第三章⑭

 シェスタは俯き、搾り出すように言った。

「……兄はわたしのために、ユリンカ様を裏切ったんです」

 少女はヴィニの腕から逃れるように立ち上がると、壁に背を預けた。黒く長い髪が、割れた窓から侵入した風に吹かれ、なびく。

「わたしはその人にここに連れてこられました。大人しくすれば、危害を加えないからって。お兄ちゃんもいました。お兄ちゃんは、何度も……何度も……わたしに謝ったんです。

 何をするの? って訊きました。でもお兄ちゃんは悲しそうな顔をして、何も教えてくれませんでした。でも……でも……その人が、哂いながら……教えてくれました。……お前の兄は、世話になった主をわたしのせいで裏切るんだって……アンザースのお城でユリンカ様を殺すんだって……」

「そんな――」

 セシエレは絶句し、少女に二の句を告げられない。――ミハイルが、ユリンカを裏切った?

 俄かには信じられない話だ。だが、沈痛に叫ぶシェスタが嘘を吐いているようにも思えない。

「だから、兄を止めて! セシエレさん、取り返しのつかなくなる前に兄を止めて!」

「――その必要はない。《銀月の死者》は潰した」

 やんわりと否定したのは、落ち着いた物腰で部屋に入ってきたエルンストだ。数人の兵士を共にしている。

「ユリンカも保護されたよ。場所はシェスタの言った通り、アンザース城――」

 エルンストは全てを言えなかった。

 ぶぉっと、凄まじい風が吹いた。

 一陣の黒い風が、彼の身体を薙ぐ。セシエレも意表を突かれ、身動きが取れない。胸を真一文字に斬り裂かれたエルンストの姿が、どろり、と溶ける。液体が床を叩く音と共に、エルンストはその身を維持できない。

 まさに、霧。

 その異様に、狼藉を働いた彼に抜かれようとした剣を握る手を、兵士たちは止めた。

「「なっ!?」」

 その場にいた一人を除く全員が、驚愕の表情を浮かべる。制止する暇も、兵士たちが非難する時間も与えられない。その一人は溶け逝くエルンストには目もくれず、シェスタに剣先を突き出した。

 肉が、切り裂かれる感触。

「何故……わかった……?」

 一瞬のことで彼女は躱しきれなかった。脇腹から鳩尾にかけて、刃で深々と貫かれたシェスタは喀血し、訊ねた。

「残念だったな、《百貌》。俺には、ルジェの《誓呪》は通じない。見極めるのに、時間はかかったけどな。それに、エルンスト・セルトワに化けた君の贋物は殺気を丸出し――術に頼りすぎたな」

 彼――ヴィニ・ゲインズブールは、ニヤリと口の端を吊り上げる。

「術を解くのも早すぎたな。馴れないものに信頼を置きすぎるというのも、問題だ」

 彼は柄を握ったまま、シェスタに変装したシフ・ジフの足を払う。彼女は、背で床を舐めた。くぐもった苦鳴を上げ、憎悪の眼差しでヴィニを見上げる。

 内臓がやられたらしく、溢れる血を抑えきれない。

「糞、糞糞クソくそ……。ついてないな、全く」

 シフ・ジフは悪態と共に吐血する。彼女に、ヴィニの腕が伸びた。おぞましいものを見る目つきで彼の指を睨むシフ・ジフに取り合わず、ヴィニは彼女の顎から皮膚を剥がしていく。

「運の問題じゃない。君が未熟なだけだ」

 曝された爬虫類を想起させる白面に、セシエレと兵士たちが我に返る。

「畜生、言ってくれやがって。殺せよ、ヴィニ・ゲインズブール。ああ、認めてやる。負けを認めてやるよ!」

「アンザース城だな?」

 冷ややかに問うたヴィニに、シフ・ジフが押し黙る。

「おかしいな、君が自分でさっきそう言ったじゃないか」

彼は面白くもなさそうな無表情で、《百貌》に刺した刀身を捻る。シフ・ジフの口から放たれた絶叫が、宙を大音響で埋め尽くした。

「答えろ、シフ・ジフ。嬢ちゃんが幽閉されているのは、アンザース城だな?」

 飄々とした常からは想像もつかないほどの凄惨を浮かべるヴィニに、セシエレは声を出せなかった。周囲の兵士も同様だ。

冷酷とも形容できる彼の空気に、場は完全に呑まれてしまっていた。

「痛い痛いいだいいだいいだいぃぃぃぃぃっ! 言うっ! 言うからっ! 何もかも言うからっ! 離して、その手を離してっ! そうだよ、あのいけ好かない小娘も! ルジェの野郎も! アンザースにいやがるよっ!」

「殺してくれと懇願していたのは君の方じゃないか。堪え性がない奴だな」

 ヴィニは、力を緩める。最も、断続的に鈍痛を与えていたが。隙間なく襲ってくる痛みに、シフ・ジフが喘ぐ。彼女の背から流れ出た夥しい量の血液が、腐りかけた床を浸していく。

「誰だ?」

「な、何がっ?」

「ルジェと結託し、ユリンカ・セルトワを誘拐した人物だよ。ついでに、君の雇い主でもあるな?」

「……ヴィニ殿?」

 セシエレは、胡乱気に眉をひそめた。

 訝しげに見つめる同僚に、ヴィニは説明する。

「ルジェが単独で嬢ちゃんを誘拐しても、何の利にもならない。人質に取り、身代金を要求するにしても、だ。嬢ちゃんはセルトワの末娘、いざとなればセルトワは嬢ちゃんを切り捨てられる。その上、《ディナ・シー》が《ヴィッカー通り》を譲渡されて、何の得がある? あまりに不自然だ。《ディナ・シー》は外界を嫌う。滅多に里から出たがらないからな。妖精は、森の外を嫌う。ならば、こう考える方が自然だ。

ルジェが何らかの理由で里を離反し、嬢ちゃんの存在を疎ましく思う誰かと手を結んだ。あいつの欲する見返りは新しい《誓呪》を試す牧場と、その誰かから受けられる庇護。

――大方、そんなところだと俺は思う。その誰かが嬢ちゃんを忌み嫌う理由はわからないがセシエレ、君ならわかるだろう?」

 セシエレは首肯した。

ちらり、と兵士たちに目配せすると、彼らは彼女の視線に気付き、部屋から出る。宮廷仕えの身だ、セシエレの意思を汲んだのだろう。

「簡単に説明します。お嬢様は、セルトワ家現当主ランバース・セルトワ様の実子ではありません。――先代当主、スタニスラス様の御子でございます」

「なるほど、納得だ。となると、敵は身内って線が濃厚だな?」

 セシエレは、ヴィニの台詞には頷けなかった。セルトワ家に仕える者としての意識がそうさせているのかもしれない。シェルレアン帝國軍の軍服を着た男たちの謎も残っていたため、容易に肯定できなかった。

「それを踏まえた上で問います、シフ・ジフ。お嬢様を誘拐したのは誰ですか?」

 シフ・ジフは苦しさに呻きながらも、セシエレに向かって血塊混じりの唾を吐きかけた。

「けっ、だ、誰が糞ニーグロなんかにいだいいだい痛い、言う、言うからっ!」

 ヴィニが再び、手首を捻ったのだ。セシエレもさすがに苦笑し、すぐに引き締める。

 瀕死の暗殺者は、自棄気味に叫んだ。

「糞、あいつだ! オレがこんな目に合うのもあいつのせいだ! 構うものか、言ってやる! オレを、や、雇ったのは――ルフェルト・セルトワだっ!」

「……ルフェルト、様が?」

 セシエレは、足下が崩落するのにも似た衝撃を覚えた。だが、ルフェルトならばユリンカを疎んでいてもおかしくはない。病床に臥せっているランバース・セルトワが天に召されれば、次代当主はルフェルトになるからだ。

――ランバースの娘ではなく、彼の妹であるユリンカ・セルトワを恐れたのだろう。

「イイ顔だぜ、くくくくくく。信じられない、と絶望している顔だ。ふは、ふははは」

 シフ・ジフは激痛に喘ぎながらも嘲笑をぶつけ――破顔したまま、失神した。

「とにかくアンザース城に急ぎましょう」

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