第四章⑥
ルジェは、朽ちて今にも落ちそうなそれの上に立ち、悠然とヴィニを見下ろした。
周囲の壁を伝って跳ぶにしても、長さが足りない。
「僕の《誓呪》を外に対して放っても、君には届かない――けれど、僕自身に対してなら違う」
「どうでもいいな、そんなことは。俺が君を殺すことには変わりない」
「本当に、相変わらずだな。相変わらず僕を省みない、いつも。いつも、君はそうだった……。いつもいつもいつもいつもいつもいつもっ!」
ルジェの表情が突然変化し、激昂して叫ぶ。
鬱積していたものを漉し取ろうとするように、平静さを欠いた声が広間に木霊する。
彼の憎悪に応じたのは――ミハイルだ。
セシエレと組み合ったままのミハイルが、ルジェの叫びに反応し――動きを再開する。
伸びるような斬撃――それを撃ち落とし、セシエレは彼の腹にブローを吸い込ませる。防御の体勢を取らないミハイルは、骨が砕ける音を響かせ、どう、と地面に崩れた。
「……え……?」
てっきり防御されると思って撃った攻撃が容易く入り、セシエレは惚けた声を出した。
「ミ、ミハイルッ!?」
慌てて駆け寄るユリンカをセシエレは制止し、ぐったりとして動かないミハイルに歩み寄る。
「……う、うう……」
呻くミハイルの肩から胸にかけて滂沱と血が溢れ出してくるのを見、セシエレは訝しげな表情を作った。
――肩? 胸?
彼女が撃ったのは、鳩尾より少し下――血相を変えたユリンカが叫んだ。
「セシエレどいて! ミハイルはわたくしを庇った時に胸を傷つけている!」
「何ですって!?」
セシエレは同僚の肩に手をかけると、彼を引き起こした。苦痛に、ミハイルが呻く。彼は、弱々しく意思の戻った双眸に、同僚と主を映した。
「あ……セシエレ……? お嬢、様……お逃げなさい、と言ったのに……」
「これは驚いた、僕の呪縛を打ち破るとは――そうか、君がいるからか」
ルジェは感嘆する。
「俺と君は、元は一つ。君を中和させる役割を持つのが俺だ。そうだろう?」
「何を言うかと思えば……。君と僕の役割はそんなものではないよ、ヴィニ。君は知らないだろうが、あの老人どもにしてみれば、僕も君もただの駒。いつでも切り捨てられる駒にしかすぎない。だから君は里から逃げ出したのではないのか? 彼らにしてみれば、駒は誰でも良かった。それだけのことだけれどね」
ふぁさ、と白が舞う――ルジェが外套を脱ぎ捨てたのだ。
暗い紅の装束を纏ったルジェは、ぶつぶつと何事かを呟く。淡い銀月の燐光――ルジェの全身を、光の粒子が取り囲む。
瞬間、どさり、と何かが倒れ臥す音がした。
「ニコラッ!?」
茫洋とした瞳で立ち尽くしていたニコラが、糸の切れた人形のように、倒れたのだ。その様子に、ルジェは納得したように瞳から諦観を覗かせる。
「忌々しいな、せっかく完成したと思ったのに……結局僕に戻るのか……」
ルジェはそう言うと、姿をシャンデリアの姿から消す。
次に現れたのは、天井すれすれの宙空――ヴィニは彼の意図を悟り、腰を落とした。
天井を力強く蹴りつけ、剣を突き出し、流星を彷彿とさせる突進――まともに受けられないと判断したヴィニは素早く横っ飛びに逃げる。
ルジェが床に到達した瞬間、鼓膜を破りそうなほどの轟音と、飛び散る石片が灰の煙を上げる。衝撃に耐え切れず砕けた剣を捨て、ヴィニが反撃に移るよりも前に、再び姿を消した。
壁がびりびりと悲鳴を上げる。
現れるのは、天――彼は、新しい剣の切っ先を、迷うことなくヴィニに向けている。
「これは君を殺すためだけに編み出した技だよ」
第二陣――あまりの速度に、身を捻るのがやっとだった。
灼熱が脇と腕に走る。
レザーコートが摩擦に裂かれ、ヴィニは苦痛に膝を突く。反撃に振るった刃も空――ルジェの姿はない。
シャンデリアに張り付くようにしてこちらを見下ろすルジェは、さながら蜘蛛だ。
今の一撃は、外されたのではない、外してしまったのだ、とヴィニは悟った。知覚するのもままならい速度で突進をかける――言い換えれば、細かい修正が難しいことになる。とは言え、それがわかったところで次は躱せるのかも怪しい。
見たことのない、ルジェの技――爆発的な破壊力を生むあの技――考えろ、防ぐ術を考えろ。
「君にはわからないだろう、使い捨てになる者の気持ちが。何ら束縛を持たない自由な君には。あの女について行って僕を捨てた君には」
呟き。
小声で囁かれたその声を、耳元で聴いているかの如く、ヴィニは錯覚する。
――あの女――今はもういない彼女の、厳しくも慈愛に満ちた表情が過ぎる。
「俺にはあいつの《誓呪》は届かない、でもルジェには届く――そうか!」
正体に気付き、ぞくりと身を震わせる。
ルジェの周囲を飛び交う燐光――《誓呪》により、己の筋力を強化し――反応速度を上げている。理論上は可能――だが、《ディナ・シー》の誰も近接戦用の《誓呪》など考えつきもしない。全ては《誓呪具》に頼るからだ。
ちらり、とルジェがユリンカたちを横目にする。傷ついたミハイルを、セシエレが背負おうとしている――煌めく銀月に宿る、酷薄。
「嬢ちゃんたち、早くこの場を離れろ!」
ひゅっと風を切る音。
銀月の男が現れたのは――ユリンカたちの上空。天井を床にし、蹴りつける。
「しまっ――」
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