第二章⑪
「っ!」
セシエレは押さえつけたはずのシフ・ジフの肩が、無気味な振動を伴って手応えを失くすのを感じた。軟体動物のように、ぐにゃり、と彼女の肩が異質な感触を伝える。
強固な力で押さえつけていたはずのセシエレの腕から逃れ出ると、シフ・ジフは全身の力を抜く。
「逃がすか……っ!」
セシエレの激昂を嘲笑い、シフ・ジフの身体から力が抜けていく。弛緩した両腕は容易く束縛から脱出する。セシエレの腕が掴まれる――拘束していた手によって。
「無駄さ、使用人。剛よりも柔――それがわからないお前でもないだろう?」
シフ・ジフが、ほくそ笑む。
その刹那――セシエレは、自身にかかる浮力を感じた。
視界に、ようようと立ち上がるシフ・ジフの姿が映る。
投げ飛ばされた、と知覚した時には身体が次の行動に移っている。無防備な体勢のまま、敵対者に突っ込むよりも早く、セシエレは宙を蹴る。何もない空中――と思いきや、足場になるものが舞っているのを視界に入れたからだ。
「ありがとう――ございますっ!」
ヴィニによって投げられたソファーを足場に、落ちる方向を変える。ぐるぐると視界が廻る。絨毯にソファーが落下するのと、セシエレが着地するのはほぼ同時。ずぅん、と重い音を響かせ、ソファーは綺麗な形で床へ落ちる。
「へぇ、やるじゃないか」
外した関節を戻しつつ、シフ・ジフは感嘆する。付け入る隙は与えず、じりじりと窓際に後退していく。
「逃がしませんよ、シフ・ジフ――お嬢様とミハイルはどこです?」
「はぁ? 逃がしません、だと? 何調子に乗ってんだ、ネィグロ? わかってんのか? お前は、オレに、もう二回は殺されているんだよ、二回もだ。そこにいるヴィニ・ゲインズブールがいなければな!」
シフ・ジフはミハイルを模した黒い瞳を爛々と光らせ、激しくセシエレを罵る。ネィグロ――矜持を傷つけられる言葉を投げかけられても、彼女は微動だにしない。虎視眈々とセシエレの隙を窺っていたシフ・ジフは舌を打った。
元より、深入りするつもりなどなかった。目下の標的は、ユリンカ・セルトワの従者であるセシエレ――ヴィニ・ゲインズブールの存在は目障りだったが、攻撃してくる気配もない。とは言え、無視できるほどの小物でもない。大口を叩いたが、セシエレとは伯仲した実力を保持していることは、予測できた。差は、自分の方がどれだけまっとうでない戦術を計れるか、否か。
ヴィニ・ゲインズブールと同時に相手をするのは、やはり得策ではない。ベランダコートの傍に陣を取れたのは、自分を褒めてやりたかった。
「何度でも訊きます。お嬢様とミハイルはどこですか? 知っているのでしょう、《変貌の魔女》?」
じんわりと斬りつけられた腕から血の滲むのを感じつつも、セシエレは問う。いつでも襲いかかれるよう、筋肉を撓めながら。
「知らないわけはないでしょう、《変貌の魔女》。あなたは、ミハイル・ディアレの姿でこのセシエレの前に現れたのですから。さあ、言いなさい」
「これだからお前のような奴は好きになれないね」
《百貌》は悪罵を吐き、後ろ手に内から掛かった鍵を外す。――もう少し。
「あなたの好き嫌いは関係ありませんね、答えなさい」
「やなこった――聞きたいなら、オレを殺して死体にでも聞けばいい」
――平行線だ。
何度押し問答しても、埒があかない。
シフ・ジフに答えるつもりのないことは、一目瞭然だった。
セシエレがそう判断し、一瞬で間合いを詰められるように下半身に力を込めた刹那――。
「面白そうなことやっているな、泣く子も黙る《シェルレアンの六貴》――セルトワ家の邸宅で」
瞬間的に、シフ・ジフとセシエレの身体がぴくり、と震える。
シフ・ジフは、内心歯噛みする。
今宵のユリンカ私室は、客人を招き入れるのを趣味にしているようだ。無造作に扉を開け、踏み入ってきたのは――。
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