第三章⑫
「やめなさい、シフ・ジフ」
「へーえ、よくオレがわかったな? 褒めてやるよ、ネィグロ」
女――シフ・ジフは素直に感嘆した。素顔をセシエレとヴィニに曝すのは、これがはじめてのはずだ。
「その下劣な言葉遣い、忘れたくても忘れられるものではありません」
「言ってくれるじゃないか、ネィグロ。お前はオレより弱いのに大きな口を叩いて、そんなにこのお嬢さんを殺して欲しいのか?」
シフ・ジフは右目を大きく見開き、セシエレを挑発する。病的なまでに白い肌の上で、黒い瞳が不自然に輝く。口は大きく歪み、明らかな嘲りを刻んでいた。
「あなたが? 私より強い? でしたら、正々堂々と勝負なさればいいでしょう、その上で強弱を競えばいい。シェスタは関係ないはず。自分より格が下の相手に人質を取るなど、自信がないのでしょう? それが卑劣などと私は言いませんよ、それがあなたの処世術でしょうから」
淡々としたセシエレの口調が気に入らず、シフ・ジフは床に唾を吐き捨てた。
「はっ! 挑発したからってオレがこのお嬢さんから離れるとでも? お前は馬鹿だな、大馬鹿だ。オレを誰だか忘れちゃいないか?」
「ただの薄汚い暗殺者風情でしょう。よもや、ご自分を聖人君子だとでも言うつもりですか?」
セシエレは鼻で笑う。
ますますシフ・ジフは白い顔を赤くさせる。侮辱の言葉を抑揚もなく、かつ丁寧に言われることほど、腹の立つものはない。
「あなたは、想像以上に感情的な方ですね。そんな直情的で、暗殺者という冷静さの問われる職業が勤まるとお思いですか?」
シフ・ジフに抱かれているシェスタを意図的に黙殺して、なおも言い募る。
ヴィニもぎょっとして同僚を見つめ――彼女の真意を理解した。怒らせ、自分に向かってくるよう仕向けているのだろう。セシエレの行為は無謀なようで、正鵠を射る方法であると素直に感嘆した。シフ・ジフは確かに、乗せることに成功すればこの上なく操作しやすい人物だろう。
おそらく、セシエレは適当に毒を落としている。当たっていなくても構わないのだ。シフ・ジフの矜持を手酷く傷つければいい。そして、シフ・ジフは彼女の毒餌を無視できない、罠だとわかっていても。――ヴィニは、そう分析した。
「あなたはただ、目立ちたいだけ。《百貌》という称号がそのいい例です。役者にでも転向すればいかがですか?」
――もう少し。
シフ・ジフは、セシエレが微かに近寄っていることに気付けていなかった。
爬虫類を彷彿とさせる無表情のはずの白面を醜く歪ませ、ぐっとシェスタに突きつけた短刀を握る手に力を込める。
「あなたの名前が売れているのは、その類稀な変装技術のみ――確かに、変装だけは精巧と言えるでしょう。ですが人質などを取るようでは、戦士としては――二流以下ですね」
「黙れよ糞牝がぁっ! そんなに殺されたいかぁっ!」
掠れているはずの声音を奇妙に裏返し、シフ・ジフは激昂した。その様子に、セシエレは内心笑む。
――引っかかった。
「ああっ! お望み通りぶっ殺してやるよっ! 糞女、恨むならあの淫売を恨めよっ!」
わずかに短刀が浮く――そう見えた刹那、一発の銃声が轟いた。
鋼の折れる澄音、弾け飛ぶ刃――ヴィニはその間隙を見逃さなかった。疾駆し、一瞬にして間合いを詰めたヴィニはシェスタを傷つけないよう、巧みに剣を捌く。慌ててその場を退いたシフ・ジフに追従するのは、いつの間に出したのか――小銃を手にしたセシエレだ。
――数秒前の銃声は、彼女の手にしたものからだった。銃弾を一発しか込められない、護身用の小銃――手のひらにすっぽりと収まってしまうほど、小さい。
役目を終えた小銃を後方に放り投げ、セシエレは右足を踏む。傷んだ床が悲鳴を上げる。さらに、左。追いつき、踏み込む。
彼女が踏破していく度に、床に亀裂が生じていく。長いこと朽ち果てた廃屋だ、腐り落ちても当然だ。
「ちぃっ!」
シフ・ジフはもう一振りの短刀を瞬時に構え――その暇も与えられない。文字通り鋼の拳と化した一撃を刀身で庇い、それが半ばからへし折られる。逃げる体勢を取ったシフ・ジフの足を払い、浮いた身体に掌打を撃ち込む。
ずん、と重い感触――シフ・ジフの口から、胃液と苦痛の呻きがこぼれる。
目を白黒させるシフ・ジフの背後に回りこみ、腕を捻り上げ――力を入れる。
ごきり、と嫌な音を響かせ、シフ・ジフの右腕の筋力が弛緩した。シフ・ジフは絶叫を迸らせ、死に物狂いでセシエレの束縛を解いた。
一瞬の攻防の間に、ヴィニは解放されたシェスタを、椅子の束縛から解いてやる。緊張のあまり失神したのか、シェスタはヴィニへ倒れ込むようにして全身を預けた。
「殺す! 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すぶっ殺してやるッ!」
――殺す。目の前の女を殺す。
焼き切れたように、シフ・ジフの思考回路が殺意で塗り潰される。
折れた右腕をだらりと下げたまま、彼女は疾駆する。獣の動きで、宙を跳び、セシエレの首を目掛けて左腕を伸ばす。届く一歩手前でセシエレは自分から床へと身を乗り出し、転がった。視界に折れた短刀の刃が映り、それを指で挟み投擲する。
シフ・ジフは飛来する凶刃を避けようともせず――左肩を貫かれる。灼熱の痛みにも痛覚がないのか、憎悪に顔を歪ませ、セシエレに迫った。
「コロシテヤルッ!」
セシエレは迎え撃つことはせずに、直線的に突っ込んでくるシフ・ジフを避けるように回り込む。我を失った獣を御するのは容易い。だが、油断はできない。手負いの獣ほど、危険だからだ。
セシエレは彼女の首根っこを引っ掴み、全身の体重をシフ・ジフに乗せ、そのまま押し倒した。顔面から叩きつけられ、衝撃にシフ・ジフの脳裏は白濁する。
《百貌》はどろりと溶け――ない。
贋物であることを懸念したが、正真正銘のシフ・ジフであるらしい。セシエレは気絶したシフ・ジフの首から手を離し、ゆらりと立ち上がる。止めは刺していない、訊くべき事があるからだ。
「いい腕だな。少し驚いた、銃を持っているなんて聞いてなかったよ」
「言っていませんでしたからね」
賛辞を送るヴィニに、セシエレはしれっと答えた。
「それより、シェスタは大丈夫でしょうか?」
「おい、嬢ちゃん。大丈夫か?」
ヴィニが気を失っているシェスタの頬を軽く叩く。シェスタは微かに呻き、ゆっくりと目を開ける。
「シェスタ、どうしてこんなところに?」
彼女がここで拘束されている理由が思い浮かばない。ミハイルはユリンカの側近だが、その妹を監禁して何の得があると言うのだ?
ぼやけていた焦点を一点に結んだシェスタは、金切り声にも近い叫びを迸らせた。
「兄を――お兄ちゃんを止めて!」
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