第二章
第二章①
兄の屋敷へ着く頃には、止んでいたはずの雨は本降りになっていた。
華やかなはずの帝都に、暗鬱な雷鳴が轟く。
夕闇が帝都を包み、黒雲が押し潰してくるかのような景色に、ユリンカは嘆息した。
これから一大仕事が待っていると言うのに、幸先が良くない心象になったからだ。
帝都高級住宅区画イェレ区でも、セルトワ本家の建っている一等区画に準じる二等区画に、彼女の兄は邸を構えている。
ルフェルト・セルトワは次期候補に過ぎないが、実質的な肩書きは帝都最高治安機関と称される《帝騎警》副総監だ。そのため、彼は実家から独立し屋敷を構えていた。
立派な門構えは、彼女の兄が確固たる地位を着々と築き上げているように、ユリンカは感じる。
偉大な兄と自分を鑑みて――情けない気持ちで一杯になる。
「どうしてわたくしは――」
言葉の後半は、降り続く雨音に掻き消されて傘を差す従者の耳には届かない。
「どうかなさいましたか、お嬢様?」
ミハイルが訊ねると、ユリンカは小さく被りを振った。部下に弱音を吐くのは、彼女の信条に反する。
「いいえ、何でもないわ。さぁ、参りましょう」
守衛はユリンカの顔を見るなり、鯱張って敬礼した。
ミハイルは守衛に会釈すると、主を屋敷に誘導する。雨音は扉が閉められたと同時に、ピシャリと遮断された。
「どうぞ」
執事は、ユリンカとミハイルを一室に通した。執務室と書かれたその部屋は、彼女の兄の仕事部屋に相違ない。
ユリンカは部屋に入るなり、ビスチェの裾を軽く抓み上げ、会釈する。
「ご機嫌麗しく。お久しぶりですわ、お兄様」
「どうした、ユリンカ?」
細面の青年は、入ってきたユリンカを見るなり、書類を書くのを止める。短く切り揃えられた黒髪は、若い彼を威厳のある風格に仕立て上げている。三十路の一つ手前という若さにも関わらず、数え切れないほどの修羅場を潜り抜けてきた人物だという感想を大体の者は抱く。偉丈夫を覆い隠す枯草色の制服は、《帝騎警》の制服だ。襟元に留められている徽章は、彼の身分を示すものである。
彼の名前はルフェルト・セルトワ――セルトワ家次期当主筆頭候補であり、《帝騎警》の副総監である。
「お前がここに来るのは珍しいな、何か火急の用でも?」
姿勢を正したユリンカは、首肯した。
「単刀直入に申し上げます。《ヴィッカー通り》に《帝騎警》を動かして欲しいのです」
妹の申し出に、ルフェルトは厳めしい表情を作った。
「あの通りに? それは物々しいが、どういうことか説明してもらおうか」
「お兄様はご存知ないのでしょうか? 《ヴィッカー通り》にはとんでもないものが……恐ろしいものが出回っております。わたくしの部下によれば、それは《エリクシール》と呼ばれるもので……《ディナ・シー》の《誓呪》を強化する薬物であると――それは《ディナ・シー》でないものが口にすれば、死に至るものであると――」
ルフェルトは、思案顔で目を閉じた。
それも、数秒の間――再び開けられた時、彼の黒瞳は冷たい光を帯びて妹を睥睨している。
「――知っている。それを《帝騎警》に取り締まれ、と言うのだろう?」
ユリンカの顔が、パッと明るくなる。さすがは兄だ、察しがいい。だが、その後に続いた兄の言葉に、妹は絶句した。
「だが、それは無理な相談だ」
「どうしてですか! い、いえ! それよりも何故知っておられて放置しておられたのです!」
憤慨し反駁する妹から視線を外さぬまま、ルフェルトは口元で手を組んだ。
「あの通りがどういったものか、お前も知っているだろう?」
ユリンカは、兄が言わんとしていることを察し、口を噤む。彼は大仰に頷き、
「そうだ、《ヴィッカー通り》はあぶれた者たちが集う場所――故に、いかに帝都内とは言え、彼らは我らの介入を望まない」
「――お兄様は、《ヴィッカー通り》を切り捨てるとのお考えなのですか」
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