第三章⑪
大方調べ終わって、残るは一室を残すだけ。
腐っていて読みづらいが、板が戸に貼り付けてある。
「練習……部屋? 昔ここに住んでおられた方は、演劇か何かを嗜んでおられたのでしょうか?」
そう口にして、思い当たる節があった。一階の部屋にも、衣裳部屋や大掛かりな化粧室があった。
セシエレはドアノブを握る。違和感に、ドアノブを握った手をまじまじと凝視した。
「埃がついてない……」
他の部屋は、使用されず放置されていることが一目瞭然なほど、埃が溜まっていた。蜘蛛の巣が張っているところもあった。しかし、この部屋の扉は綺麗なものだ。まるで、常に使われているような――。
セシエレは、厳しい表情でヴィニに頷く。
「当たりだな」
ヴィニは扉を一気に蹴り開け、蝶番が弾け飛ぶ。
「お嬢様!」
ヴィニに続いて部屋へ入ったセシエレが見たものは、無残な――椅子に縛り付けられた少女の姿。木製の椅子に、背もたれごと縄で身体を縛られている。少女は、長い黒髪を垂らして、ぐったりとしていた。
「……う……」
彼女が呻く。
セシエレは、憤怒の槌で頭を思い切り殴られたかのような心地になった。目の前が真っ赤になってしまうかと錯覚した。
椅子に座らされた少女は、完全に憔悴している。何日も水分や食料を与えられていないかの如く、やつれていた。
「何て酷い……お嬢様、お嬢様ッ!?」
我を忘れたかのように、セシエレは少女に呼びかけながらよろよろと近づく。唇を噛み、歯が皮膚を突き破って血が滲む。
「……うう……」
少女は意識を取り戻したのか、ゆっくりと面差しを上げ――セシエレは絶句し、歩を止めてしまう。
「……セシエレ……さん……?」
そう、セシエレを確認する言葉を茫洋とした口調でこぼした少女は――少女の顔は、ユリンカとは違う。しかし、セシエレは彼女の顔をよく知っている。
「シェ、シェスタ? あ、あなたがどうしてここに?」
彼女はミハイル・ディアレの妹の名前を、目の前の少女に言う。少女――シェスタ・ディアレの瞳は活力を取り戻し、声を振り絞って叫んだ。
「セシエレさん! 逃げて!」
彼女に言われるまでもなく、セシエレはそれを察知していた。
物が破砕する轟音――天井が盛大に弾け、上から何かが降ってくる。木片に混じるそれは、銀色の煌めき――セシエレは身体をずらし、難なく躱す。ヴィニも反応して飛び退き、反動で剣をそれに向かって突き出す。
キィン、と澄んだ音――刃と刃が交錯する鋼の旋律だ。
「あーあ、ばれちゃうんだから困るよな。また、仕損じた」
がっかりした口振りなのは、二人ともが初めて見る人物――生白い禿頭の女。全身のあらゆる毛髪が消え失せた、異形。ゆったりとした黒い服を纏っている。
腰を落とし、セシエレは上から降ってきた女に拳撃を見舞う。鋼の手甲でコーティングされた一撃を、女は甘んじて受け――その姿が、どろりと宙に溶ける。
「危ない危ない、ルジェに感謝しなきゃな」
笑いを含んだ声は、シェスタの傍らから発せられた。あまりにも唐突に耳元で囁かれたその声に、ひ、と少女は息を呑む。
「そうか、それはルジェの《誓呪》だな? 贋物として相手を騙すための人形、か?」
ヴィニは、溶け消えた女を見てそう呟いた。彼の《誓呪》には、制約がないということを思い出す。そういう風に、造られたからだ。
「ご名答。一回しか身代わりになってくれないらしいけどな? おっと、近づくなよ。ニーグロもヴィニ・ゲインズブールも」
女はシェスタの首筋に短刀を当て、べろりと長い舌で彼女の耳を舐め上げた。少女はぎゅっと目を瞑り、気持ち悪さに耐える。舌の先は二つに分かたれてはいなかったが、その様相は蛇を想起させる。
シェスタの流れるような黒髪に指を這わせ、女は恨めしそうに弄ぶ。
ヴィニとセシエレは、構えながらも女とシェスタに近づかない。女は、隙を見せない。
「……ヴィニ殿」
セシエレは、小声で呼ぶ。ヴィニは、目線だけで応じた。
「……シェスタから彼女を引き離します。あなたは、シェスタをお願いできますか?」
「わかった」
セシエレは、一歩一歩確実に踏みしめる。
「近づくなって言ってんだろ、ネィグロ」
女は、すぅっと刃を引く。薄くシェスタの皮膚は切れ、微かな血が滲む。短刀を今にも突き刺されそうな、極度の緊張で全身が敏感になっているのか。
シェスタは苦鳴を漏らした。
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