第二章⑧
ユリンカの部屋に戻ると、ヴィニはソファーに腰を下ろした。
部屋に据え付けられた柱時計の長針が、規則正しく室内に静寂を刻んでいる。時刻を確認すると、七時二十分頃を指している。帝都は、日の入る時刻が大陸の中でも極めて早い位置にある。
窓の外は、当然のように宵が幕を下ろしている。
「遅いな、雇い主は」
セシエレが淹れてくれた紅茶を一口飲み、ヴィニはそう言った。
セシエレはすぐには応えず、レースのカーテン越しに外を眺める。昼間の雨が嘘のように、ガラスの外側は星が瞬いている。窓の外は、女王と表現されるほどの美しさを誇っている、夜の帝都だ。が、今の彼女には、あまり響かない。
「嬢ちゃんがどこに行ったのか、君はわからないのか?」
ヴィニは紅茶に砂糖を入れると、再び口に含む。味が好みにそぐわないのか、微妙に首を傾げる。
セシエレは窓の外から視線を外さずに、答えた。
「ルフェルト様のお屋敷はもう出られたそうです。後は、ニコラの入院している医院か、《ヴィッカー通り》の孤児院か、のどちらかかと。医院の方は入れ違いになったようですが」
《ヴィッカー通り》から医療施設へと面会へ行き、セルトワ邸宅へと戻った時、ユリンカの部屋には誰もいなかった。だが、あらかじめ彼女はセシエレに、ルフェルト邸に寄りその後医院に寄って帰ると打ち合わせていた。
「ミハイルが一緒ですから、大事はないと思いますが」
その口振りから、彼女のミハイルに対する信頼振りが窺える。彼女は、主と同僚を乗せた駆動車が何者かの襲撃にあったことを、知らない。
セシエレは、カーテンで窓外を遮ると小さく溜息を吐く。頭の中では、ぐるぐると様々な思考が渦巻くが――ユリンカのことが心配なことには、変わりなかった。
「あの坊主のことなんだが」
ヴィニはおもむろにそう切り出すと、セシエレは彼の言う坊主がニコラ少年であることに思い当たる。次いで浮かぶのは、人が結晶化するという例の謎だ。
セシエレはヴィニの方へ向き直り、居住まいを正す。
「彼――ルジェの《誓呪》だとするならば、効力を消すには彼を殺す。少なくとも、あれが薬の類でないならば、無尽蔵に湧き出る厄介な代物に成り代わる――」
セシエレは訥々と溢し――ヴィニは頷いた。
「問題は……ま、単純なことさ。ルジェがどこに潜伏しているかだよ」
セシエレは褐色の頬に指を添えると、眉根を寄せる。
「ヴィニ殿は……その……あの男の影、なのですよね? 表裏一体だとお教えいただきましたが」
ヴィニは肯定に首を振った。口元は苦々しい笑みが貼り付けられている。
「そう、本来ならば俺たちは一個の存在になるはずだった。そう、造られたからだが。そうはならなかったのは……神様とやらの粋な計らいかもしれないな」
紅茶を啜る音だけが、静寂の中に満ちる。
「造られた?」
耳聡く、セシエレはその単語を拾い上げる。禍々しく、歪な空気を感じ取ったためだ。
「俺は《シェラー》であいつは《ディナ・シー》――俺の方が身体能力は上で、あいつには《誓呪》がある。おかしいとは思わないかい?」
月色を模したくすんだ瞳で見つめられ、セシエレは首肯する。考えてみれば、通説では《シェラー》という存在は、《ディナ・シー》の滓であるという。何ら力を持たず、全てが劣った存在――それが、はぐれ者たる所以だ、というのが認識だ。
「まさか……あなたとルジェは同一のものから分かたれた別個の存在? 馬鹿な……そんな所業が神ではない人間に許されるはずが――」
「その通りさ、俺たちは元々が《ディナ・シー》の盟主たる存在になるべく、一個の存在として造られたもの……それが何の因果か、計画は失敗。俺とあいつが産まれたというわけだ。そして、互いに欠陥があった。
……肉体しか取り得がないからな、俺は。はぐれ者の由来通りの、残り滓ってことだ。つまり、《誓呪》の術者として絶大な力を持つ――わかりやすく言えば、制約を課さずとも《誓呪》を使用できるルジェが残され、俺は廃棄された。そんなところだよ」
皮肉を顔に貼り付ける。
その笑みを、セシエレは自嘲だとは思えなかった。面白がっている――そんな印象を受ける。
短い付き合いながら、ヴィニが享楽的なものを好む性格であることは、彼女は薄々察していた。
「まぁ、俺はそんなこんなで《ディナ・シー》に追われているんだよ。あいつはどういうわけか俺に固執しているんでね。それが、俺の狙われる心当たりって奴さ。あいつらには俺を殺すという至上命題がある。他のはぐれ者ならともかく、《ディナ・シー》の内情を知っている俺が目障りなのさ。全員が全員ってわけではないが、元より俺の顔には反応するようにいじくられているってわけだよ」
「そのようなことが可能なのですか? そもそも、《誓呪》とはそこまで大それたことをし得る能力なのですか? 人の心、頭の中までも洗脳す――」
セシエレは皆まで言い切れなかった。静寂の中に乱入してきた者がいる。
「――ミハイルッ!?」
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