――と言っても、盗み見ただけだけど。まだ十一歳かそこらの時だったわね。お爺様にどうしてもって頼んで……身体に障るから遠くから見るだけにしておきなさいって言われたわ。ふふふ、あなたは知らないことだろうけど」

 ユリンカは悪戯を告白する幼子の面持ちで、笑いを漏らす。

「ええ、今初めて聞きました。どうしてそんな――?」

 驚きが、ミハイルを打ちのめしているようだった。

「そうね、同い年のお友達が欲しかったからかしら。学校はどうしても雰囲気がわたくしには馴染めなかったから。屈託なく話せるお友達が欲しかったからかしらね」

「ありがとう……ございます……」

「わたくし、お礼を言われるようなこと何もしてないわ。――シェスタさんって、とても愛くるしい方ね。闊達な向日葵のようだったわ。病気だってことを忘れてしまうくらい」

 ユリンカは身を乗り出すと、

「ねぇ、ミハイル? この件が片付いたら一度シェスタさんを見舞っていい?」

 ミハイルは主の懇願に、小さく喘ぐように口を開いたり閉じたりした。

その様相は何かに慄いているようでも、また感激しているようにも映る。辛うじてそれが噴出するのを、ミハイルは堪えたようだった。

 右手をハンドルから離し、ミハイルは眉間を揉みほぐす仕草をした。

「ええ、是非おいで下さい。シェスタは絶対喜びますよ」

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