第三章⑧

 ユリンカの頭は、今にも破裂しそうだった。

 椅子に座らされ、目隠しをされる。律儀に、手足まで拘束された。反抗する気も罵詈雑言を浴びせる気概も、彼の顔を見ている内に霧散してしまった。

 見知っているはずの知らない人間に、殺される――。

 恐怖も感じなかった。

 それ以上に、彼が自分に語ったことを、絶えず反芻し続けている。せめてもの慈悲に、と飲まされた麻酔薬も効かないくらい、頭の中は冴えきったままだ。

 怒りも悲しみも湧いてこない――ただ、冷静に思考しているだけ。ああ、なるほど、と妙に納得した心地になる。

 目隠しの向こうでは、躊躇しているのが手に取るようにわかる。彼とて、自分を殺すのにはやはり抵抗があるのだろう。

 ――けれど、殺すのであればさっさと殺して欲しい。自分の存在が悲劇の連鎖であるのならば、嬲らず一思いに殺して欲しい。

 そう願うのは、どうしても止められなかった。彼の話を聞いて、同情してしまっている自分がいる。己の呪わしい境遇以上に、憐憫を覚えてしまっている。そして、彼に決断を強いた者への、激しい憎悪と侮蔑で胸が張り裂けそうだった。

 この場には、ユリンカとミハイルしかいない。しん、と静まり返った――たった二人の処刑場。

張り詰めた緊張感よりも遥かに重苦しい空気が、二人の間を流れている。

「最期に言わせて、ミハイル」

 ユリンカは、真一文字に引き締めた口を崩した。

「……はい、お嬢様」

 震えを隠そうともせず、ミハイルは首肯した。彼は、ボウガンを彼女に向けている。アンザース城の広間で反響する互いの声が、どうしようもなく気持ち悪かった。

「わたくしが死してなお、シェスタさんを人質に取るのであれば、わたくしは決してあなたを許しません、と。そう……お兄様に、伝えて」

 彼女は、泣き言を漏らさない。凛として、本心を覆い隠す。

「……申し訳、ございません……本当に、申し訳ございません……」

 ミハイルの涙声が謝罪する。目隠しで見えなかったが、ユリンカにはミハイルが泣いているのがありありとわかった。はじめて聞く彼の声音に、自然と彼女の口元がゆっくりと大きな弧を描く。

 それは、嘲笑などでは断じてない――優しさの込められた笑み――。

 ユリンカの、その笑顔があまりに綺麗で――カラン、と何かが床に落ちる。

「どうしたの、ミハイル? わたくし、あなたにだったら命を絶たれてもかまわない」

「……申し訳ございません……申し訳……」

 ミハイルは、膝から崩れる。

堪えきれなくなって、口元を押さえた手のひらから嗚咽が漏れた。

何も考えないようにしようとしていたのに、次から次へとユリンカと過ごした思い出が、罪悪感が、奔流となって押し寄せてくる。

 膝元に転がった弩に、ポツポツと雨の如き涙が降る。

「僕には……できません……」

 どうして――どうして、もう一人の妹のように接してきた少女を、この手で殺めることができようか。どうして、無慈悲な鏃で貫けようか。

教会に入ったユリンカを射った時も、だ。長い逡巡の果てに、故意に狙いを外した。それでも、直線的に突き進んだ矢を誰かが阻んだのを見て、取り返しのつかなくなる前に凶刃を止めてくれたことに、感謝をした。

「やっぱり……僕には、駄目です。僕には、あなた様を殺せやしません」

 今この少女を殺さなければ、妹――シェスタに取り返しのつかないことが起こってしまうくらいはわかる。心を鬼にせねばならないことも、頭では理解していたつもりだった。

 それでも、長年使えた主への忠義――否、これは親愛の情だ――の方が、微かに勝ってしまった。

 そのことに気付いてしまった今、引き金を引くことなど何故にできよう。

「ミハイル……」

 何もできない小娘に何を言えと――言葉が続かない。

 目隠しされていることが、手足を拘束されていることが、恨めしかった。暗闇の向こうでは、ミハイルが嗚咽を噛み殺し――自分に泣いていることを悟られまいと涙をこぼしているのに、何もできない自分が悔しかった。

「ミハイル、ごめんなさい」

 ただ、謝ることしかできなかった。

 セルトワという家が、彼にこのような重責を負わせた。ならばそれは、ユリンカ・セルトワの罪でもある。謝罪して、赦されるというものでもない。

「お嬢様、どうか――どうか、僕に謝罪などしないでください。これは、僕の心の弱さが招いたことです。どうか、謝らないでください。そのお心だけで、僕は……」

 ミハイルは涙に汚れた顔を拭い、ユリンカを見――息を呑む。目隠しから、涙が頬を伝っていたからだ。少女は己の流した雫に、気付いてはいなかった。

「お嬢、様……泣いて、おられるの、ですか……?」

 その声は、ユリンカに届くにはあまりに小さかった。

 ふと、ミハイルは微かな音を聞いた。その音を聴けたのは、僥倖だろう。それほどまでに――例えば、星屑の瞬きのように――小さかった。

「危ないっ!」

 そう叫んでいた時にはすでに、身体が動いていた。

「え?」

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