第三章⑬

「貴様、いつの間に……」

 ミハイルはよろめきながらも、しっかりと二の足で立つ。視線の先には、天も羨むほど神々しく美しい銀月の髪を湛えた青年が佇んでいる。

 処刑場の広間は、重苦しい空気よりも張り詰めた緊張感を好んだかのようだ。青年の介入によって、空気が冷たく、痛く変化する。

「いつの間にって。心外だね、ミハイル。僕はずっと君たちを見ていたよ。それよりも、僕は君に落胆を禁じ得ないな。せっかく、美しい悲劇に終わると思ったのに」

 にこやかに笑み、青年は言った。

「ルジェ……?」

 呆然とした表情のまま、ユリンカはその名前を紡いだ。

 白い外套が優雅にひるがえる。青年――ルジェが、ユリンカに敬意を表して会釈したのだ。

「これはカペラ様、ご機嫌麗しく」

 さながら円い舞台の上――自分たちは、質の悪い寸劇に出演する俳優のようだ、とユリンカは茫洋を引きずる頭で思った。

彼女の内心を代弁するかのように、ルジェは朗々と語り出す。

「思った以上に、この演劇の進行が早くてね。いつ終劇になるかもわからない。あの方は随分と気が急いておられるようだから。僕があの方に敬意を表する理由は全くないのだけれど」

 腕に抱かれた弩を弄び、ルジェは一歩足を踏み出し――止める。ミハイルを射た弩に、ユリンカの憎々しさが募る。

「ああ、山羊姫様あまり怒らないでくれたまえよ。彼が怪我をしたのは、君のせい――何せ、さっさと君を殺さないから」

「……っ!」

「黙れ!」

 ミハイルは激昂し、ルジェへ殴りかかろうとした。慌てて制止したユリンカを、優しく引き剥がす。彼は沸騰しかけた心を鎮め、ユリンカへ向き直った。

「お嬢様、お逃げ下さい。かの者は僕が引き止めますから」

 脂汗をびっしりと浮かべた蒼白な顔で、ミハイルは主に微笑みかけた。

「そんな、あなたを置いて逃げるなんてわたくしにはできない!」

 悲鳴のようなユリンカの拒絶に、ミハイルは面を哀しげにくゆらす。

「聞き分け下さい、お嬢様。一度はお嬢様を裏切った身――僕に言われたからと信用ならないかもしれませんが――あの者は危険です。ですから」

「そんなことない! ミハイルはいつだってわたくしのことを鑑みてくれた! わたくしはあなたに裏切られたなんてこれっぽっちも思ってない!」

 彼を置いていくのは、嫌だった。個人的な感情なのは重々承知だ。――けれど、部下を置いて、我が身可愛さに逃げ出すことの愚かさに屈したくはなかった。

「お嬢様……その言葉だけで、ミハイルは嬉しゅうございます。早く、逃げて……セシエレと帝都をお離れ下さい」

 ミハイルは顔を引き締めた。

 ユリンカがなおも反論しようとしたところに――手を打ち鳴らす軽快な音。

「美しいね、ミハイル。主の少女を庇い、自分は悪魔に食われて死ぬ。実に美しい騎士の物語だと言えるかな? でもね、僕は見苦しいものが嫌いなんだ。例えば君のように、死の甘美を受け入れられず、足掻こうとする輩とかね。ああ、でも僕は君を赦せる。最期の煌めき――そんな君の勇気に敬意を表して、カペラ様は見逃してあげよう。報われぬ死に世を儚み打ちひしがれる彼女は、僕の想像以上に綺麗だろうからね。自ら命を絶とうとするくらいには」

 人差し指を唇に当て、ルジェは片目を瞑った。

 ミハイルは、ゆっくりと歩く。貫いた矢が与える苦痛に、一歩ずつ踏みしめる度、顔を歪めた。

「……ミハイル……」

 彼の背に報いてやれないのか――ユリンカは、苦悩した。いつも、傍にいてくれたミハイルをこのまま見過ごして、死なせたくはない。

 ――どうすれば? どうすれば、彼を殺さすにすむ?

 頭の片方が、「無理だ。助けられない」と囁く。彼が足を踏み出すと、ぽたり、と血が痕を作る。鮮烈な赤に、絶望を抱く。

 少女は必死に、それを振り払おうと努力した。しかし、どうやっても拭えない。この場を退いて、己は悠々と生を貪るのか?

「……お嬢様、一つだけシェスタにお伝え願えますか。――――――――と」

 反射的に、彼女は面差しを上げた。

 ミハイルの表情は見えない。それでも、彼が清々しい微笑みを浮かべているのは手に取るようにわかった。

 ――何て、気高いのだろう。

 漠然とした、誇らしさが胸に生まれる。自分を裏切り、どれほど苦悶したのか、ユリンカには計り知れない。けれど、今の彼の後姿は誇り高く、美しいと思った。

 どうやったら、命懸けでユリンカを逃がそうとする彼に報えるのか――。

「――わかった、ミハイル。あなたの言う通りにする。でも、死なないで。あなたが死んだら、シェスタさんが悲しむ。……わたくしと、セシエレも」

 ミハイルは頷き、床に転がった弩をユリンカに投げてよこした。

「お使い下さい」

 弩を掴むと、少女は広間の入り口へ向かって駆け出す。

 振り返らない。――振り返る暇なんてない。セシエレやヴィニを連れて、戻る。ミハイルを助けるんだ。彼が妹に宛てた言葉は、彼自身が伝えなければいけない。非力な自分にできることは、一刻も早く皆に知らせること――。

「これで、心置きなく死ねる――」

 ユリンカの遠ざかる気配を背中で感じ、ミハイルは呟いた。

「死ぬ覚悟はできているようだね、ミハイル・ディアレ」

 身体が重く、言うことを聞いてくれない。すぐ傍らから流れた声に反応することもままならない。流血は酷く、刻一刻と魂を垂れ流しているようだ。

「――そうだ、ミハイル。その覚悟をもっと別のことで活かしてみたくはないかい? いや、何も言わなくていい。わかっているんだ、僕には」

 不明瞭な笑顔が、ルジェを彩る。

「貴様、何を考えている? ――――ッ!」

《銀月の死者》。

その名を選んだ男が、ミハイルに突き刺さった矢を無理矢理引き抜く。どばどばと迸る血液を指で掬い取り、舐めた。血液と唾液の付着した指で、傷口をなぞる。銀と朱の混じる糸が、指と傷口の間を引く。

 びくん、とミハイルの身体が震えた。

 皮膚から熱が溢れる錯覚に、身を捩じらせる。

「ふふ、これで君は死すら僕に委ねられた。感謝して欲しいな、ちゃんと死に目には合わせてあげるよ。絶望という形で。ふふっ、あははははははははははははははっ! 目に見えるようさ! ユリンカ様が嘆き悲しむ姿が!」

「き、貴様……っ」

 ミハイルは振り向き様に拳を撃つが、宙を切る。それだけの動きで、耐え難い激痛が全身を貫く。くの字に身体を折り曲げ、膝を突く。

 軽々とミハイルの攻撃を避けたルジェが、優しく彼の頬を撫でた。

「我慢しなよ、もう少しで痛みも悲しみも何も感じなくなるから、さ。大丈夫、君は死ねる。僕が、あの男に殺されればね。早く来てくれればいいね。そして感動の再会というわけさ。くく、くくくく。その前に君が綺麗な宝石に変わるのが先かな? あははははははは!」

 ルジェは哄笑を不意に止めると、高く掲げた指をぱちり、と鳴らす。瞬間、空気が明確に異質さを帯びる。何が違うのかと問われても説明できない、異形な空気。ミハイルは苦しさに喘ぎつつも、それを確認した。

 大仰に両腕を広げ、ルジェは舞台俳優を思わせる動きで、たった一人の観客に宣言した。

「ご覧に入れよう、僕の最高傑作だ」

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