第四章⑦

 ヴィニは方向を転換し、ユリンカたちの下へ飛び込もうとするが、間に合わない!

 轟、とざわめく空気の鳴動。

「お嬢様……!」

 セシエレは咄嗟にユリンカを庇い、切っ先に背を向ける。

 衝撃――は訪れない。

「……え……あ……」

 起こった出来事に、ユリンカは声にならない喘ぎを漏らした。ミハイルの姿も、消えている。

 広間を揺るがせる轟音。

 降り注ぐ、大量の赤。

 時が凍りつく。

 肋骨が砕けてままならい身体に無理矢理力を入れ、彼は立ち上がると剣風の前に身を投げ、貫く刃とそれを握る腕を抱き込んだのだ。

身体ごと消し去ろうかとするほど振動する衝撃に、堪らず血塊を吐き出し、それでもルジェの腕を離さない。

 満身創痍のはずのミハイル・ディアレは、彫像のように、ルジェの腕を封じる。

「しつこい、な! 君はっ! 僕の束縛から抜け出すとは、奇跡のつもりかわずらわしいっ!」

 着地したルジェは剣を引き抜こうとするが、蹴っても殴ってもミハイルは頑として掴んだまま――成立した間隙に、好機と見たヴィニは剣先を刺し入れる。

 肉が裂ける音。

 飛び散る紅。

 くぐもった苦鳴。

「ぐっ……」

 左脇から侵入した刃は、柔らかい筋肉を容易に刺し貫き、進み、身体の中を通路にして右から宙に飛び出す。内臓も切り裂かれ、込み上げる灼熱の塊を我慢できず、ルジェは喀血した。

ヴィニは手首を捻り、突き入れた刀身で円を描くようにして抉る。増す激痛に、絶叫を迸らせるルジェ。

「お嬢様……ご無事ですか……?」

 夥しい量の血――ミハイルとルジェの、双方の血が溶け合い石床に海とも形容できる血溜まりを形成していく。

むせ返る血臭――誰の目から見ても、ミハイルは助からない。

ルジェの刺突に、辛うじて上半身と下半身が繋がれている――今にも、千切れ、二つの肉塊になってしまいそうな、そんな状態。

「あ……あ……」

 呆然と彼を見上げるユリンカに、ミハイルから噴き出す生暖かい血流が降り注ぐ。

 彼は、無傷の彼女に安堵する。

 ――良かった、助けられた。

 やり遂げた、と誇らしげな表情を浮かべる。

「御身、を……汚してしまい……申し訳、ござ――」

 ずるり、と力を失ったミハイルの腕がルジェから離れ、背からどうと倒れ込んだ。

「ふ、ふふ……僕は君には勝てない……わかっていたはずなのに。ああ、やっと楽になれる」

「ルジェ、君は……」

 かち合う――光を失いつつある月と、命を灯す鈍い月。

 輝く月が見ているのは、羨望――ルジェの嘲笑。

くすんだ月を覆うのは、諦観――ヴィニの沈黙。

「誰が君なんかに教えてやるものか、悩め。悩むがいい、ヴィニ・ゲインズブール! 悩み抜いて絶望に抱かれて死ぬがいい! 死ね! 死ね! ははは! あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」

 常軌を逸した哄笑――ルジェの全身から力が抜けていく。

 緩慢に、されど急速に。

「――カペラ様」

 明確な口調で、呼びかける。

 悪意を滴らせた微笑みを湛えながら。

「君に、報われない死を見せることができて何よりだ。この世界は、そんな理不尽に満ち溢れているんだ。く、くくく。この遊戯は実に楽しかった」

 倒れたミハイルを抱き込み必死にその名を呼ぶユリンカは、ルジェの最期を見ない。揉み合う死の連鎖――ルジェは目をカッと見開いたまま、絶命する。

「馬鹿な奴だ、君は……」

 消し去った表情の中で、ヴィニは乾いた声音を落とした。

そのまま何も言わずに、倒れたニコラを抱き起こす。規則正しい寝息を立てている少年は、命に別状はないように思えた。

だが、ルジェが彼に何をしたのか――ルジェの言葉を反芻し、少年が目を覚まさないことには何もわからない。

 別離がはじまっている彼らを、ヴィニは見つめる。

願わくは、彼女の心が折れないことを。

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