第一章⑧
夕闇の迫った《ヴィッカー通り》の空気は、常から澱んでいる。
昼前から降り出した雨はいつの間にか止んでいたが、帝都を覆った憂鬱な黒雲はふてぶてしくもまだ居坐っている。
それも、奥まったところまで入り組めば、度合いを増すのは当然だ。すれ違う者の多くは、病んだ腐臭を放っている――この界隈まで入れば、大体の者が麻薬に手を染めているに違いなかったし、スラムに出回っているという例の薬に蝕まれているようにも見える者もいた。
彼らは一様に、口から泡を吹き、額を押さえている。中にはすでに事切れている者もいるだろう。
ヴィニもセシエレも、彼らに対し特に思うことはない。各地を渡り旅人生活を送っていた彼には珍しくも何ともない風景であったし、貧しいティヴォールの農村で幼少期を過ごしたセシエレにとっても同様だった。
貧しく病んだ空気に、二人とも馴れていた。
――この掃き溜めに、主であるユリンカを連れてくることはできない、とセシエレは改めて考える。キエランの教会があるのは、通りの入り口部分に過ぎない。《ヴィッカー通り》の中にあっても、極めてまともな場所だ。
「なぁ、君はどうしてそんなに目立つ格好をしているんだ?」
ヴィニは、傍らを歩くセシエレに話しかける。彼女の服装はタキシード――つまり、平常通りの、貴族の従者然とした装いだった。横を行き過ぎる人の多くが襤褸切れと言っても過言ではない。ヴィニの着用している服も、小奇麗にしているつもりではあったがところどころ擦り切れ、薄汚れている。
その中で、清潔感のあるセシエレのいでたちは、《ヴィッカー通り》では浮いていたのである。
「目立っていた方が、得策ですから。――金があると思わせておけば、寄ってくるものです。それに、貴族とパイプを作りたがっている情報屋の類は五万といますし、何より服を着替えている余裕は私たちにはありません」
「なるほどね」
ヴィニは納得し、周囲を見渡した。
《ヴィッカー通り》の最深区画――各地を流れ歩いてきた彼にとっては、珍しくもない風景だ。今にも斬りかかってきそうな目つきでこちらを観察している男たちにも、全く物怖じしない。
「で、目星をつけている情報屋はいるのか?」
「ええ、います。これから会いに行くのですよ、彼女――エレクトラ・シモーヌ――あなたならご存知かと思われますが?」
セシエレは、女の名前を舌に乗せた。ヴィニはセシエレの示した名前を吟味し――軽く首肯する。
「聞いたことあるな。確か、帝國でも随一の情報屋だったか?」
セシエレは歩く速度を落とすことなく、頷いた。エレクトラ・シモーヌ――裏社会はおろか、政財界ですら彼女の名を知らぬ者はいないと称される。彼女の売る情報は城一つを落とせるほどの価値があると言われており、国内外問わず彼女を飼いたい者は多い。
「異様に偏屈だとも聞いているが?」
「知っています。ですが、彼女は我が主ユリンカ様と一応の面識はあるので」
セシエレはそこで言葉を区切り、苦笑を浮かべた。ヴィニはその笑みの意味を汲み取り、合点のいった表情を作る。
「面識ある程度じゃ、彼女は動かせないか」
「そうです。ですが、彼女ほどの人物でなければ、《ディナ・シー》の情報を得るのは難しいでしょう。ところで、聞きたいことがあるのですが」
「何だ? 何でも、というわけにはいかないが。仮にも君は職場の先輩だ、敬語は堅苦しくて頂けないんだが」
「申し訳ございません、これは地なので気になさらず。質問というよりは、個人的な興味なのですが。――どうしてあなたは、お嬢様に雇われる気になったのです? お嬢様はああ言っておられましたが、断る機会ならいくらでもあったはず」
「断る理由がない。それだけさ」
ヴィニは口の端を吊り上げる。
皮肉――ではなく、彼が楽しんでいるかのようにセシエレは思えた。
彼女は、何も言わない。わずかばかりの付き合いではあるが、彼の雰囲気はその言葉通りの印象を与えるように感じたからだ。
ふと、ヴィニはスラムの住民たちを見て、足を止めた。くすんだ月色は訝しげな光を放っている。額を押さえた一人の男へ歩み寄ると、彼の手を無造作に取った。
完全に意識がないのか、抵抗はない。それどころか、
「――なっ!?」
セシエレが目を剥く。
彼女が驚くのも無理はなかった。
何故ならば、青年の腕はヴィニに掴まれた瞬間、澄んだ音を響かせ砕けたのだ。人間の腕だったものの白い粒子――例えるならば、水晶のようにも思える。
「おいおい……どうなっているんだ、これは? おい、しっかりしろ。生きてるか?」
ヴィニは腕が砕けてしまった男の頬を軽く叩く――小さな亀裂が入ったように思えた。青年の顔を覗き込み、ヴィニは首を横に振る。虚ろな彼の瞳は、何者も映してはいなかった。
「これは――一体どういう……《ディナ・シー》の強化薬とは、このような作用ももたらすのですか? 人が結晶化するなど――」
「俺も知らないな、これは。《エリクシール》でこんな死に方はしない。嬢ちゃんの手前黙っていたが、あれに順応しない奴は内側からボンだ」
ヴィニの説明に、セシエレは努めて冷静に頷く――見方によれば、残酷な表現を主の少女に黙っていた礼のようにも見える。
「いずれにせよ、シモーヌのところへ急がなければなりません。それが《エリクシール》とやらのせいであるかそうでないかは別にして――それが何なのか、我々は知る必要があります。それも、なるべく早急に」
「そうだな、急ごうか」
それきり二人は黙し、《ヴィッカー通り》を歩いた。迷路を想起させるほど入り組んだ薄汚く暗い路地を右へ左へと曲がり、一つの民家の前でセシエレは立ち止まった。
「ここです」
そこは、レンガがところどころ崩れ落ちた無残な家だった。
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