第二章⑨
慌てて彼女は同僚へと駆け寄る。
息も絶え絶えに部屋へ入ってきたシェルレアン人の青年は、満身創痍といった風体で室内に倒れ込んだ。
「その傷は一体どうしたの!? お、お嬢様――お嬢様は!? ユリンカ様はどこなのです!?」
ミハイルの入ってきた扉の向こうに、彼女の主――ユリンカ・セルトワの姿が見当たらない。セシエレは同僚の肩を激しく揺さぶり、詰問する。
「答えなさい、ミハイル・ディアレ! お嬢様はどうされたのですか!?」
ミハイルは咳き込むが、セシエレは揺さぶるのを止めようとはしない。彼は再び咳をし、弱弱しく告げる。
「す、すまないセシエレ。お嬢様は――拉致された」
か弱く息を吐くミハイルを抱きかかえ、セシエレは絶句した。
「ミハイル、どういうことですか? お嬢様が拉致されたとは……っ!」
低く昂ぶった声音が、ミハイルの身体を叩く。
「……ぐっ」
シェルレアン人の青年は、赤く滲んだシャツを上下させ、喘ぐ。全身を、鋭い痛みが貫いているようだった。
そんなミハイルに、セシエレは質疑を止めようとはしない。主が誘拐されたとあっては、平静など保っていられなかった。
ミハイルは、切れる息をどうにか繋ぎ、事情を説明する。
「医院の、帰り……何者かの襲撃にあって、事故を起こした。ぼ、僕の手には負えなかったから、戻ってきたんだ。す、すまない。不覚にも……僕は、僕は……っ!」
歯を軋ませ、義憤を迸らせる。
ミハイルから漂うのは、自己嫌悪――ふと、セシエレはまじまじと彼の顔を見直した。何が脳裏に引っかかったのかは、よくわからない。ただ、何か――。
――冷静に見えて直情的な同僚は、主を放置して戻ってくるだろうか? 自分のよく知るミハイル・ディアレは、主に危険が及んだ際には何事を差し置いてもユリンカ・セルトワを助けようとする男ではなかったか。
否、それよりももっと明確な違いがあるはず――。
彼女の中で疑念が鎌首をもたげた時、不意にぐいと肩を背後から引っ張られる。誰だか確認するまでもなく、いつの間にそこにいたのか――ヴィニだ。
「――っ!?」
声を上げる間もない。咄嗟に身体を引いたセシエレの喉笛があったはずの空間を何者かの手が掻き切る。
銀色の煌めき――彼女の腕の中で苦しく喘いでいたはずの男が、無表情な瞳を瞬かせ、口の端を陰惨に吊り上げた。
ミハイルから手を離すのも、また一瞬。
瞬間に銀色がひるがえる。流線を受け流すセシエレは舌を打ち、しなやかな筋肉をバネにして跳躍し、着地した。
部屋に敷かれた絨毯の影響か、さほど音は立たない。
ミハイル・ディアレであるはずの人物は、ゆらりと揺らめくように立ち上がる。
「なるほど、暗殺者か」
ヴィニは男の身のこなしに、合点のいった表情を浮かべる。
ミハイルの容貌を模した男は、手にした短刀を弄びつつ、ゆっくりとした足取りで後退した。
「惜しいな、今ので殺せると思ったんだがな。やるな、お前……さすがは、ヴィニ・ゲインズブールといったところだ」
襲撃者は、セシエレを避けさせた功労者を誉めそやす。元の声を潰すかのような抑揚のない、奇妙に擦れた声音だ。
ヴィニが何かを答える隙間も与えず、駆け抜けた者がいる。絨毯を沈ませ、接近した黒い風――セシエレの上段蹴りが、まともに暗殺者の右脇腹に命中する。だが、決定的な打撃を受ける寸前に、襲撃者は自ら吹っ飛ぶようにして、窓際に逃げた。
蹴りの衝撃を、最低限に和らげるための動きだ。
「ぐっ……危ない危ない。さすがにまともにやるつもりはないよ、ユリンカ・セルトワの従者」
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